わんことくらそう

わんことくらそう

わんことくらそう

目の前に美少女がいるからといって当然に恋愛しない。恋人同士でないからといって大いに抱く。幾度となく体を重ねたからといって互いの将来を縛らない。ひとかどの萌えやプレイヤーの妄想を全くチグハグにし、恋愛物語の既定的骨組みを打ち壊し、何事もいっさい確定しない、本当に「わんことくらそう」というタイトル<意思・推奨>を忠実になぞっただけのこの作品に、いったい何が描かれているのかといえば、恋とか愛とか人間性といった、人が人であるゆえんといわれる"高尚な"事柄をいちいち冒涜し、むきだしになった「生きる」ということを、ふきっさらしとなった「生きる」ということを、肩肘張らずに語りつくす、とても真摯で穏やかな人間論でした。
「たかがエロゲー」に励まさせてしまう程度の人格を安っぽいと貶してくれてもいい、僕は確かに、この作品をプレイし終えて生きる気力のようなものを補充されたのです。人間のオモテをはらりとめくり、ウラを手触りで感じさせてくれる本作の主人公の、エンディングは恋愛の数ではなく「生きる」数だけ用意され、彼は生き方をおいそれと変えたりはない、だからエンディングは実質的に一種類しかありません。主人公が、形式的ではない堂々の主人公としてしたたかに存在し、責任を持って物語をリードしているという意味でも、僕にとっては十分衝撃的で、晴れ晴れしく、なんとも嬉しい気持ちにさせられます。やっぱり主人公は主人公であるべきだ!

幼いころ両親に捨てられ、「風俗街のお姉さんたち」に育てられたという過去を持つ。その際に生きるための手段として数々の「女性を喜ばせる方法」を身につけた。そのためか、内面的にはどこか老成したような雰囲気を秘めている。

不幸で特殊な生い立ちの主人公・遊佐祐一は、人間が自認する人間としての驕りを疑問視し、欲望まみれのありようを指弾し、脆弱な本性を暴き立てます。彼が得たくて得られなかったもの、僕がギャルゲーに前提的に望むものを特に――

「愛だ恋だなんて、結局、証文のない借金のなすりつけあいみたいなもんだ。形も姿もないものを、それぞれが勝手に『自分の思う愛はこうだ』って主張してぶつけあう。単なる無限のワガママの言い合いだ」

「『おトクなこと』をやや過剰気味に与えてやると、ほとんどの女はただそれだけで豹変する。都合のいい優しさであったり、金や快楽であったり、甘い言葉だったり。それらを総称して連中は愛と呼ぶらしいが、俺は賛同できない」

人間の、他の動物とは違う高等だと自称している部分を彼は徹底的に否定します。明瞭で確固たる論理でそれらの根拠を軽やかに攻撃してかかる。それは彼の生い立ちが強烈に見せつけてきた現実が完成させた、天然のニヒリズムと呼べるものでしょう。いかなる虚飾も夢幻も削ぎ落とし、野生とも違う、人間として生きるという事実そのものを、遊佐祐一は私たちに対して飄々と剥き出します。
ひるがえって物語は、人型の犬猫<ペット>の人間味を切々と織りこんでゆきます。

「……わたしたちは、お金で売買される商品に過ぎません。でも…モノじゃありません…。生きてます。意志があります。まして身勝手な猫と違って、犬は飼い主のために生きたい、飼い主を喜ばせてあげたい、そしてその結果として飼い主に褒められたい…という思いが、とても強い動物です」

「ただ本能のままの欲望を向けたり…したくないんだ。そんな欲望にあらがえない動物だって……思われたくないんだ…」
「虎太もカイエも、どーぶつ。犬」
「…わかってるよ……わかってるんだ……」

人型とはいえ動物であり、飼い主である人間の所有物<ペット>に過ぎない彼女たちと彼に、主人公が人間の側から剥奪した恋と愛と人間性を、物語がめいっぱい注ぎ込んでいきます。劇中に登場する人型の犬猫たちは、外見のみならずその心性(こころ)までも人間そのものだといえるでしょう。たとえ違っているとしても、それは未熟さゆえのストレートさ、純粋すぎるがゆえの我々人間側の都合による受け入れ難さであり、本質的にはとっくに人間なのです。
主人公遊佐祐一は、人間の人間たる依りどころを貶め、物語は、犬猫の人間たる精神性を見出す。設定における対比から、感情移入によって融合していく世界。プレイヤーの目線上で生じる、人間とペットたちのいかんともしがたい矛盾と葛藤、不安や苦悩に苛まれながらも、そうであるからこそ、互いの心と身体の、束縛されない自然な触れ合いを通して、「生きる」ということの無垢なるさまが輝きだす。それは人間の側からの反省ではなく、ペットの側からの提起でもない、等しく背負うものがある彼ら・彼女らが、それでも日々を楽しく、穏やかに、仲良く過ごしていく、心温まる「友達」という対等の絆に嗅ぎ取る、匂いのようなものです。そんな匂いが、和気あいあいがなんとも愛らしい。
人間になりきれない人間たちと、動物に居たたまれないペットたちが、恋愛や将来を担保としないくつろいだセックスを重ねることで、「友達」になっていく物語。そこでは、飼い主が発情期のペットを落ち着かせるためにするセックスと同じ文脈で、人間同士のセックスも描かれています。それは全くドラマティックではないけれども、和やかで、物語を展開させる重要な鍵ではないけれども、憩う。技巧を凝らしてずいぶんいやらしいのに、不思議と清々しいのは、その行為自体に当事者が何も背負わせていないからなんでしょうね。そして、無意識のうちにセックスという行為に何がしか重たいものや利害を背負わせていたこと。その行為に本来宿るべき無条件の癒し的な意味合いを思い出させてくれます。
人間が、人間であるがゆえに幸せになれないのなら、少し人間から離れてみたっていいじゃないか。人型へと進化し人間の心を表現するようになった動物は、変わらず人間に寄り添うことでそう語りかけているかのようで。たいてい思うようにいかないし、理不尽で気まぐれな人間関係、とっくに決まりきっていて例外を許さない人間や人生のありようを、一度白紙に戻してみようよ、再構成してみようよとでもいうかのような本作品は、リアルに対するほんわかなアンチテーゼであり、微笑ましいドロップキック。

「俺は、ふつうの人間と一緒だとあんまり幸せじゃないしな」
「りさちゃんは?」
「あれは、俺の同類。里沙もいずれ出て行くだろう…まあ、そうなったら俺にはお前だけだ」
「…えと…わたし、どう反応したらいいんでしょうか…」
「尻尾振って、笑ってろよ」
「……はい……そうします」

人型とはいえ人間ではない動物に性器を挿入することに、主人公は生理的な嫌悪感を抱くようなこともなく、また互いにきちんと絶頂を迎えることができるということ、何より、非人間性を感じさせる体毛もひげも、肉球すら喪失した純然たる肌色の人型であるということ自体の、奇跡的なご都合主義にありながら、寿命だけは本来の犬猫並みであるということをプレイヤーへと殊更に語り聞かせるのは、「生きる」ということの本質を揺るがせにしない決意であると同時に、プレイヤーに対するささやかな警告を含んでいるような気がします。「ふつうの人間と一緒だとあんまり幸せじゃない」遊佐祐一に、僕は共感する。けれどこの共感は、祐一とみかんのように確実な別れではなく、不幸にも永遠の安らぎへと繋がっている。僕が「尻尾振って、笑ってろよ」と命令している存在は、「曖昧で残酷な時間制限」すらないのだという、うすら寒さ。
だからこそ、「わんことくらそう」というタイトルは、せめて人間"らしくない"人間"らしく"生きようという意思であり、推奨なのではないかと、僕には思えてなりません。日曜日のように、人間を休んで、「どこにも行かなくていいし、どこにも行ける」そんな暮らしから、始めようよと。
ちなみに、

「恋愛をわがままや身勝手をぶつける免罪符にされたらたまったもんじゃないし」

と遊佐祐一は語ります。この場合の「恋愛」とはなんのことか(ギャルゲーのこと?)。「わがままや身勝手をぶつける免罪符」にしているのは、誰のことか(プレイヤーのこと?)。「たまったもんじゃないし」と語るのは、もしかしたら制作者の愚痴なのかもしれないし、自虐なのかもしれませんよね。