萌える男

萌える男 (ちくま新書)

萌える男 (ちくま新書)

二次元美少女と脳内恋愛(萌える)することによって、三次元(現実)世界での葛藤や発達心理上の問題がどうにかなるとでもいうかのような本書の指摘は、あまりに大仰で、お世辞にもそれは"気が紛れる"程度の効能しかないことを僕は体験的に知っています。誰もが持ってる(もうほとんど忘れていたような)古傷をやさしく舐めてくれる、甘くしっとりとした感傷を与えてくれるに過ぎないのだということを、あまり称揚すべきではありません。自我を安定させる作用があるのだとしたら、それはまた同じように自我を不安定にさせる危険性もあるのだということを肝に銘じなければ。それはまったく個別的なカウンセリングではないのですから、不用意に個人の内面に踏み込もうという企図は、どのような性質の作品であれフィクションである限り不真面目なものと僕には映ります。
精神的な問題を認識している個人にある種の安らぎを与えることがあったとしても、解決することは望めませんし、本人が認識していなければただの"泣き"に過ぎず、例えば突如来訪するクライシスに対しては何の役にも立たないということを、きっと誰もが理解しているんだと思うのです。風邪の時に食べさせてもらえる桃缶のような、甘いシロップ付けの救済感傷。「痛いの痛いの飛んでけ」。それは与えられるものはあれ、勝手に解釈して安らぎを得たような心地がするだけの話なのですから。また二次元だけの特権ではなく、例えば空が青く澄んでいるだけで、枯れ葉がさらりと落ちているのを眺めているだけで、僕らは勝手に安らいだりできるのです。
ゆえに、本書が声高に語る「萌えの効能」とは、そういう性質が無きにしも非ずだとしても大抵誇張しすぎる面があり、被害者弁護的な使命感に溺れていると言わなければなりません。一般社会の無理解・感情的なバッシングに対するカウンターとしては応援したいものの、オタクによる萌えという精神運動が現実世界を変革するというような大上段の思想は、やっぱり暴走しすぎです。
嫌になるほど繰り返し語られる恋愛資本主義システムにしても、軽薄な雑誌記事を根拠に論を立てていく姿勢もあって正直眉唾ものだし(情報が溢れ文化が多様化した今日において、精神文化の上位テーマたる恋愛をそもそもシステム論的に語りうるのか)、イケメンやキモメン、負け犬といった雑誌ネタを悪びれず論に用いている時点でしょせん雑談レベル。二次元美少女に「萌える」という心理にしても、現実で恋愛ができないという動機だけで萌えているほどオタクは単純ではないはずです。
作品・文化のありようとして萌えることが求められる以上、嗜みとして萌えているという心性もあるでしょう。映画に感動する、漫才に爆笑する、そしてアニメ(美少女)に萌える、結局のところそれは鑑賞態度の新しい一形態であって、趣味生活をより豊かにするという意味で、過激なカウンターとしてではなく地道な啓蒙活動として、優れた作品を通して一般に広めていくべき貴重な感性なのではないかと思います。
オタクとはいえ社会人として通常に生活していて、普通に異性と出会い普通に恋愛していく機会も、今までや今現在なかったとしても、今後可能性として全くゼロというわけではないのです。現実の可能世界において、二次元美少女に対する萌えのスタイルを援用して恋愛や家族を復興させるというのはあまりに子どもっぽい発想です。二次元では従順で可憐で汚れを知らない女の子が、三次元では思い通りにならない生意気で憎たらしい女の子・女性そして家族。
その厳然たる食い違いに幻滅し暴発してしまうか、それともやさしく接することができるようになるのか、それは萌えパワーがどうこうというよりも、萌えという感覚を自身がどう消化(昇華)させるか、結局のところ個人のパーソナリティにかかってくる問題なのです。
シスタープリンセス」をプレイして、自分の妹を「〜たん」呼ばわりしてはぁはぁするのではなく、いつも小憎たらしくてうざったい妹を、「なぁ、たまにはラーメンでも食いにいこっか」と誘ったりするような(即断られる)、ちょっとだけ優しくなれる、現実を少し柔らかく受け止められる、鼻で吹けば飛んでいくちっぽけな温かさを育むかもしれない、萌える男のパーソナリティについてこそ問われなければならないのです。
二次元美少女に萌えるのも、癒しを得るのも救済と解釈するのも、あくまで個人の内面に発生し、内面で完結する(しなければならない)。そうだとすれば、僕らは内面をどれだけ豊かにすることができたか、その内面をどう現実の対人関係に生かせたか、努力の過程とその結果についてオープンで語らなければならないし、それこそが何にも勝るおたくの側からの現実変革運動、萌えという精神開発運動なのだと思います。「萌える男はキモい。更生しろ」「いや、萌える男は正しい。お前らのほうこそ見習え」というのではあまりに非生産的じゃありませんか。
ちなみに、「萌えの世界の恋愛は、男女平等か、あるいは、女性上位なのである」などと堂々と断定してくれちゃってるあたり「ちょっと大丈夫?」という気がしないでもありません。最終的には性行為に及び、男性側から一方的に支配・抑圧し陵辱することを前提として成り立っている世界であるからこその、男女平等、あるいは、女性上位ではないですか。弱者を虐げても愉しくはありません。むしろ罪悪感が発生するでしょう。であれば、仕立て上げられたものとはいえ強者を虐げることのほうが罪悪感は少なく、かつカタルシスは倍増するのです。性的な意味であればなおさらのことです。
二次元美少女の造形が裸身をベースに「どこまで見せるか」を基本に描かれていくように、彼女たちはその存在意義として、まなざしの所有者たちにセックスを提供する・搾取させるべく誕生したのですから。セックスを前提として仮初に恋愛をしたとして、その際の互いの地位について考えるというようなことに、果たしてなんの意味があるのでしょうか。二次元美少女という文化にとっては、恋愛すらもセックスに献上される美酒に他ならず、女性を商品化する、ポルノグラフィに与する世界の住人であることを決して忘れてはいけません。ましてや、主人公が恋愛面において地位を低められていることの本義は、男性プレイヤーが美少女(女性側)を含めて根源的な上位者(主体者)であることです。
性的に搾取されるべく産み出された彼女たちを、僕らはただ性的に搾取しているだけなのだということを、萌えの効能とかレゾンテートルとか語る前に肝に銘じておかなければならないということ。この問題をクリアーし意味体系に組み込んでいかなければ、萌えるおたく側からの現実変革・恋愛と家族の復興など到底叶わない下手な妄想に過ぎないということも、指摘しておきたいと思います。萌えがエロである限り、この世界はいつまでも隔離されていくのではないかなぁ。