さくらむすび

さくらむすび

さくらむすび

なんて疲れる読み物でしょうかね、これは。
例えば、とてもひとりで食べきれる量ではないパフェを食べている、と思っていたら僕自身がそのパフェの中に入り込んでいて、たまたま顔の辺りに当たっているバニラを食べているに過ぎなくて、透明のグラスを通して見える僕がいるはずだった外の世界には、設定や隠喩や因縁めいたモノが確かに徘徊しているんだけれども、それらはガラス模様でぼやけているし、バニラが目に染みてもくるし、正直どうでもいい、どこまでも甘くて頭が痺れる心地にずっと浸っていたくなる、そういう悦楽めいた疲れに精神を苛まれるような、ただの読み物。
作品が"そこ"にあるのではなく、"ここ"にあるように(プレイヤーが)することで(初めて)所定の作品と"なる"、きちがいじみた都合の良さ、箸の上げ下げまで手伝ってくれるような恵まれた環境を受け入れた上で描かれるものが、物語性をあっさりと廃した"ただの日常"であること、その狂ったような穏やかさに気だるくなり、その"あたりまえ"は僕にとって胃にもたれるほど幸せなものでした。
その間延び具合は、ささやかなゲーム性ですらぽとりと捨て去っています。ノベルゲームとすらもはや呼べないように僕は思うんです。確かに、背景へ回り込む形でキャラクターが描かれ、画面全体を頁に仕立てて形式段落ごとに著述されるテキストその都度の感情によって、それは表情を変えていったり、シーンによってイベントCGが挿入されたりします。しかし、そもそもテキストの著述姿勢がグラフィックと連携しようとしていないのです。ヒロインが表情を赤らめる、頬を膨らます、笑う、悲しむ、それはグラフィック(記号としての表情)をプレイヤーが認識するだけで事足りるものです。けれどこの作品の著述は、それをいちいち「どんな風に」という具合で"きちん"と表現する。それがとても繊細で印象深いものであるだけに、かえってグラフィックの意義・役割というものを貶め、無意味化しているのです。
そう、それはお世辞にも工夫された絵本の「動く挿絵」に過ぎなくて。確かに鑑賞するに越したことはないし、また鑑賞するに値する素晴らしく僕好みのキャラクターではあるけれども、果たしてゲームとして意味があるものなのかと、そもそも物語自体(観念的な意味合いにおいて)ほのかな追憶だけを残して消え去ってしまっている時点で、それはただ日常それ自体の甘みを記念碑としてプレイヤーの心象に打ち立てる、その程度の、別になくたって構わない。
それはまた、どこまでもやさしく憧憬的で、美しくも儚い音楽も果たして証明しています。音楽的演出というものをほとんど台無しにして、無邪気に繰り返され感覚をどこまでも懐古させるBGM。夢は、あくまで夢であって物語を紡がない、そこに漂うのは日常という懐かしい夢であって、グラフィックも、音楽も、ゲームという形式自体がその前ではうたかたの免罪符(世に送り出されるための使い古された便宜)に過ぎないのではなかったかと、疑ってしまいます。改めて物語を創らない、ただの読み物。

――好きな人が自分のために恥かしい思いをして選んでくれたものが、期待通りじゃないなんて、ありえない。ありえないんだ、見たくない未来など。彼女の世界には、僕達の世界には。だって、都合が良すぎるだろう?――僕が紅葉の幼なじみとして生まれてくることができた、こんな世界は。ほら、僕は今、こんなにも幸せだ。

"桜結び"が結ぶのは、どうしたってプレイヤーとこの作品であって、恥かしいかそうでないかはともかくとして、自らの意思で選んだ僕らにとっては、「さくらむすび」が期待通りじゃないなんて、ありえない。僕らは今こんなにも幸せだからこそ、「さくらむすび」を選ぶ(作品として見なす)ことができたわけなのですから。形骸化し、あってなきがごとき「化け物」としてのゲーム性をもって、プレイヤーを結びつけ、それで僕らにいったい何を与えてくれるかといえば、それは顎が痛くなるほど甘く、飽き飽きするほど鮮やかで、胃が重く感じてしまうほど幸福に、主人公謹製の「ブンガク」とやらが夢のような感傷でなぞってくれているものです。
通常のノベルゲームのそれよりひときわ、それは良い意味でも悪い意味でもテキストが枢要であって、その知的で自省的な分析眼と、青臭くも若さ薫る感性で著述される、饒舌で落ち着いたテキスト。他愛のない友達同士のやりとりを異様に掘り下げ、舞台上のたった数秒の瞬きに何十頁も語られる、充溢し内に膨張する宇宙は、多くの外のものを排除していきながらまばゆく存在していくものです。
どのような異常も、平凡も、狂気も、絹のようにしなやかなテキストへするりと取り込まれ、音楽・グラフィックとによってどこまでもぽかぽかと薄伸べられた、日常その総てがただ、幸せで、美しい。結局のところ、劇中で語られることのなかった主人公とそれを取り巻く真相、多かれ少なかれ醜い大人の事情(と思われる)というものは、醜いから描かれなかったのではなく、描かれなかったことは(相対的に)美しくないことだとしてしまいたい僕らの共感に根ざすものではないでしょうか。僕らにはどうしたって、醜い部分、人に見せたくない(恥かしい)部分があるけれど、そういうものを織り込んだ上で生活していて、そういうものを根ざした上で「さくらむすび」を今こうしてプレイしている。だからそこには醜い部分なんて関係がないわけです。当然のことで、今さらのこと。とっくの前提なんですね。
とっくの前提。「桜の樹の下には屍体が埋まっている」。その屍体がどういった事情でそうなったのかは、誰も気にしません。劇中に出てくる「桜の国」とは、"桜結び"で結ばれることによって誕生する「さくらむすび」という作品世界であって、「桜の君」は僕というプレイヤーのことでもある。パフェのグラスの中から見た外の世界は謂われなく醜い、だからこそ、僕のいるこの世界は当然のように美しくいられる。その世界と住人が誰かにとって蔑まれるものだということは、きっとプレイヤーの誰もが少なからず自覚している、どうしようもないことなのだと、そういうことなのではないでしょうか。
当然のこととして自覚している、わかっている、でも今さらそんなこと言い立てたりはしないよ。つまり暗黙の共犯(共感)、なんですね。暗黙のことだから、形のないものだから、振り払うことのできない「化け物」でい続けるのをどうすることもできないということのも、おそらく劇中で語られていた通りなんでしょう。

「ああ、別に否定的な意味ばかりで言っているわけでもないんだ、不安定っていうのはさ。誰にでも不安定な部分はある。ただ、おそらく誰しも持っている不安定な部分を突いている気がするんだ、これは。わかっていてやっているなら人が悪い。天然ならタチが悪い」

きっと、天然であれたらいいなと願いながら、わかっていてやっているんだと思うんですね。人もタチも悪いんですよ、この作品は。酷い作品だ、悪質極まりない、吐き気を催してしまうよ、そう言い放ってしまえたらどんなに楽だろうかと思いながら、僕はこの作品をずっと大切にしていくことを予感するのです。

常に相反するものが等しく混在し、ゆがんだ調和を保つ。ひどく醜悪で、しかし居心地の良い空間。

主人公は、どのシナリオにおいても、桜に桜結びを結って貰い、卒業していくことになります。しかし必ずしも将来に明瞭な希望があり、安定することを確約したものではありませんでした。果たして彼は本当に桜の国を出て行くことができたのでしょうか。
そして、僕らは桜の国を出て行くことができるのでしょうか。
「この世界を嫌いになれれば、抜け出せるよ」
僕はこのテキストが(特にセックスシーンが)そう言いたがっていて、つまり皮肉に感じられて仕方がありませんでした。どう見ても幼女だとか、おもらしだとか、極めて遺憾に思うべきだと思わないでもありません。というか生理的に嫌うべきなんでしょうね。無闇やたらと居心地が良すぎて気味が悪い。訳もなく主人公を愛しすぎる君が悪い。
つまりは、僕らプレイヤーが、それはおかしい、ありえない、真相はなんなのだといった美しくなさそうな部分へと繋がりかねない理知を、自らの心へ映し(移し)込めてしまっているからこそ、この作品はこうも完膚なきまでに清らかで美しくありえるのだということ。もしかしたら僕らは、「さくらむすび」という"桜結び"を結ばれた(プレイした)ことで、実は桜の国を出ていたんじゃないか。桜の樹の下にいる屍体というのは、あらゆる暗喩を統合した、他でもない、僕ら自身のことだったんじゃないかと思えてきます。子ども相手の子どもじみた狂おしい夢を、作品として成立させることの代償として"吸い尽くされた"、そういう屍体。
とにかく僕がつくづく思うのは、せめて次は、ちゃんとヒロインのおっぱいが適切に膨らんでいる、できればおもらしのない普通のエロゲーをプレイしたいということです。おねがい、もう、許して……。