はるのあしおと

はるのあしおと DVD初回特典版

はるのあしおと DVD初回特典版

様式と内容の相互作用、ゲーム自体が物語であり、メッセージ

物語とそれに伴うメッセージをゲームに載せて伝えるということと、物語とそれに伴うメッセージをゲームが伝えるということ。その違いを、僕はこの「はるのあしおと」という作品に出会うことで気づかされました。
ゲームを媒体として、(例えば雑誌か何かのように)一般的な様式に従った上で(その様式とは直接関係しない)内容を提示するのではなく、様式と相互作用するようにして成立していく"内容"が提示されている。物語とメッセージが旺盛にゲームを取り込み、それは、ゲームの一般的な様式を覆そうというほどではないけれど、したたかで誠実な野心に満ちた清涼な作品性。つまり、ゲーム自体が物語であり、メッセージなのです。
物語とそれに伴うメッセージがゲームを取り込んでいる、とはいえ極端に少ない選択肢や安易な分岐性を見ると矛盾しているように思われるかもしれません。せいぜい2,3の選択肢、しかも好意の増減ではなく特定のヒロインがいる場所を示したものを、両手で収まるパターン組み合わせることで、特定ヒロインの1本道ストーリーが展開されます。途中分岐やバッドエンドの罠が仕掛けられているわけでもなく、ただ頁を読み進めていけば自動的にベストエンドに至るというたぐいまれなるゲーム性のなさは、まったくゲームの風上にも置けません。
これはそもそもゲームと呼べないではないか。いえ、選択肢や分岐云々といった軽薄なゲームに囚われることなく、「はるのあしおと」が志向した"ゲーム"は、より深く、分かち難く内容へと組み込まれているのです。ゲームであることをわざとらしく主張しなくても、自身何者に誇るまでもない確かなゲームであるという、自負。

悩むに値しない悩みごとを、ありえない深度で悩む人たち

大学時代ずっと好きだった女性に、告白することもできず間接的に振られてしまった主人公桜乃樹(さくらのたつき)は、逃げるように故郷の田舎町・芽吹野町へ帰ります。親の元で何ヶ月もひきこもり同然の生活を続け、運良くそれまで目指し叶わずにいた教師の職を得ながらも、吹っ切れず、彼はいつまでもうじうじと後ろ向きに過ごしていきます。

正直言ってそんな大層な悩みじゃないよな?

保健室で女生徒の恋愛相談に乗っていた主人公が、同僚の保健教師にもらした言葉。本当、大層な悩みでもないのに、まるで想い人を自らのミスで死に追いやってしまったかのような取り返しのつかない深刻さで、主人公は精神を鬱屈させ、自己嫌悪の海に進んで溺れていきます。まるで「悩みたくて仕方がない」がために失恋という適当な理由をこじつけているとでもいうかのような彼の態度は、いっそマゾヒスティックとすら言えるものです。
思えば、藤倉和にしろ楓ゆづきにしろ、その悩みはまさに主人公桜乃樹に勝るとも劣らない贅沢なものでした。模擬試験で全国2桁の順位を取る少女が「私には将来が見えない」と嘆き、ミスコンテストでダントツ1位になるような美貌と小説の才能に恵まれながらも、徹底的な劣等感に苛まれている少女。それらは違和感を通り越して滑稽ですらあります。
自ら積極的に悩み苦しんでいるというのに、それをさらに理由として主人公は、教え子である彼女たちといとも簡単に肉体関係を結んでしまいます。

教え子に対してきちんと責任を持てる教師になりたい

と彼は後日語ることになるのですが、責任を持てる教師になりたいと思うのなら即刻教職を諦めるべき、君には本質的に向いていないと僕は声を大にして言いたい。100歩譲って生徒との恋愛関係は許せるとしても、早々に性行為に至り当然のように膣内射精をしている時点で、地球を何週したって彼を教師として認めるわけにはいかないと僕は思います。エンディングをどんなにキレイゴトで飾りつけようとも、成長云々というレベルではなく主人公は根本的に人間のクズですから、ただただ見苦しい。主人公を徹底的に罰するバッドエンディングがないのはこの際思いやりに欠けるというべきでしょう。

"目"を与えられた主人公 選択肢が弁明の機会を与えない

このように、プレイヤー(というより僕)の感情移入を皮膚感覚段階で拒絶し、いっそ嫌悪されても致し方ない主人公は、しかしゲームに救われます。グラフィックの見せ方にこだわった意欲的で鮮烈な演出は、一方で主人公桜乃樹を、プレイヤーの敷設した既定の”鉄条網”から救い出し、対象化された人格を与える。つまり"目"を与えられた主人公は、世界で自律的に活動し、ヒロインと交流するのです。三人称的に実際を振舞う彼の立ち位置によって描写される一人称視点のテキストは、ビジュアル演出の妙もあり、情景や心象を明澄に浮かび上がらせ、主人公―プレイヤー間の心理的な距離を規定します。
近すぎるからこそ生じかねなかった軋轢や葛藤からプレイヤーを免れさせ、一個の鑑賞者として成立したプレイヤーの前に表されるのは、人間を成長させあるいは堕落させもする恋愛、その両価性を癪に障らない生々しさで懸命に描こうとする物語。確かに、事情を無闇にいじくり回して冗長な印象を拭えないし、非現実的で共感できない各人の悩みを描写する観念的記述と、オチに用いられる箴言的物言いが年齢不相応で鼻につくところもありますが。確かに言えるのは、正解に向けた一本道を歩むというわけにはいかない彼と彼女たちの物語、1歩進んで3歩下がったりもするちぐはぐな人間の成長というものを、恋愛を通して描こうとした瑞々しい創作性と、清廉な野心を確かに感じられたということです。
しかも、選択肢を設置しないことがプレイヤーに逃げ道を与えないことにもなっています。刹那の快楽に溺れ、堕落に繋がる恋愛を戒め、相思相愛のヒロインを振り切る辛くて残酷な決意、そこで選択肢というゲーム的手段を挿入することで、彼女にやさしくするなり当初の意志を貫くなり、主人公の言動の根拠を弁明させ、賞罰的な報いをくれてやる機会を与えることはそれ自体、プレイヤーをいくらか慰めることになります。そこを敢えて、人として正しい道を徹底的に不可逆的に思いしらせる(メッセージングする)ために選択肢を設けなかった、それこそが「はるのあしおと」という作品のゲーム性。

「何かを決断するなら、人の言葉に任せては駄目よ」
「どうして、ですか?」
「どっちを選んでも、必ず後悔するからよ。失敗すればその人のせいにできるし、成功しても違う道を選んだほうが良かった、そう思うかもしれない。それはとても不幸なことよ。結果はどうあれ、自分で考え、自分が決め、自分でやることが大切なの」

だからこそ、主人公桜乃樹は人(プレイヤー)の言葉に任せなかった。それは物語として、メッセージとして、かつゲームとしての刮目なのです。

そのまなざしは、プレイヤーだけでなく、彼と彼女たちも等しく照射する

「主人公が勝手に悩んでいるだけ」「ヒロインが勝手に悩んでいるだけ」、実はお世辞にも共感できない各人の事情を、プレイヤーをして共感せざるをえないよう仕向けているのは、他でもない演出の素晴らしさです。登場人物のつまびらかなまなざしを鮮やかに切り取ったそのセンチメンタルなビジュアル法は、どこか釈然としない彼と彼女たちの内面に等身大の生きた心地を吹き込みます。天井を見たり、足元を見たり、ときには地面に突っ伏したり絵本の頁を右から左へ読んでいったり……。彼と彼女たちが今そのとき何を見ているのかということをありのまま"報告"することが、何物にもまして正直な心理を紡ぎ出し、饒舌に語っているのです。
Wind -a breath of heart-」のムービー映像で感じられたビジュアル法、言うまでもなく本編とは乖離していたそのありようを、「はるのあしおと」ではゲームとして正当に組み入れた。それはまさしくあるべき姿。

 懐かしさすら感じさせるありふれた人工物と、やさしい影と、心地よい風、人々をとりまくゆるやかな営みを鮮やかに観照する、過去・現在・未来を不変に貫く雲、空、そして光。つまり照らし出されているのは僕らなんだという親近感のある感慨が、感動が、まぶしくてくすぐったい。何度繰り返し見ても心が洗われて止まないのは、再生する都度(今)"照射"されているからなのでしょうね。(略)
 当事者でありプレイヤーである「僕たち」が、「目の前で見ていること」、「肌で感じていること」、つまり僕らがどこにいて、何を体験しているのかというあられもない事実。http://d.hatena.ne.jp/tsukimori/20060223/p1

それを、「はるのあしおと」の演出は確かに彼と彼女たちに照射し、くっきりとなった「目の前で見ていること」「肌で感じていること」を通して、鑑賞者として成立したプレイヤーに”改めて”共感を生じさせるのだと僕は解釈したいのです。彼と彼女たちはテキスト上に共感されるべくして在るのではなく、まなざしによって共感せざるを得なくなってしまうそれなりに関係的な存在、そのまなざしを本作ではビジュアル(演出)が意欲的に"代替"したのではないでしょうか。主人公を生理的に嫌悪することでその痛みから逃れたいという僕の刹那的な願い(逃避)は、まさにゲームによって挫かれてしまうのです。

身につまされるような痛みから、僕らが逃げた先にあるもの

悩むということは、その内容を価値判断してどうこう言っても意味がなく、大抵大したものではなく答えも自明であることは先に述べたとおりです。むしろ、苦しんでいるという本人にとって揺るがせにできない現象自体が重要で、現実を一進一退するさまを取り出し、演出的に共感せしめることで物語としての深みと、人生論的な痛みをプレイヤー軸線上で確定させていった藤倉和編と楓ゆづき編。ほとんどの観念論を放棄して、実直に、むきだしの人間ドラマを短くも濃密に描いた桜乃悠編。
3人のヒロインシナリオをクリアしたあとで分岐可能となる篠宮智夏編では、それまでの3篇とは異なり、ギャルゲー的な意味でありきたりの恋愛ドラマとして描かれています。惹かれることで人間的に高められていく、まっとうな1本道をてくてくと歩く美徳としての恋愛。主人公の幼馴染である彼女は、彼のことを一心に想い、待ち続けます。まさにありきたりの都合良いヒロイン像。けれどもこの作品の文脈で読んでいくと、その都合の良さはどこか神聖な雰囲気を漂わせているように感じられるのです。
主人公は東京で精神を衰えさせて芽吹野町へ逃げるようにして帰りますが、僕らは藤倉和・楓ゆづき・桜乃悠の3編で精神を衰えさえて篠宮智夏編へ"逃げてくる"ことになっていた(予定調和)のではないでしょうか。誰だって、現実から逃げてしまうこと、二次元に逃避してしまうことはあるでしょう。というより、エロゲーというジャンル自体多かれ少なかれ現実逃避的なもの(?)。けれども逃げることは恥かしいことじゃない、エロゲーをプレイするのも恥かしいことじゃない!(それはどうだろう)。
身につまされるような痛みに満ちた"人でなし"の作品にあって、プレイヤーと同病相哀れみながら、けれど主人公はひとり勝手に「成長した幸せになった〜」と嘯く。未だ痛みの疼くプレイヤーをいたわるために、かつて選択肢によって慰めてあげられなかったことの"代替"としても、このひどくやさしい篠宮智夏編はあるのではないかと僕は思うんです。

「そう……俺は自分からは一歩も踏み出さず、いつも誰かを待っているだけだった……卑怯、だよな……」

「あのね、ここに相談に来る子はみんな、自分で解決できる力を持っているの。だけど、最初の一歩を踏み出すことが大変だから。ここは、必要な勇気を出せるようになるまで、少しだけお休みする場所なの」

「今はだめだったとしても、でも、未来はどうなるかわからないから。私は……信じてる」

何もかもが嫌になって逃げ出した先に、自分のことを想いずっと待っていてくれる人がいる。それはギャルゲーとしては幼馴染の女の子であり、姉妹やメイドが適当なところでしょう。恋愛やギャルゲーに固執しなければ、父や母といった家族というのも十分ありだと思う。
痛くて、まぶしくて、鮮やかで、誠実な作品、「はるのあしおと」。それは「少しだけお休みする場所」。僕にとっては、和ちゃんの台詞が本当に痛く、主人公がとことん言い返さないものだから気が滅入るばかりでした。ダメ人間には辛すぎるゲームだぜ、とほほ……。