観測する主体としてのプレイヤー、観測機器としての主人公

 親の影響か、僕は子どもの頃から旅行や遠出というものを積極的にしない、根っからの故郷引きこもり人間で、今でもそれは変わっていないんですが。大学で福岡出身の友人を得、1年次の夏休み、青春18切符を使って福岡に帰省するという彼につきあって福岡まで旅行したことがあるんです。
 旅行と言えば学校の修学旅行(日光・京都)、自発的に行ったとしてもせいぜい箱根か山梨どまりだった僕が、いきなり関西をすっ飛ばし本州を離れて九州ですよ。僕にとってはまさに驚天動地な出来事だったわけです。
 まあ、行程のほとんどは彼が決めたもので、それに従って来るだけでいいからと彼が言うから僕は同行し、彼にとってはていのいい暇つぶし相手だったんでしょうね。それでも途中で別行動をすることになり、僕は以前から興味があった四国に渡って、香川で讃岐うどん高知でかつおのたたきを食べて宇和島城とかマイナーな城を訪ね歩いたりと、初めてにしてはなかなか充実した旅だったなあ。
 そんな気ままでのんびりとした旅程。座り心地の悪い夜行列車でまったく眠れず、そのまま夜が明けてしまい、仕方なく車窓の縁に顎を突いてぼんやりと外を眺めていると、太陽が昇る直前の蒼い靄に包まれた名も知らぬ街並みが現れてきて、そのとき僕はふと疑問に思ったんですよ。
 それまでの僕だったら決して知りえなかった、福岡出身の友人と親しくならなければ決してその存在を意識することもなかっただろうあの街は、果たして僕が今こうして眠気まなこで眺めている以前からそこにそうやって存在していたんだろうかと。
 そんなの当たり前、何を馬鹿なことをと思われるかもしれません。けれどそれを確かめる手段を僕はそのとき持ちあわせてなくて(何しろ僕はこの電車が今どこを走っているのかすらわからなかった)、だとしたら、あの靄に包まれていまだ眠りに沈んでいる名も知らぬ街は、僕が見る・認識することによって初めて存在しているということもできるんじゃないかと、そんなアホらしいことが思い浮かんだんですよ。
 ――観測する主体としてのプレイヤー、観測機器としての主人公。
 プレイヤーは主人公というレンズを通してヒロインを観測している。彼女たちを表象する立ち絵が常に正面を向いているのは、地球から見える月の面が表であることを誰も疑わないように、当然のこと。たとえ彼女たちが本当は別の方角を向いているとしても、観測している側は、何であれ見えている面を表だと認識するでしょう。
 人間の姿でいうところの表とは、表情が正当に判別される面のことであり、立ち絵は記号に過ぎないのだから、ヒロインは観測されている限り正面を向いているしかないともいえます。兎は月で杵をつき続けるしかないのです。
 そしてプレイヤーは、選択肢の選択を通してひとりのヒロインに焦点を絞っていくことになります。そこから外れてしまった他のヒロインは、当然、観測されなくなる。もちろん観測機器の都合で観測されなくなろうが彼女たちは存在しているはずですが、しかし彼女たちの存在を主人公というレンズを通してしか認識できない僕たちプレイヤーにとっては、自分の乗っている電車が今どこを走っているのかすらわからない僕が見ていた街のように、観測されなくなった時点でいなくなってしまう。
 旅行を終えた僕があの街はどこにあるなんという名なのか調べようとしても、きっと難しいように、主人公との同一化(プレイ)を終えたプレイヤーがヒロインたちの消息を調べようとしても、それは不可能なのです。主人公というレンズが夢想する極私的な世界であるギャルゲーとは、「ヘタレ」「超人過ぎ」など夢落ちまがいの突き上げに常に晒されながら、だからこそより潔癖に、いっそう頑なに、そこにあるものだけが全てであり、そこにないものは何もない。
 少女マンガのコマに多い何も描かれてない空白は、社会との断絶と閉鎖された人間関係を象徴していると宮崎駿監督は語っていたけれど、作品にとって都合の悪いこと・純度を損なう諸々を空白に溶け込ませているのに便乗して、自らのリアルや社会という曖昧な生きづらさを読者もまた放り込んで、感情移入しやすい環境を自ら構築しているのでしょう。
 レンズがなければプレイヤーはヒロインを観測することができず、観測機器に投影されないものは、プレイヤーにとって存在しないということ。そこには幸福もなければ、不幸もありません。「選ばれなかったヒロインがみんな不幸になる」という発想に僕が違和感をもつゆえんです。コマの空白のように、主人公-プレイヤーの共犯でヒロインとの関係にとって都合の悪い事実をなくしてきたのだから、幸も不幸も、そう"なる"主体そのものが少なくともその1プレイには存在していない。
 不幸というならむしろ、物語序盤まではヒロインとして平等に観測されていた彼女たちが、観測主体(プレイヤー)の意向と観測機器のシステム上の規制(1シナリオ1ヒロイン制)によって"なかったこと"にされてしまうことでしょうか。それすら、既にいなくなっている彼女たちのことを、あくまで第三者が「不幸だろうな」と推測するという話であって、そもそも幸福や不幸など第三者には決して測れない主観的なものなのだから、埒もない想像に過ぎません。
 「選ばれなかったヒロインがみんな不幸になる」ではなく、「選ばれなかったヒロインはみんな不幸になって欲しい」ということなら、わかりやすいんですけどね。昔プレステで発売された恋愛ゲーム「リフレインラブ〜あなたに逢いたい〜」のエンディングでは、主人公と結ばれることになるヒロイン以外のヒロインと、男友達の3年後の姿が1枚絵として描かれるんですが、それが社会的に好ましいあるいは本人の望むものになるかどうかは、主人公の好感度の高低に拠ります。
 リフレインラブ~あなたに逢いたい~ Major Wave1500シリーズ
 例えばヒロインのひとりで社長令嬢の高宮祥子は、主人公の好感度が低いと高級ホステス、高いと父の会社の副社長という具合にエンディングが変わります。これなど、ギャルゲーというものが、プレイヤーのどういう了見のもとに出来上がっているのかということをあからさまに示す好例といえるでしょう。もちろん、高級ホステスや女優が一概に不幸だとは言えません。とんでもありません。
 つまり、不幸とまではいかないけれど(男友達に関してはより明確に不幸、「フリーター」とか「呼び込み」とか…)、あまり幸せとはいえないと考えてしまいたい自分がいるというだけの話です。
 ギャルゲーのヒロインは、主人公によって救われ幸せにしてもらうことを待ち望んでいる、というより、主人公の関与がなければその人生すらままならないからヒロインであることができるのだといってもいい。何度目かのプレイによって主人公に振り向いてもらえるという確信(それはシステムによって裏打ちされている)があればこそ、ヒロインは健気に主人公のことだけを想っていられるし、たとえ1回目のプレイでそうならなかったとしても、大人しく引き下がること(いなかったことにされること)ができるのです。
 漫画「ママレード・ボーイ」のように、小石川光希に振られた須王銀太が同じく松浦遊に振られた鈴木亜梨実と付き合うようなことが、ギャルゲーであってはなりません。それは2回目以降のプレイ(プレイヤーの未来)を奪うことであり、完全なる自己中心・独占・万能世界を脅かしかねないこと。主人公にのみその将来を依頼するヒロインという仕様を真っ向から否定するような暴挙は、あってはならないのです。
 ママレードボーイ全曲集
 これもかつてプレステで発売されたギャルゲー「てんたま」で、主人公の幼馴染である相沢貴史と篠崎千夏は、ひそかに相思相愛の間柄。けれど長い付き合いなのがわざわいして思いを伝え合えずにいます。主人公の早瀬川椎名が、彼のもとにやって来た見習い天使・花梨と結ばれる大団円的なベストエンド(最後にプレイすることのできるシナリオ)では、ふたりは無事付き合い始めているんですが。
 てんたま -1st Sunny Side- (2800コレクション)
 しかし篠崎千夏の単独ルート(シナリオ)で主人公は、よくあることですが相沢貴史とのことで相談に乗っているうちに、千夏に惹かれるようになってしまう。千夏もまた主人公への想いを意識するようになり、いつまでも煮え切らない貴史そっちのけでふたりは結ばれてしまうんです。
 そもそも設定段階で千夏と貴史が両思いであることはわかっているのに、千夏を主人公にとってのヒロインと格付けてあること自体人でなしだなあと僕は思ったものですが。貴史はいい奴だし、先に述べたようにギャルゲーとしてはどこか違和感が残ります。
 千夏にとっての自然だと思われるハッピーエンドと、主人公の掲げる千夏シナリオのハッピーエンドの食い違いを、そうプレイヤーが意識してしまうことは、ギャルゲーとしては割とリスキーなことです。そんな罪悪感じみた後味の悪さにあって、最後の最後で貴史と千夏がくっついてくれたのは妙に救われましたね。観測とは実に興味深いものです。
 とにかく、千夏が主人公になびいたことにショックを受けた貴史は、主人公の恋を応援していた手前、特に修羅場を主催することもなく、主人公たちが住む街をひっそり出て行きます。彼のもとにやってきた見習い天子・葵とともに。電車に乗って。
 貴史はどこに行くのか――。
 それは現主人公の早瀬川椎名にとっては名も知らない、知りようもない街。貴史に認識されることで初めて存在することができる、いまだ蒼い靄に包まれた場所に降り立って、日の出とともに今度は彼だけが観測する世界を作り上げてゆくのでしょう。あいにく、彼に観測主体が"降臨"することはなかったみたいですが……。