痛みに慣れない、絶対慣れない

教育テレビの「きらっといきる」5月9日放送分、“ごっつい痛み”はあるけれど〜激痛を伴う2つの病・井上尚子さん〜を見ました。
http://www.nhk.or.jp/kira/04program/04.html
この方は2つの難病を抱えていて、痛みに関する神経回路の異常と身体的なストレスによって、風が当たったり洋服がこすれるだけで痛みを感じてしまうという、なんというかもう想像を絶するような症状で、しかも治療方法すら見つかっていないというのです。わけもわからずただ壮絶に痛いだなんて、そんなのありかよ! 風はいつだって心地よいものじゃなかったのかよ!
そんなひどい境遇と凄まじい生活を紹介するVTRのあとに、スタジオでこんなやり取りがあったんですね。

「こういう表現が適切かどうか、ちょっと分からないんやけどね、たとえば痛いということが続くと、“慣れ”ということは?」
「いや、慣れません。もう絶対慣れません。毎日痛かったら、毎日苦しい、毎日つらいです。それは慣れません。でも、朝から晩まで“痛い痛い痛い、苦しい苦しい苦しい”って言っていて、24時間がもし1時間になるんだったら、私も言っています。でも、24時間は24時間で変わらない。むしろ50時間、60時間に感じます。同じ24時間を過ごすのだったら、私は面白いこと考えて、楽しいこと言って笑ってる方がいいんじゃないかなと、浅はかかもしれませんが、そう思います」

痛みには絶対慣れることができない。僕はこの話にちょっと衝撃を受けました。この方の境遇とはあまり関係のないところで。
たとえば幼少時に受けた虐待とか、精神的に困難な事態に直面して解離的な、「自分ではない感じ」という捉え方で現実の痛みを疎外させることができるというような話を聞いていると、痛みを防御するということに関して人間とはなんて便利なシステムを備えているんだなどと思ってしまうけれど。身体的な痛みというものにはそのように都合の良い逃げ場なんてないのだということを、そこはかとなくまざまざと思い知らされたのです。
というより、離人症性障害とはその名の通り精神的な反応であると同時に障害であり、確固たるひとつの病理症状でもあり、決して都合の良いものではないわけで。たとえばすり傷を作ってしまって、すごく痛いときは確かにあるけれども、ちょっと我慢していればスーっと痛みが引くというか、安定していくものじゃないですか。けどそんなもの、身体にしろ精神にしろ本物の痛みにしてみれば"子どもだまし"に過ぎなかったのだなあ。
僕らはえてして嬉しいこと、幸せなことにたやすく慣れてしまう。毎月1万円のお小遣いをもらっている小学生は、それが他の友達に比べて高額であることをわかっていながら、つい「もっと欲しい」と思ってしまうように。しかし痛みということに決して慣れることができないということは、それは非人間的なことなんでしょうか、それとも人間的なんでしょうか。
例えば僕が貴方を傷つけてしまったということを、僕が毎日痛く毎日苦しく毎日つらく感じてしまうことを避けられないのだとしたら、それは人間的なことだといえるのでしょうか。わからない。僕らはもしかしたら、痛いことはいつまでたっても痛いから、なるべく遠ざかろうとするほどには、幸せということをそれほど切実に追い求めることができないのかもしれません。幸せはいつか色褪せてしまうけれど、痛みはいつまでも慣れるものではないらしいから。
痛くないという意味での"消去法的な幸せ"しか、僕らは知ることができないのかもしれませんね。