パパとママへのクリスマスプレゼント

 その小さな男の子は、布団の中に隠れるようにしてベッドにうずくまり、耳を手でふさぎながら、ながいながい夜を本当の眠りにつくまでがまんしていました。
 手でふさいでいたはずの耳からは、下の階からパパとママの大きな声が聞こえてきます。
 パパとママは、今夜もけんかをしているのでした。


 男の子は、パパとママのことが大好きでした。
 大きくてあたたかくてやさしくてつよいパパとママが、男の子にはどんなおもちゃより大事で、どんなヒーローよりかっこよく、この世でいちばん大切でした。
 パパとママも男の子のことが大好きです。目に入れても痛くないくらい、愛していました。
 でも、パパはママのことが、ママはパパのことが、男の子ほどに大好きではなく、愛してもいなかったのです。


 パパとママがけんかをしている声を聞くと、男の子は痛くてたまらなくなりました。
 遊んでいるときにころんでできたすりきずよりも、ドアに足の指をはさんでしまったときよりも、ずっと痛くて、体のどこを探しても痛い場所が見つからなくて、ただ、耳をふさぐしかありませんでした。
 その痛みは、まるで体をふたつに引きさかれているようでした。
 となりのお家のパパとママがけんかをしているのを聞いても、全然痛くなんてならないのに、どうして男の子のパパとママがけんかしているのを聞くと、こんなに痛くなってしまうんでしょう。
 男の子のパパとママが、となりのお家のパパとママより特別に悪いことをしているんでしょうか。


 あるとき、本当は聞きたくなかったのに、聞きたくてしょうがなくなって、男の子は知らないうちに耳をふさいでいる手の指をひらいてました。
 すると、パパとママのけんかの声に男の子の名前がよく出てきていることに気がつきました。
 男の子のあの痛みがいきなり大きくなりました。
 胸のどきどきが早くなって、大きくなっていることがわかりました。パパとママのけんかを聞くと感じるこの痛みが、胸のどきどきから出てきていることに男の子は気がついたのです。
 この胸のどきどきは、いきているということだと先生が前に教えてくれました。


 (あ、そっか。
 パパとママが特別に悪いことをしてしまっているのは、きっと、ぼくが悪い子だから。
 ぼくの胸のどきどきが早くなって大きくなって、痛くてたまらなくなるのは、きっと、ぼくがいきているから。
 痛いのはいや。
 大好きなパパとママが特別に悪いことをするのはもっといや。
 だから、ぼくは"いきるのをやめよう")
 男の子は、そう、きめました。


 あるクリスマスの夜のことです。
 男の子は、先生に教わったようにクリスマスカードをくつしたに入れて、ベッドのすみに下げておきました。
 サンタさんがやってくるのをベッドの中でまっています。
 下の階からはいつものようにパパとママがけんかをしている声が聞こえてきましたが、なぜか今日の男の子は痛みを感じませんでした。
 外からそりの走る音と鈴のゆれる音が近づいてきました。男の子の部屋の窓がしずかに開けられると、白い光につつまれた赤いサンタさんが立っていました。
 男の子はベッドから起きあがります。ほほえみとかなしみをないまぜにしたひとみで、サンタさんをまっすぐに見つめています。
 サンタさんに"あるおねがいごと"をしたのです。


 クリスマスも夜半を過ぎて、それまでけんかをしていたパパとママが男の子の部屋をおとずれました。パパはわきに大きくてカラフルな箱を抱えています。
 しかし、男の子の部屋に男の子はいませんでした。
 窓は開けはなたれ、かすかに残る白いといきが、部屋の空気をしんと張りつめています。
 ママは、ベッドのすみにくつしたが下げられているのに気づきました。
 そのなかに手を入れると、クリスマスカードが入っていました。
 ママが手にしているクリスマスカードには、あどけない字で、こう書かれていたのでした。
 「パパ ママ しわあせになってね」


 それからしばらくして、パパとママは、いっしょに暮らすのをやめました。
 それからもっとして、パパは別のママと、ママは別のパパと暮らすようになりました。
 それからずっとして、パパと別のママのあいだにこどもができました。ママと別のパパのあいだにこどもができました。
 パパとママの新しいこどもには、男の子の名前の片方がそれぞれあてられていました。
 パパとママは、しわあせになったのでしょうか。
 今年もまた、男の子の"あるおねがいごと"をかなえてくれたクリスマスが、やってくるのでした。

作品の精神がゲームというマテリアルをつかさどる

 18禁美少女ノベル系アドベンチャーゲーム作品におけるゲーム性を揶揄して、よく「電脳紙芝居」と言われるし、僕も常々そう思ってきた。1枚の、ほとんど動きもしないイベントCGを背景にテキストが延々と垂れ流される、そのイベントCGの合間を埋めるようにヒロインの表情を記号的に表した立ち絵や、申し訳程度の選択肢が挿入されるものの、ゲーム進行の根幹はあくまで紙芝居的である、というわけである。もちろん、ジャンル宿命的なゲーム性の貧弱さに対し果敢なデザイン性をもって立ち向かった野心作も多い。例えば、選択肢の分岐性を最大限利用してシナリオ構成に嗜好を凝らし、ヒロインシナリオ相互の多重構造関係を繰り返しプレイを通してプレイヤー自身が構築し、ヒロイン別のシナリオを読み解いていくという下位概念と作品世界のテーマを解明していくという上位概念を輻輳的に組上げていくことを目指したPS「Lの季節」/PS2「Missing Blue」。または、選択肢という、ノベルアドベンチャー系ゲーム性の拠って立つ部分をことごとく撤廃し、全く新しい手法によってプレイヤー自身がシナリオ及びシステム世界を解き進め、解き明かしていくというような感覚、アドベンチャーゲームにおけるより能動的なゲームプレイを模索したPS「Prismaticallization」などである。

 しかしこの2作品は、ゲーム性というファクターをマテリアル的な意味において、それを主導的地位として構造改革しようと試みた作品といえる。シナリオを著し、ゲームという俎上に載せるためのシステム部分に対する革命を企図している、ということだ。これに対し、ゲーム性というファクターのアストラル的(作品の精神・テーマ的なもの)な意味において、それを主導的地位としてゲーム作品を改革しようとした作品がある。例えばPS2My Merry Maybe」である。この作品はPS「My Merry May」の続編として制作されたが、実はそれは前作と別個の存在ではなく、前作を含む作品世界全てを巻き込んで、両作品にまたがる壮大なアストラル的意味においての完結・完成を意図した作品だったのだ。前作に続いて今作をプレイするという必然性と、予め規定された順序でシナリオを読み解いていくことで作品世界のアストラル的なものが、シナリオ単体ではなし得ないほどに鮮烈な衝撃をもってプレイヤーの中で築き上げられていく。

 前作との関連性、シナリオ構成が作品のテーマという精神的な部分を中心に制作されていくという、単純にいえば「全てのシナリオをクリアすれば作品のテーマが見えてくる」という、そう言葉にしてしまうと途端にありきたりとなってしまう"やり方"ではあるけれど、しかしこれこそが、ノベル系アドベンチャーゲーム作品のアストラル的意味におけるゲーム性、その萌芽ではないかと僕は考えるのだ。

 そして、そのアストラル的ゲーム性のあるひとつの完成形として強く惹かれたのが、この「CLANNAD」という作品なのである。

ヘタレで偽善的な主人公に抱く不自然さ、置いてきぼりの家族問題

 この作品における主人公はかなり重度の"ヘタレ"である。父親との喧嘩によって肩に怪我を追った状態で無理をしたために、肩を不自由にし、スポーツ特待生として入学が決まっていた高校の部活を退部に追いやられたことや、父親の変質を原因・言い訳にして、高校生活を遅刻常習・勉強を全くしない・進学を早々にして諦め、悪友と勝手気ままの怠惰・自堕落な荒れた生活を送っている。同情の余地はあるが根本的にヘタレダメ人間、にもかかわらずやけに常識・良識的ぶった態度でヒロインと交流し、自分の普段の素行を棚に上げてヒロインを諭したり、それなりのきっかけはあるものの、高校2年間全くしたことのなかったような、一生懸命何事かに取り組んでいくというようなことをする。

 主人公にそうさせるのは、もちろん古河渚を始めとしたヒロインたちの心の純粋さ、魅力であるのだろうし、恋愛の素晴らしさであり秘めたるパワーでもあるともいえるだろう。そういう意味においては、どのヒロインシナリオも感動的であるし、とても印象的である。しかし坂上智代シナリオにおいて、自らの可能性に挑戦しより高みを目指そうとしている彼女に対し、主人公は彼女に影響され自ら何事かに努力しようという意志を全く見せず、まるで住む世界が違うと決めてかかり、勝手に彼女に対し疎外感を感じ、なけなしの思いやりと、自己嫌悪から逃れるために自ら彼女に別れを告げてしまう。やはり高校2年間における主人公の堕落ぶりは精神の幹にまで達していたのであり、この別れが必然であると思えるからこそ、卒業式を迎えてもその性質は一向に変わっていない主人公と彼女が復縁するというエンディングは、とても不自然で、納得いかないものであった。

 それと共に全てのヒロインシナリオにおいて致命的に違和感を覚えたのは、自らが家族問題、母親を早くに亡くし、父親に対する強い不信感を心の奥底に抱いたまま、自身のそれは解決されることも救われることもない、家族をテーマにした各ヒロインのエピソードにおいて、共感的な眼差しでヒロインに接し、かつ思いを募らせていく、そういうことが主人公に果たして可能なのかという点だ。しかも主人公の抱える家族問題は劇中から察せられるようにひどく深刻であり、しかも現実に安定しているからこそ根は深く、主人公の父親はどのシナリオでもほとんど関係せず、存在しないものとして扱われていることからも分かるとおり、いっそ「いないほうがマシ」という位置づけですらあるのだから、家族というものに対する共感を覆う藪は深く、光はまるで見えてこない。

 そんな彼が、家族や仲間というテーマを切り口にしてヒロインと恋愛を育むというのは、個人的にひどく突拍子のない、不自然なものとしてしか映らなかった。一貫した僻みこそ主人公の自然な心理であるべきだと僕には思われたから。Key作品一流の印象深いラブストーリーばかりでプレイヤーとして単純に感動していたいのだけれど、少なくとも主人公には素直に受け入れられないものがあるんじゃないだろうかと思ってしまうのだ。

プレイヤーの感情・感覚をシステムに取り込む貪欲なゲーム性によって、開示されるテーマ性

しかし「CLANNAD」という作品におけるアストラル的ゲーム性は、僕の感じた主人公やヒロインシナリオに対する違和感・疑問・不自然さえも、作品の動機の重要な一部として見事に吸収していく。それがつまり「光の玉」であると僕は考える。各ヒロインシナリオから派生しシステム化した作品テーマの断片は、主人公という器の未完成性、深い藪に覆われている彼の共感によって取りこぼされて、届かなかった感情さえも含み寄せて光をまとい、タイトル画面に散らばっていく。それらはプレイヤーにとってもっとも近いタイトル画面という"場所"に置かれていくのだ。

 生い立ちから希薄だった「家族」という繋がりを、そのさまざまなスタイルとして主人公が知っていくということ、全登場人物の「家族」(またはそう呼べる繋がり)に対する想いに、プレイヤーの違和感・疑問・不自然さを昇華させたカタチとしての動機も重ねられた光の玉が、規定の数集まることで開かれる「After Story」篇。そこで主人公は恋人である古河渚に励まされ、支えられて怠惰な生活を脱し、苦労しつつも精神的に大きく成長していく。そして結婚・出産を通し、自らの父親に対する理解、本当の意味で知っていく、「家族」というものを。それと同時に、僕の心にひっかかっていたわだかまりも自然と溶け落ちていき、そしてあのBAD ENDを体験したとき、目頭を抑えながら僕は気づくのだ、主人公に対し強い共感を覚えていることに。その先に眩しいばかりに輝く、家族というものへの共感。主人公「岡崎朋也」という人物のありのままの家族物語が、そこにはある。

 主人公は光の玉が象徴する触れ合いを鍵として、開かれる「After Story」において成長し変わっていく、古河渚と共に。そして岡崎家は最後に分かりあい、解体していくが古河家の温かみは変わらずあり続け、ついに彼と彼女が新しく誕生させていく、家族という幸せのありかを。町が家族のメタファーであるのは、それが「変わっても同じ存在」でいられるからである、人々の想い(光の玉)があり続ける限り。親は子の幸せを願いながら生き、子は親の面影を追いながら生きる、町は日々変わっていくけれども、親と子を見守るその眼差しは町が町である限りついえない。時を経ても世代を下っても変わることがない、大切な繋がり、時を越えてそれは交錯する。

 もしかしたら人(主人公)という存在も、成長し変わっていくけれども同じでいられるのだということを、このメタファーは含んでいるのかもしれない。成長し変わっていく彼を「変わらない存在」として繋ぎとめていく光の玉は、僕らプレイヤー自身の想いであるのだという発想も、主人公をして選択肢を選ばせ、いくらか複雑なゲームを解き進めていく、彼における幸せな未来への導き手としてプレイヤーを捉えれば、あながち否定することはできないだろう。そしてプレイヤーと主人公の関係を家族的繋がりと見立てるのである。もしかしたらヒロインが主人公に惹かれていくのは、そういった光の玉そのものとしてのプレイヤーが象徴している、主人公の変わらない部分に対してであるのかもしれない。

 ヘタレでダメな主人公の人となり、置いてきぼりの家族問題という要素は、作品テーマにとってのまさに"端緒"であり、ヒロインシナリオで感じられた違和感は、この問題が、誰でもない、誰の助けでもなく主人公自身で解決すべきなのだという意思から生じた、意図的な配慮であり作品テーマへのアンカーでもあったのだろうか。その違和感をプレイヤーの心象のうちに浮かび上がらせるためにこそ、ヒロインシナリオにあのチグハグさを仕込んでいたのだろうか。もしそうだとしたら、それはまさに"とんでもない"ことである。

ゲームデザイン・テーマ・メッセージの鮮やかな融合、まさに奇跡

ここで僕は妄想する。『過去』(「After Story」BAD END)において、変わっていくことで自分の大切なものを失ってしまった主人公は、『過去』との連環を自ら断ち切り、各ヒロインシナリオが並存している『現在』において、どんなことがあろうとも決して変わらないでい続けようと誓ったのではないだろうか。しかし、多くのヒロインとさらに多くの人たちとプレイヤーの意志に触れることで少しずつ知っていく、人というもの、家族というもの、町というものが、想いの力によって「変わっても同じ存在」でいられるのだということ、変わらないでいるために変わっていく、成長し強くなっていかなければならないのだということ。そうして彼は、幸せな『未来』(「After Story」TRUE END)をつかみ取る。プレイヤーを含めた全ての登場人物たちの想いが時空を超えて奇跡を導き、時空の狭間に漂っていた『過去』からの糸が『未来』へと再び固く結ばれ、幻想世界に閉じ込められていた少女がタイトル画面というプレイヤーの場所に開放される。

 「彼女はいったい誰なのか?」

 それは「CLANNAD」という作品が僕らに贈るメッセージ。だからそんな野暮なことを聞いてはいけない。彼女は、プレイヤーであった僕らひとりひとりにとっての「生きる意味」を象徴する存在、彼女は、僕ら自身が、自分の町で見つけていかなければならない、気づいてあげなければいけないのだから。タイトル画面があらわす僕らの『現在』、木漏れ日を浴びながら眠り続ける彼女を探すための旅を、僕らそれぞれの『未来』に向けた、ありきたりで、いとおしい人生という旅を歩んでいるのだということを。

 全てのエピソードが、主人公を含め全ての人の想いが、どんなにもささやかな温かさが、作品にとって意味をもって存在し、シナリオ的にもシステム的にも関連し、繰り返すことで積み重ねられ、ひとつの未来を形作り、そうして幸せで満たされたプレイヤーの心は、作品の伝えているそんなメッセージを、ありのまま受けとめていく。作品を統合する見事なゲームデザインと、作品を貫通する真摯なテーマ、そして作品に織り込まれた制作者の温かいメッセージ、それらの鮮やかな融合によって産み出された奇跡、それが「CLANNAD」という作品なのだ。ノベル系アドベンチャーゲーム作品における精神性をより高め、より深く表現するために、あえてゲーム性改革に挑戦し見事果たしえたKeyという会社に、僕は惜しみなき賛辞を送りたい。やってくれるじゃないか!

古河渚以外のヒロインをより幸せにするためのゲームデザイン補強論

 「CLANNAD」をこう解釈し、高く評価した上で、そのうえで僕はこう考える。作品テーマの源流と結びついている、変わることを拒み成長することを止めている主人公が各ヒロインシナリオで迎えるエンディングは、HAPPY ENDであってはならなかったのではないだろうか、と。どちらかというとBAD ENDに近いNORMAL ENDこそが相応しかったのではないだろうか、と。また、「After Story」篇で光の玉を収集するための寄り道エピソードを全て取り除き、各ヒロインエピソード内の分岐シナリオとして同列に扱い、その上で「After Story」では、主人公の父親「岡崎直幸」、いわば旧き家族との分かりあいと、古河渚と築いていく新しき家族というテーマのみを描いていくべきであったのではないか、とも。

 変わらないでいること、変わっていくこと、変わらないで欲しいこと、変わっていかなければならないこと、それらの狭間で揺れ動き始めた主人公が最初に通る「After Story」で、迎える悲劇。そこでヒロインに関わる光の玉は全て消滅してしまう。繰り返しプレイすることになる各ヒロインシナリオにおいて、変わっていくということ、変わらなければならないということの本当の意味を見出した主人公は、彼女らとともに本当のHAPPY ENDを迎え、以前よりもさらに輝く光の玉を手に入れていく。そして全ての光の玉を集め直し、改めて開かれる「After Story」において、ついにあの奇跡が起こる…。そんなゲームデザインであったなら、「CLANNAD」はさらに完膚なきまでの名作になりえたのではないだろうか。

 今のままのゲームデザインだと古河渚以外のヒロインがあまりにも報われなさ過ぎる気がしないだろうか?全ヒロインの「After Story」を描けとはいわない、そうすると作品としての"しまり"がなくなってしまうと思うから。けれどせめて、「After Story」のそれと同じ息吹を他のヒロインシナリオのHAPPY ENDにおいても感じたいというのは、贅沢だろうか。

 また、各ヒロインシナリオがKey作品にしては平凡な感じがしてしまうのも確かである。前作「AIR」における神尾観鈴が「CLANNAD」の古河渚と同じように作品にとってのメインヒロインであり、「AIR」の霧島佳乃遠野美凪が「CLANNAD」の藤林杏他と同じような通常(攻略可能)ヒロインであるのだけれど、「AIR」の霧島佳乃遠野美凪シナリオで感じられた、恋愛的要素とは違うテーマ的な衝撃が、「CLANNAD」の藤林杏他のシナリオではあまりにも感じられなかった。これは「CLANNAD」という作品の掲げているテーマが、「AIR」でいう衝撃性とは無縁の地味で懐深い性質であるからだろうけれど、そうであるからこそゲームデザイン的・シナリオ構造的に衝撃的であることを目指すべきだったのではないだろうか。光の玉という小道具ではなく、もっと骨組みを揺るがすような野心。

 各ヒロインシナリオにおいて扱われている「家族」というテーマが、ヒロインの設定にまつわるエピソードを多少膨らませるための味付け、ちょっとした飾り程度の印象に終わってしまうかもしれない可能性は、光の玉の意味、しいては作品のテーマそのものに重大な負の影響を及ぼすものだと僕は思うのだ。勝手に大げさに考えすぎているだけだとは思うのだが。

童話であり続け、童話にしがみつくKey作品

 Keyが創る作品は、童話(メルヘン)である。良い意味でも、悪い意味でも。これまで発表した作品は18禁であり、ヒロインとのSEXシーンが描かれていたのに、今作においては18禁ではなく全年齢対象とし、SEXシーンを描かなかったのは、童話(メルヘン)であることに拘ったからではないだろうか。そして、童話(メルヘン)であることに逃げたためであるともいえる。もちろん18歳未満の多くのプレイヤーにも触れてもらいたいテーマであるし、プレイしてもらいたい作品であるのも確かである。それにKeyブランドの描くSEXシーンが伝統的に、精神的・行為的意味合いに重点が置かれたものであり、SEXによってもたらされる悦楽・快感といった要素の描写がとても淡白であることも、後ろ向き的に全年齢対象であることが歓迎される所以であろう。18禁美少女恋愛ゲーム作品は、やはり"エロゲー"でなければならないのだ。

 ヒロインとのSEX描写によって伝えられるテーマを大雑把に挙げるとするならば、恋愛(精神)的結びつきと、快楽的結びつきの2つがあると思う。通常の18禁恋愛ゲーム作品であれば、前者を目的とし後者を副産物(手段)とする建前の元、しかしそのどちらを目的としても良いように描写を作り上げていく。もちろん恋愛(精神)的意味合いが快楽的結びつきを強め、それがさらに恋愛(精神)的結びつきを高めていく循環システムとなっているのだから、両者を区別することはあまり意味がないともいえる。しかしKeyが創る作品では、SEX描写に恋愛(精神)的意味合いしか見当たらないのだ。高めあうものが存在しないために、それはヒロインと主人公の互いを想う気持ちの合計ゲージ以上に盛り上がりようがない。Key作品のSEXシーンは行為・儀式としてのSEX、立ってるときはキスをするようにベッドの上ではSEXをする、様式としての意味合いしか存在しない。矛盾する云いようだが、禁欲的なSEXなのである。

 そして、今作「CLANNAD」では「家族」がテーマである。家族というテーマを普通のドラマのように扱おうとすれば、それは当然"修羅場"を内包する生々しいものになってしまうだろう。それは家族というものが、恋愛のように創造的なものではなく、既に家族として成立している空間の内から、互いに衝突を繰り返しつつ安定的な距離感を見つけ出し、剥き出しの人間関係の中から幸せだけを取り出す濾過装置を製造していく過程を経て、構成されていくものだからである。衝突や修羅場がなければ家族は家族たり得ない。これは極論かもしれないが、間違いであるとは思っていない。

 であるからこそ、美しくてきれいで心に純粋な印象を残す童話であり続けようとするからこそ、存在しているのにもかかわらず存在していない父親を作り出し、主人公とは直接関係しないヒロインの家族・仲間をテーマにしたエピソードを著し、対主人公(プレイヤー)の衝突や修羅場が起こりようのない世界設定の元、家族関係のわだかまりを清清しく溶かしていく展開を自然なものとするために、童話であろうとする。そしてそれは、美しくも温かい、家族という幸せなるものを澄んだ眼で見つめることを可能にする。良い意味でも、悪い意味でも童話なのである。

 話は前後するがSEX描写についてもこの童話性が深く関係している。現実の表層的な部分を一義的に捉え象徴化していくのが童話の手法であると断定するとき、Keyの描くSEXが恋愛(精神)的意味合いしか見当たらないのにも納得がいく。また、童話であり続ける限り、SEXは気持ち良くてはいけない。快楽は生々しいまでに現実であり、象徴化のしようがないから、童話ではありえないのだ。そして「CLANNAD」という作品におけるSEXの精神的意味合いが、恋愛的なものから生命誕生的なものに取って代わられるのは、新しい家族を創造していくという「After Story」の主要テーマとして、必然となってくる。

 こうなってくると、、禁欲的であるばかりでなく、行為・儀式的意味合いも喪失して、もはや限りなく「存在しているのにもかかわらず存在していない」、主人公における父親のような希薄な現実としてしか、SEXを捉えるしかないのだといえる。主人公の看板である"不良"と、"エロ"が感覚的に非常に親しい関係であるのにも関わらず、むしろそれを逆手にとって「普段はエッチだけどいざとなると踏み込めない」、ラブコメにありがちな主人公設定を強引に持ち出してきているあたりがとても面白く、そして興味深い。もちろん相手(ヒロイン)ありけりのラブコメなのだけれど。

「ゲームとして素晴らしい」と評価できることの幸せ

 童話(メルヘン)は美しい、いつまでも心に残り続ける。それは子供の頃母親に読み聞かせられたお話ように。そしてそれは、Key作品の価値と、僕らの夢と、限界とを同時に示すものでもある。童話とは母と子の2人だけの世界で、母が子に読み聞かせるものであるように、Key作品とはKeyとプレイヤーの"2人"だけの世界で、Keyがプレイヤーに読み聞かせるものである。Key作品において声優による演技が一切ないのは、プレイヤーに読み聞かせているKeyが音声としての"声"をもたない存在だからである。

 さらに、立ち絵キャラが全てプレイヤーを向いているのは、童話が母と子の2人だけの世界だからであり、このジャンル作品のビジュアル的表現様式がここから一向に進歩しないのは、ジャンル自体の閉塞性もさることながら、この童話性が元来備えている閉鎖的・排他的世界観が簡易なシナリオ著述にとって好都合だからなのかもしれない。このジャンルの作品が普遍的に童話的であるのは、このような悪い意味においてであるが、そこを良い意味として、意図的に一貫して童話であろうとしてきたのが、これまでの、そして「CLANNAD」というKey作品であるのだろう。

 Key作品は徹底的に「ドラマ」となり得ない。ただし童話でしか描けない、伝えられないテーマがある。だからこそ僕らはKey作品に夢を見る。それをわかった上で僕にはひとついいたいことがある。主人公の家族である父親「岡崎直幸」とだけはせめて修羅場を描いて欲しかった。たった1シーンだけでもいい、最後は生々しいまでの親子喧嘩を演じて欲しかった。上がりきらない主人公の右肩で、父親の左脇腹に共感という名のヘナチンボディーブローをお見舞いして欲しかった。そういう分かり合いこそが、「ドラマ」こそがこの2人には相応しいと、僕は思った。

 「結局、人が生きる意味は、家族や愛す人の中にあるんじゃないかってな。」

 幸か不幸か「CLANNAD」は全年齢対象作品。100万人のエロゲーユーザーがプレイしても18禁になるようなことはきっとないだろうから、それなら10万人の一般ユーザーにプレイして欲しい。「AIR」をプレイしたときより一層、万人にプレイしてほしいと切に願ってしまう、そういう作品。シナリオだけではなく、ゲームとしてオススメである。「シナリオがいい」ではなく、「ゲームとして素晴らしい」と評価できることの幸せ、それこそが「CLANNAD」という作品の、最短にして最高の賛辞なのだから。