Quartett!

Quartett! 初回版

Quartett! 初回版

ゲームシステムには、前作『白詰草話』で大反響を巻き起こした 「フローティング・フレーム・ディレクター(略称FFD)」システムを採用。 旧来のアドベンチャータイプやノベルタイプのゲームとまったく異なるその演出方式は「動く漫画」と評されています。しかしそれはFFDシステムの一つの側面を表しているにすぎません。フローティング・フレーム・ディレクター… それはすなわち動きのあるフレーム(コマ絵)による流動的な演出です。 情景をたった一枚の絵と叙述的な文章で描写しなければならないという 既成概念はこのゲームシステムには当てはまりません。

僕が特にすごいなあと思ったのは、絵を見つめながらでも言葉が理解できる"やさしさ"です。それは児童向けの簡単さとか、読み聞かせのような慈しみを意味するのではなく、言葉が絵に吸いついてくる感じといえばいいでしょうか。言葉の意味を気配だけで十分察せられるくらい、吹き出しの容量は大したことなくて、もって回った言い回しではないストレートな台詞が主の、まったく難しくない物語は、システムが流暢に作り出すコマ回しを、くつろいで鑑賞できるほどのやさしさを標準化しているのですね。鑑賞するただそれだけで、映像と言葉をゆるりと堪能することができ、理解することができ、意識を聴くところへ、自由に、優雅に処することができる。そうであればこそ、さらには声優の演技もないからこそ、弦楽合奏が実に生きてくる。感覚の研ぎ澄ましを、ただ音楽を聴くくらいにしか当てるところのない状況こそ、箸より重いものを持ったことのない深層のご令嬢の感傷こそ、この作品がエンターテイメントする地平なのだろうと、僕は思いました。
ウィンドウ形式のギャルゲーだと、テキストを読む態度と、ビジュアルを見る態度は、異なります。読んで、見て、読んで、見る。繋がることはあっても融合することはなく、続くことはあってもかい離している。同じ画面上にあるのに異なる視聴形式をプレイヤーに強要します。誰もビジュアルを読めないし、テキストを眺めたりしませんから。物語がテキスト(主人公)として、ビジュアルが挿絵(ヒロイン)として、役割分担され認識も分割されてしまっている事態は、確かに既成概念と呼べるものでしょう。止め絵と、区切られたテキストは、恋愛というものがたいてい静的であるからこそ成り立つ表現スタイルであり、描写がアクションシーンやセックスシーンに差し掛かると、あっという間に崩壊してしまうのは、「出川哲郎のギャグがつまらない」のと同じくらい前提事項であり、諦観事項であったりします。
それを打ち破ったのだと、この作品は言います。確かにその通りだと、僕も思います。絵は依然止まってるはずなのに、視点が動き、背景に合一となった世界上で、演出が溌剌と躍動している。これぞまさに胸のすくような映画であり、言葉を字幕表示せずそのままビジュアルと融合させてしまった、恐るべき、画期的な、前衛運動のようですらあります。あるいは、画家のドキュメンタリー映像のように、大槍葦人という美少女画家の世界観を、架空の音楽ストーリーになぞらえて、漫画仕立てで紹介しているセンスの良いプログラム。そこでは、漫画が動き、動きが演出となり、演出された群像劇が、氏の素晴らしさを雄弁に物語る。どちらにせよ、もはやゲームではないのではないでしょうか。この作品における選択肢は、英国議会の議員衣装のように、便宜上「ギャルゲー」として括られるために施された他愛のない方便に過ぎず、物語にとってさほど重要とも思えない・意図の露骨な選択肢が、ヒロインシナリオの分岐に繋がっていたりする不自然さ・いかがわしさは、まさにその通りです。
この作品がシステム、フローティング・フレーム・ディレクターのいうところの「動きのあるフレーム(コマ絵)による流動的な演出」を目指しているのならば、プレイヤー側からの操作(介入)もその文脈に沿った流動的なものであるべきだと思いました。選択肢を選ぶシーンでは、選択肢が"ぷかぷか"浮いてたりしてまさに流動的! で可笑しかったりするのですが、そんな不自然ないかがわしさを固守するくらいなら、マウスカーソルをプレイヤーの視点(関心・興味)に仕立てて、特定のヒロインを集中的にまなざす(ポイントする)ことでシナリオが分岐していったら、もっと楽しかったかもしれませんよね。カルテットによる弦楽四重奏がテーマなのですから、演奏中の絵で、特定のヒロインに関心を持たせることで、そのキャラクターの演奏のボリュームが大きくなったりすれば、「ああ、フィルは彼女の音をよく聴いているな、意識しているんだな」という好意の感触が耳で感じられ、それはきっと素敵なことだったろうと思います。
読解に知識を要するテキストや、もったいぶった表現でプレイヤーの意識を拘泥させない、音楽を聴くように映像+言葉をするりと鑑賞させることを重視した、シンプル&スタイリッシュな本作品、物語は、その企画意図を汲まずに「物語が短い」などと評してはならないのですが。しかしSEXシーンに差し掛かると、システムと演出がこれまでこだわってきた配慮をないがしろにするかのように、べとべとした性的表現が吹き出し及び画期的な演出法を硬直させてしまうのは残念でした。エロゲーである限り肝心といわざるを得ない"かのシーン"で、どうせそうなってしまうのだったら、いっそ常設のテキストウィンドウを配してそこで地の分を綴ったほうがよかったのではないかと思うくらいです。キャラクターの台詞はFFDよろしく吹き出しで、場景描写は美峰の背景で十分ですから、それ以外の、主人公(ときにはヒロインたち)の心情描写を下部か左右に設置したウィンドウに表示させれば、濡れ場になると饒舌になるエロオカシさをうやむやにできるし、何より物語をより深められる機会を得るだろうからです。
この作品によって革新的に示された、動いているからこそ表現できる領域があるように、従来の、止まっているからこそ表現できる縄張りもあります。ゲームという折(それはパッケージに折りたたまれて仕舞われる)に触れてプレイヤーに考えさせること、主人公やヒロインの言動や心情に深く思いを来たすこと、そういう内向的インタラクティブがギャルゲーの存在論的ゲーム性だとすれば、「Quartett!」という作品はギャルゲーとはいえず、映画的なゲームに過ぎません。劇場で映画を見ているとき、観客は考えたり、解釈したり、言動や心情に深く思いを来たす余裕はないでしょう。映画でできないようなことを、僕らはギャルゲーのプレイ中にできちゃう、日常的にしちゃってるわけです。また、そうしなければ直後の内容理解に齟齬をきたすことになる。シューティングゲームで何面もノーミスでこなすような、ギャルゲーをスムーズにプレイするということは、すなわちきちんと考え、自ら納得するということなのです。正しかろうが、正しくなかろうが、思い込めばもう何面でもノーミスで進むことができちゃうのが、ギャルゲーというジャンルの厚顔無恥で素晴らしいところだと僕は常々思っています。
考えなくて済む、それは結構。ただそれは斬新な演出法が取り払ったのではなく、追い払っただけに過ぎない。いずれ戻ってくる。なにせ僕らはやっぱりジャンル純正のギャルゲーをプレイしたいのですから。そうであれば、フローティング・フレーム・ディレクターが新しい演出方法のひとつに過ぎなくて、それが作品そのものには決してなりえないということを、勘違いしているのではないかということを指摘しなければなりません。恋愛は演出ではなく、言葉なんですよ。音楽があっていい、動きがあるのも芳しい。けれど肝心なのは言葉なんだと僕は思うんです。その言葉が、このFDDに偏重した「大槍葦人の世界ドキュメンタリー」では、システム的にいまいち対応できていないんですね。簡易の吹き出しと、ビジュアルで表現できるのは、恋愛ドラマではなく、絵本といったところでしょう。
大人のためのメルヘン漫画、演奏する動く絵本、「カルテット!」。そういう意味ではとっても楽しい。それはそれで興味深い。けれど僕はギャルゲーをプレイしたかったのであり、恋愛ゲームを嗜みたかった。その不一致が、残念といえば残念です。「Quartett!」と題されて、アニメサントラではお馴染みの竹内ストリングスを起用しているというふれこみの割りに、弦楽四重奏曲のレパートリーが意外と少ないのも物足りなく感じました。大上段なタイトルを付けたのだから、有名な弦楽四重奏曲の何曲か演奏されて然るべきでは?(例えばラヴェル弦楽四重奏曲ヘ長調とか←大好き)。また、「ボカリーズ」や「愛のあいさつ」といった馴染みのある曲のストリングスVerがBGMとして用いられていましたが、欲をいえば、カルテットの各メンバー(ヒロイン)ごとに、担当楽器を用いたテーマ曲くらい設定すべきでした。ピアノか、フルートなどの吹奏楽を伴奏にしたオリジナルのソナタ曲をしつらえれば、各ヒロインシナリオが他シナリオと明確に色分けされ、より深められたかと思います。正直にいえば、BGMが全曲弦楽演奏であっても誰も文句言わないし僕は大喜び。だめ?

「あの子たちは信じているんです。この曲が何かを変えてくれる。音楽は人の気持ちを変えることができる。あの子達のそんな想いを――私は美しいと思いますよ」

とはいえ、弦楽四重奏曲愛好家で、エロゲーが好きで、大槍葦人さんの絵が「北へ。」をプレイしたことなくても画集だけは抑えてあるくらい好きな僕ならば、やはりプレイしておくべき作品であったことに相違なく。ギャルゲーやノベルゲーとしては比ぶべくもがな、"一服の清涼剤"としては豪華過ぎだしステキ過ぎです。まあ、清涼剤に1万円弱も払えないから、中古で適切な値段に下がるのを待っていたのは事実ですが。待っているうちに廉価版が発売されるのはお約束か、ここは「のだめ」ブームに便乗した気安さで、クラシック畑の住人で二次元美少女に免疫のある層を掘り起こしてみるのも(それを洗脳という)悪くないですね。
音楽は人の気持ちを変えることができるという場合、それは確かなんだろうけれど、それをプレイヤー側で体験することができるのは、せいぜい歌の場合、なんですよね。バイオリンやチェロという場合、そこには日本人として拭いがたい、上流階級のハイソなたしなみ的イメージがあって、庶民である僕らの気持ちというものを揺り動かすなり、変えるまでの親近感をなかなか持ち得ません。その点、歌は違います。歌うことは本人そのものの個性であり、声色は精神であり、音声は身体であるからです。何より、僕はバイオリンを持っていないけれど歌は持っています。共感する素地からして雲泥の差があります。
そういった不利を覚悟で、「人(つまりはプレイヤー)の気持ち」を音楽が変えられるということをプレイヤー自身に体験させるには、物語に頼るか、ゲームに取り組むかしかありません。前述したとおり、物語にはあまり頼れませんよね。絵本ですから。そこでゲームとしてどうするか。「シンフォニック=レイン」のようにプレイヤーが操作によって演奏しましょうか? しかしそれではプレイヤーが気持ちを動かされたことを感じる余裕がなくなってしまいます。ですから、下手な演奏がだんだん上手くなっていく過程を聴かせて、聞き比べさせていくしかありません。素人のプレイヤーですらわかるほどの上達と、情熱を。
だから、竹内ストリングスの面々にわざわざ下手な演奏を要請するのではなく、小学生の弦楽演奏者を集めて演奏させるとか、それを中学生、高校生、大学生から市民楽団へとグレードアップさせるべきだったのです。最終的に竹内ストリングスの演奏でキメられたら、きっとプレイヤーは心を動かされずにはいられなかったことでしょう。音楽は人の気持ちを変えるということを、とても晴れやかな気持ちで体験できたことでしょう。そんな、誰でも考えつきそうなことをこの作品は採用しなかった。なぜか、それは登場人物がこぞって音楽院の生徒だからです。元々才能のある音楽家の卵たちが、素人のプレイヤーにわかるほど下手な演奏などするはずがない、格好悪いからです。
ここで、この作品は、プレイヤーの共感や気持ちというものより、世界観や美学を尊重していることが明らかになります。場末のストリートチルドレンたちがゴミ捨て場で見つけた弦楽器から、演奏家として大成していくような物語においてふさわしいような、先の言葉は、結局のところ、プレイヤーに語りかけられた親身の言葉ではなく、作品の一解釈に過ぎなかったというわけです。あくまで「大槍葦人の世界ドキュメンタリー」を外れない。外させない、そういうプライドが見え隠れしています。
国籍しかり、舞台設定しかり、ゲームそのものが他人行儀なんですよね。だから僕は、この作品をギャルゲーだと認めたくない。ギャルゲーとは、プレイヤーに何がしかを語りかけてくるジャンルであるはずです。エンターテイメントを度外視したような、時に青臭いような親身のメッセージを。「Quartett!」は、息をするのを忘れてしまうくらい見惚れてしまうけれど、好きにはなれない。いや、本当のこというとめっちゃ好きなんですけどねえ。それはいわば芸術作品に覚える好きであって、ギャルゲーは芸術品じゃない。心の弱さはナイフとフォークで頂いても何の味もしない、ワンカップ大関飲みながら一掴みで食うからこそ、堪える。そういうことなんだろうと、僕は僕について思うのです。