「ずっと、せんせいでいて」

ちょっと長いけど、僕の電子日記に残しておきたいと思ったので、今週の「教育ルネサンス月曜版」より引用。ごめんね読売新聞。

 教師1年目の時、担任した(小学)2年生の教室に、言葉が少し遅れ気味の女の子、マキちゃんがいた。
 ある日、教室の黒板に、「マキ、死ね」と書かれる事件が起きた。子どもたちに向かって、「誰だ、こんなことをしたのは!」とどなった。しかし、子どもたちからは何の反応もない。マキちゃんは涙をためてうつむいている。時間だけが過ぎていった。
 どうして何も言ってくれないのか。自分と子どもたちはわかり合えていたはずなのに。
 マキちゃんのいいところを子どもたちに話してみたらどうだろうか。そこで翌日、子どもたちに次のような話をしてみた。
 「みんな、マキちゃんが毎日かかさずヒマワリに水をあげているのを知っているかな?自分のヒマワリだけじゃなくて、水をやり忘れていたお友達の分まであげているんだよ。そんなマキちゃんのやさしいところを、みんなにもぜひ知ってほしいな」
 その翌日、マキちゃんのヒマワリの芽がすべて抜かれていた。
 子どもたちの本当の気持ちをちゃんと理解できていると思っていた。しかし違った。そう思っている自分に酔っていただけだった。子どもたちのマキちゃんへの思いなど、私はわかっていなかったのだ。
 マキちゃんは、やがて転校してしまう。転校する時にお母さんが「先生、どうかあのことは気にしないでください」と涙をためて言ってくれた。
 申し訳なさと悔しさで私も涙が出た。そして「せんせい、ずっと……せんせいでいてね」というマキちゃんのお別れの言葉は、「ずっと子どもたちを担任する教師であり続けよう」と私に決心させた、忘れられない大切な言葉である。

この記事「こどもの心」は、「教育ルネサンス月曜版」で毎週連載していて、結構昔からひそかに楽しみにしている記事だったりします。だいたいいつもは、何かしら問題を抱えた生徒が、筆者である先生とのやりとりを通して前向きに変わっていく、解決の糸口を掴んでいくといった、読んでいるだけで救われるような、心あたたまる学校現場でのエピソードが記されている連載なのだけれど。今週の連載はそれまでのと毛色が違ったので、そのせつない内容もあり、僕の中で強く印象に残ったのでした。
他人と分かり合うなんて土台無理な話なんだ、と突き放してしまえばそれで終わってしまうし、僕も他人とのコミュニケーションなんてそんなものだとかなりの部分思って(諦めて)いるけれど、そういう隔絶のもっと先に、(人格的な意味での)教育というものがあるのだとしたら、教育とはなんて非業な領域なのでしょう。
この話にしたところで、思わず子どもたちを怒鳴ってしまったり、マキちゃんのいいところをみんなに教えるという先生のやり方は、人としてはけっして間違っていないし、時と場合とクラスが違ったら、もしかしたらうまくいったかもしれない。
けれど、文脈だけから判断すると、子どもたちには、「言葉が少し遅れ気味」というマキちゃんの理解不能な異質さに対する根本的な恐れがあって、それに、自分には理解できない理由によって、先生をはじめ周りの大人たちに大切に扱われていることに対する僻みのようなものも加わり、教室という閉じられた空間と、児童特有の狭隘な世界のなかでみるみる膨らんでいったわだかまりが、集合的悪意へと変質し、自然発生的に「マキ、死ね」といった残酷ないたずらに繋がり、さらにはマキちゃんのヒマワリの芽が全部抜かれるという事件へ発展してしまったのではないか、と思われます。
かといって、マキちゃんを大切にするななどと誰が言うことができるでしょう。教師である前に人である以上、それは疑いようがない善です。しかれど、差別と区別の違いを子どもたちがどうして理解することができるでしょう。「そんなマキちゃんのやさしいところを、みんなにもぜひ知ってほしいな」という言葉を、子どもたちが「自分のいいところを先生はちっとも知らないじゃないか」という風に受け取ってしまうことを、誰が責めることができるでしょう。
ギャルゲーの選択肢のように、A子ちゃんとねんごろになりたいがためにB子ちゃんを冷たくあしらうという方法論が現実でもまかり通れば、なんて生き易いことでしょう。好感度にマイナス値がない世界なら、好感度ゼロの娘にいくら冷たくしようが意味はありません、主人公という権力者にとって、失うものはなにもありません。しかし現実というものは、好感度にマイナス値がある世界。しかもゼロであっても失うものはあり、マイナス10に10を足しても決してゼロには戻りません。そしてプラスとマイナスは反作用の関係にあって、ある特定の子に気を配るだけで、それを見た他の子は好感度を下げてしまいます。
閉じられた教室、狭い人間関係、小さい世界のなか、先生という権力者が、人であろうと教師であろうと、子どもたちにとってはただひとつ、「自分のことをどのくらい見てくれているのか、どう思ってくれているのか」というテーマしかそこには存在していません。先生が他の子のことを見ていれば、それは(その分だけ)自分のことを見ていないということであり、他の子のいいところを先生がみんなに報告すれば、それはみんなに報告してくれない自分のいいところは知らないということです。
こんな精神的にタイトすぎる場に、果たして僕は教壇で30分と立っていることもできやしないだろうと思います。考えすぎでしょうけどね。本当、興味はあったけど面倒だったので大学で教職課程を切って正解だったなと、今更ながら思ってしまいます。
ビジネスであったなら、上司は優秀な部下を取り立て、使えない部下は切り捨てる、「選択と集中」っていうんでしたっけ?この手法で万事事足りるでしょう。問題となるのは部下を見る目を含めた上司自身の総合的能力です。そういった意味で、指導力不足の教師を"切捨て"、指導力の優れた教師をスーパーティーチャーや授業の達人として認定しよう、だからみんな頑張れ!という風潮は、ビジネス流の「選択と集中」の応用なのでしょうね。
でも、指導力と教育力というものは、ある部分までは同じだろうけれど、ある部分からは違ってくるはずです、きっと。それじゃあ教育力というものはいったいどうやって測ったらいいのだろう。それは例えば、マキちゃんをハッピーエンドにすることができるかできないかで測ればいいんだろうか。でもそれはすごく違う気がします。
そもそもマキちゃんが転校してしまうのは彼女にとってバッドエンドとは限らないでしょう。幸いにも理解のある転校先に恵まれ、クラスのみんなと仲良く楽しい学校生活を送ることができたという可能性もあるじゃないですか。それは彼女の人生のささやかな谷間、人の痛みの分かる素晴らしい人格を形成する良い経験になったかもしれません。
マキちゃんに酷く当たった元クラスにしてもそうです。今回の件をきっかけに、クラス全体とまではいかなくても子どもたちそれぞれが、それより少しは成長して、多少なりとも広い世界と人間関係を手に入れたときに、一抹の苦味をもって当時のことを振り返れることができたなら、それは彼の人格形成にとって確かな教育的効果、とまではいかなくとも意味はあると思います。
そして、先生をして「ずっと子どもたちを担任する教師であり続けよう」と決意させるにいたったこの経験は、それより後に担任したクラスのある生徒を救い、ある生徒を善く導くことに繋がっていくとしたら、それは、少なくともバッドエンドではないんじゃないかと思うわけです。

「せんせい、ずっと……せんせいでいてね」

そもそも教育に終わり(エンド)はない、というオチなんですけどね。
「バッドエンドでは終わらない・終わらせない」という"意地"みたいなものが、たぶん教育の本性で。教育というものは、だからこそ(人生過程として)ハッピーエンドを当然的に内在しているという意味で、それは非業な領域であると同時に、幸福な領域でもあるといえるのです。
だから、まぁ、頑張ってくださいよ先生方。