彼女たちの流儀

彼女たちの流儀

彼女たちの流儀

みやま零さんのビジュアルに惹かれてプレイしましたが、コンプリートしてみて思ったのは、パッケージの裏に記されている「独特の倒錯」という言葉が、性的なシーンだけではない、作品そのもののテーマ(成り立ち)を形作るキーワードになっているんだなということでした。
[1]さかさまになること。逆になること。
[2]社会的規範から外れた行動や嗜好を示すこと。味覚倒錯・性的倒錯など。―症、―した欲望
①物語−【1a[朱音]・1b[千佐都]・1c[せせり]・1d[涼月]・1e[火乃香]←→2[鳥羽莉]a】→3[鳥羽莉]b
②構造−【(作品中の)リアル←→劇中劇】〜劇中劇化するリアル→プレイヤーの取り込みと吐き出し

①−[2]

彼女たちはとても純粋で、本当にいやらしい。主人公・兎月胡太郎に対して募る強い想いを、剥きたての性的身体にありのまま転写したかのように、ぎこちなくも激しく、不器用ながらも官能的に、幾度もいくども体を重ねていく。想いも身体も無理矢理ぶつけあうかのように。寝室はもちろん、風呂場や学校の教室、演劇部の部室で繰り広げられる青少年たちの濃密で淫猥な性行為は、そのものを取り出しても十分倒錯の名に値するものです。

①−[1]

彼女たちにとっては、恋愛感情のほとばしる先、表現・伝達手段として性があり、行為の過剰さはともかくその経緯はまっとうであるのに対し、彼女たちに誘惑され、からめとられるように身体を重ねるのを余儀なくされる美少年主人公・兎月胡太郎は、そもそも恋というものがわからないと言い(「僕には「好き」はよくわからなくて、わからないから余計に重くて、不気味で、怖いものだった」)、そして指摘される(「部長しか見ていないあんたに、普通の恋愛ができるわけないじゃない」)。
好きではない、もしくは好きなのかどうかがわからない状態で、けれどヒロインの媚態に素直に"反応"し、適切に駆動する性衝動を抑えられず、あるいはヒロインによって抑えることを禁じられ、結果SEXに至ってしまう。ゆえに濡れ場の導き手はたいていヒロインの側にあり、主人公は己の気持ちをおもんぱかる暇もないまま、積極的主体的な意思に基づかないで、本能の所作に事後承諾を与えてしまうわけです。そこに理性のなさ・精神の惰弱を指摘するのは、同じ男として情に欠けるというもの。ましてやみやま零さんの描く、気品がありながらコケティッシュなヒロインたちの姿態(これはこれで倒錯的だ)は、したたかな理性や倫理観を吹き飛ばして余りあるものがあるといえるでしょう。
意思と行為の背離した倒錯[1]と、男性でありながら半ば犯されるという倒錯[2]は、視点キャラである主人公をしてフルボイスという仕様、男であるにもかかわらず喘ぎまくるという"ありがたくない配慮"が如実に物語っています。しかし、物語冒頭で身体を結ぶことになる鳥羽莉に対する恋愛感情と、その裏返しとしての反発やコンプレックスが主人公の自信なさげで受動的な態度を形作っているとおり、彼の想いはとても純粋で深く、鳥羽莉の想いもまたそうであることが次第に明らかになってゆきます。
それが実の姉弟であり、近親相姦に他ならないというリアルからの切り返しは、そもそも鳥羽莉は吸血鬼であり、その食餌として胡太郎と性行為をしているのだという説明と、相手を傷つけずに生き長らえることができないという自らの宿命に対する懊悩、もともと倒錯に満ちあふれている世界(「あぁ、もうっ!この世界はヘンタイばかりなんだわ!」)が確信犯的に不毛化します。鈍磨し、鋭敏になった地平にてあらわになった胡太郎と鳥羽莉の”純愛”は、ゆえにとても美しく、潔癖で、貴いもののように感じられてしまう、これぞまさに本作の真骨頂というべきでしょう。
とはいえ、鳥羽莉シナリオが素晴らしく、よく練られた全作品的立ち位置にあることから相対的に、あるいはそれを抜きにしたとしても、千佐都・せせり・涼月・火乃香のヒロインシナリオについては、強引さと粗さ、描写不足と尺の短さが目立つ、致命的とまではいかないもののあまり褒められたものではなかったということを、付け加えておきます。
「台詞を喋る人物が、自分の台詞に感慨を持ってどうするの。まるで順番が逆だわ。演技においてはまず想いありきよ、始めに言葉ありきではないわ」。鳥羽莉は胡太郎の演技にこう注意をほどこします。この態度こそまさに、胡太郎が鳥羽莉以外のヒロインとする恋愛に他なりません。胡太郎の恋愛は言ってみれば鳥羽莉に貪りつくされ品切れ中、そのうえで他のヒロインの想いに応えるために、彼は自身の心象(内面描写)に感慨を持つことから始める。彼は自身の内面の性質や変化における"恋愛っぽいモノ"を敏感に察知し、恋愛というものを”仮定してみようとする”のです。
「そんな愚かな自分をどこか客観的に見てしまう僕は、重症的に倒錯していると、どこかで思った」。彼は恋という気持ち(あるいはその代替品)を自身に見出そうともがく。その副作用として自身と世界の倒錯さを認識してしまいます。倒錯とは、認識することがなければそもそも倒錯たりえないのだから、悩み続ける主人公だからこそ、その内面において、純粋な恋愛(プラトニック)と純然な性倒錯が軋轢を起こすことなく並存しえたともいえるわけです。翻って(鳥羽莉以外の)ヒロインたちは、自身の(性)行為を倒錯的なものだとはあまり深刻に認識していないでしょう。彼女たちにとってはまさしく、主人公に対する無垢で一途で盲信的な想いがあるだけなのですから。
間違っている気がするから抗おうとするけれど抗えるわけがないというのと、そういうものなのだということとの間に、事実的な違いなどありはしないという無慈悲な事情(「……いいよね。身体は、素直で」)は、奇しくも胡太郎と鳥羽莉で共有されることになります。そういう意味で、この倒錯した物語にあってふたりはあまりに”まとも”過ぎ、間違いや倒錯を認識する者としない者とでは共感はありえないという立場に立てば、そもそもわかりあえる機会と関係を与えられたのは胡太郎と鳥羽莉の関係だけだったということができてしまうかもしれません。僕が鳥羽莉以外のヒロインシナリオにあまり好感を抱けなかったのは、彼と彼女がいう間違い・倒錯を、プレイヤーもまた認識せざるを得ない(視点主人公の描写によってそう”させられ”ざるをえない)から、なのでしょう。僕は保守的な人間なので、それでもいいかなと思っていたりします。
ともかく、エロゲー一般においては、その程度の性的倒錯はむしろ健全。吸血鬼という設定もありきたりなものに過ぎません。この場合重要なのは、倒錯だと認識し、間違いだと認識すること。背徳感を共有する者同士の自省的であるがゆえに官能的な恋愛と性、差し込まれる瞳のように鋭利で近寄りがたい青春像は、たっぷりと健全を含んで息を飲むほどの恐懼。鳥肌が立つというより身震いがしました。

②−[1]

主人公と鳥羽莉、その他主なヒロインが出演することになる劇中劇「月の箱庭」を中心にして、この作品は構造的に「独特な倒錯」を展開していきます。「月の箱庭」とは、男装した鳥羽莉が演じる青年吸血鬼「レミューリア」と、女装した胡太郎が演じる女王「セレス」を中心に描かれる中世風ファンタジー劇。鳥羽莉をして「私は私とあなた(胡太郎)のために、心地いい思い出の脚本を用意した。それが本当の『月の箱庭』――」と語らしめた本演目は、レミューリアが死せる月(自分を傷つける全ての者を死に絶えさせる)に依存したセレスを救い、セレスが吸血鬼の宿命としての永遠(自分の愛する全ての者の死を耐えなければならない)に諦観したレミューリアを救う、愛の物語。
セレスとレミューリアの関係は、そもそも鳥羽莉と朱音、吸血鬼となった女性の哀しみが分離したものだといえます。吸血鬼として永遠を生きなければならず、愛する者が死んでいく苦しみに耐えていかなければならない、いつか必ず訪れる別れ、それなら誰も愛さなければいい、いっそ全ての人間を殺してしまったほうがいいと。その哀しい現実とせつない希望をそれぞれに封じ込めてあるのです。そうであるからこそ、鳥羽莉編や朱音編において、物語のクライマックスを「月の箱庭」の舞台上に”持ち込んで”、つまり劇中劇を物語(リアル)化するという演出が見事に映えてくる。非常に手の込んだ、倒錯的でありながらまったく正当な構成だといえるでしょう。

②−[2]

しかし本作は、「月の箱庭」をひとつの気の利いた演出技法として道具箱に片付けませんでした。劇中劇を物語(リアル)化したクライマックスの演出では、しかし幕を閉じるまでは描かれません。互いの想いを確かめあったふたりは、その後どうなったのか、崩壊した死せる月の国から無事脱出することができたのかどうかすら、定かではないのです。分離したそれぞれの哀しみはいったいどうなったのか――。
それを、全ヒロインクリア後に進むことのできる隠しシナリオ「月の箱庭」編において、物語(リアル)そのものを劇中劇化することによって受け継いだ。物語(リアル)上の劇であったものが、物語(リアル)そのものを舞台上に引き寄せ、リアルを破棄し劇として合一させてしまうという倒錯。これによって、日常(リアル)も舞台上の俳優よろしく演技していた鳥羽莉の態度を無効化し、彼女の罪悪感が舞台上にヒロインたちを呼び寄せ且つ、鳥羽莉を糾弾する(あるいはさせる・他ヒロインシナリオを終えているプレイヤーも少しは望む)。さらには、分離した吸血鬼という哀しみを前にして悶え苦しんだ先の、構成的・物語的・登場人物的な壮大なる倒錯(アクロバティック)の妙技の末に、鳥羽莉はついに答えを見つけるのです……。
僕はこのとき、「ああ、これはカーテンコールなのだ」と思いました。「月の箱庭」という劇のではない、「彼女たちの流儀」というもうひとつの舞台の、ちょっと早いカーテンコール。脚本の指示する想いを醸成し、演技に専念していた俳優たちが、観客の前で満面の笑顔を、脚本も演技でもない自身の本心を奔放に表現する。このときの観客とはつまり、プレイヤー以外の何者でもないのです。考えてみれば、ふだんは視点キャラとしてウィンドウのこちら側に隠れていた胡太郎も、舞台シーンはウィンドウのあちら側からこちらを向いて演技をしていました。「いい観客に恵まれたわね」、鳥羽莉はどこかで語っていました。「声は観客に届く様に、けれど言葉の向かう先はあくまで涼月だけに」とも。それはまさにギャルゲー(アドベンチャーゲーム)というゲーム様式を表わしているということはできないでしょうか。登場人物たちは台詞を交わし合う、そのメッセージをプレイヤーは読んでゆく。

プレイヤーという観客と、舞台化していく物語。

恋愛に、SEXに、設定に構成に、あらゆるパースペクティブを倒錯させる「彼女たちの流儀」の流儀は、しかしそのメッセージはとても誠実で、たぶんに青臭いけれども決して嫌味には感じられない。それはまさしく巧みな"舞台装置"がなせる業だといえるでしょう。なにせ物語(リアル)と劇があるのではない、体育館壇上の劇を含めた、彼女たちの舞台があるだけなのですから。
正直なところ、「月の箱庭」編に描かれるエピローグは拍子抜けでした。なにしろ胡太郎が吸血鬼になって鳥羽莉とともに永遠を手に入れたというのですから。よくもまあ……リアルは破棄され、ナイト《プレイヤー》のご都合主義が花咲いた、所詮は劇以外の何者でもないんですがね。でもそれでいいんだとも思います。僕らプレイヤーは、彼や彼女と同じように、倒錯を倒錯だと、間違いを間違いだと認識できるからこそ、この作品を正式に楽しむことができるのであって、「ここは私の立つべき場所。私の存在するべき舞台」と鳥羽莉が宣言するように、僕らプレイヤーの立つ場所は”その場所”と違うと宣言しなくちゃいけない。そんなメルヘンみたいなエンディングは、好ましいと思いつつ嫌わなくちゃいけない。
「なかなか、思い通りには行かないもんだね」「そんなの当たり前じゃない。簡単に思い通りになる世界なんて、きっと嘘だわ」。吸血鬼カップルになりおおせた鳥羽莉は、最後の最後で物語そのものを否定する。赤く染まったタイトル画面の空は、プレイヤーのメタファライズなまなざしを吸い、再び空が青色を取り戻すと、そのまなざしを吐き出した。「この世界には、きっと本当のことは何もない。本当も、嘘も、それを決めるのは私たちの気持ちに過ぎないんだ」。自分にとって何が本当のことなのか、「本当のことは何もない」世界に束の間浸していた、まなざしの記憶から僕らプレイヤーは呼び起こさなければなりません。「私たちの気持ち」と言われてもそれが一番わからないのだけどね。僕は。とりあえず、永遠は勘弁ということと、日本中の旅館に連絡を取って2日で火乃香さんを探し当てたというのが嘘だということから、始めようかと思ってますのよ。