痛みに慣れない、絶対慣れない

教育テレビの「きらっといきる」5月9日放送分、“ごっつい痛み”はあるけれど〜激痛を伴う2つの病・井上尚子さん〜を見ました。
http://www.nhk.or.jp/kira/04program/04.html
この方は2つの難病を抱えていて、痛みに関する神経回路の異常と身体的なストレスによって、風が当たったり洋服がこすれるだけで痛みを感じてしまうという、なんというかもう想像を絶するような症状で、しかも治療方法すら見つかっていないというのです。わけもわからずただ壮絶に痛いだなんて、そんなのありかよ! 風はいつだって心地よいものじゃなかったのかよ!
そんなひどい境遇と凄まじい生活を紹介するVTRのあとに、スタジオでこんなやり取りがあったんですね。

「こういう表現が適切かどうか、ちょっと分からないんやけどね、たとえば痛いということが続くと、“慣れ”ということは?」
「いや、慣れません。もう絶対慣れません。毎日痛かったら、毎日苦しい、毎日つらいです。それは慣れません。でも、朝から晩まで“痛い痛い痛い、苦しい苦しい苦しい”って言っていて、24時間がもし1時間になるんだったら、私も言っています。でも、24時間は24時間で変わらない。むしろ50時間、60時間に感じます。同じ24時間を過ごすのだったら、私は面白いこと考えて、楽しいこと言って笑ってる方がいいんじゃないかなと、浅はかかもしれませんが、そう思います」

痛みには絶対慣れることができない。僕はこの話にちょっと衝撃を受けました。この方の境遇とはあまり関係のないところで。
たとえば幼少時に受けた虐待とか、精神的に困難な事態に直面して解離的な、「自分ではない感じ」という捉え方で現実の痛みを疎外させることができるというような話を聞いていると、痛みを防御するということに関して人間とはなんて便利なシステムを備えているんだなどと思ってしまうけれど。身体的な痛みというものにはそのように都合の良い逃げ場なんてないのだということを、そこはかとなくまざまざと思い知らされたのです。
というより、離人症性障害とはその名の通り精神的な反応であると同時に障害であり、確固たるひとつの病理症状でもあり、決して都合の良いものではないわけで。たとえばすり傷を作ってしまって、すごく痛いときは確かにあるけれども、ちょっと我慢していればスーっと痛みが引くというか、安定していくものじゃないですか。けどそんなもの、身体にしろ精神にしろ本物の痛みにしてみれば"子どもだまし"に過ぎなかったのだなあ。
僕らはえてして嬉しいこと、幸せなことにたやすく慣れてしまう。毎月1万円のお小遣いをもらっている小学生は、それが他の友達に比べて高額であることをわかっていながら、つい「もっと欲しい」と思ってしまうように。しかし痛みということに決して慣れることができないということは、それは非人間的なことなんでしょうか、それとも人間的なんでしょうか。
例えば僕が貴方を傷つけてしまったということを、僕が毎日痛く毎日苦しく毎日つらく感じてしまうことを避けられないのだとしたら、それは人間的なことだといえるのでしょうか。わからない。僕らはもしかしたら、痛いことはいつまでたっても痛いから、なるべく遠ざかろうとするほどには、幸せということをそれほど切実に追い求めることができないのかもしれません。幸せはいつか色褪せてしまうけれど、痛みはいつまでも慣れるものではないらしいから。
痛くないという意味での"消去法的な幸せ"しか、僕らは知ることができないのかもしれませんね。

無知なるファンの劣等感、原作ファンのつらさ

コードギアス 反逆のルルーシュR2」が面白いですね。特に最新の6話など、アクロバティックな空中戦闘というだけでも目の覚めるほどエキサイティングなのに、まるで競うかのように物語も2倍速みたいに疾走。しかも毎度毎度よくもまあと感心させられるくらい衝撃の展開を用意し、それでいて各キャラクターの個性や人物関係をきっちり織り込み、さらにはサービスシーンも忘れないという、この隙のない"手練手管"はどうでしょう。
これぞエンターテイメント。これぞ「コードギアス」。先が読めない面白さというものを久しぶりに味わっているような気がします。振り返ってみて「これは無難か」とか「結局王道だったな」と思うことすらないのだから、大したものです。
それに、この「コードギアス 反逆のルルーシュ」というアニメが巷にあふれている原作先行の作品でないこともうれしい。それは全てのファンが平等に楽しめるということ。知識差もせいぜい雑誌等でチェックしているかしていないかの違いだろうし、そんなものは最新話を見れば解消しよう程度のものです。
まあ放映前に映像が流出したとかいうような話を聞きますが、それはそれとして、アニメがオリジナルであるからこそ情報に格差が生じないんですね。原作というバックボーンがないのにも関わらず、世界観や登場人物はかなり重厚で、メカなどのディテールにもこだわっている。それなのに視聴者は毎週日曜日の午後五時、知識的に"素っ裸"の状態で楽しみにしていなければならないわけです。オタクとしてはなんて屈辱的でエキサイティングな体験であることしょう。
――原作つきのアニメは原作を越えることができない。あるいは原作とは別物だという指摘をよく聞きます。それはその通りだと僕も思います。けれど僕が納得いかないのは、原作ファンが、アニメ化された作品を「原作では〜だった、アニメはその点ダメだな」といっぱしの批評家面して貶すようなことを、原作ファンにだけ許された特権だとでも言わんばかりに、さも得意げに行っているということです。
本当に原作のファンで、その作者のことを応援しているのなら、少なくとも大っぴらに貶しちゃダメでしょう。僕はマンガや小説を読まない人間なので、原作つきのアニメであっても原作を読まずに視聴するケースがほとんどです。そんな僕がけっこう面白いと思って観ているアニメ作品を、原作ファンだと名乗る人物が批判しているのを見かけてしまうと、僕の感じていた面白さが少し色褪せてしまうんですよ。どうしようもなく、途端に。
情報格差というか、僕は原作を知らない。もしかしたら原作のそのシーン(話)では、僕が感じていた面白さよりももっと面白く描かれているのかもしれない、そしてアニメではそこを上手く表現しきれなかったのかもしれない。わからない。わからないからこそ、そういうものなのかと感じてしまうんですよ。
強いていうなら、70点のテストの成績、自分ではけっこういい点数が取れたと思っていても、母親に見せて「70点? 残念だったわね」と言われたら、けっこういい点数だと思うことはもうできないでしょう、僕は。そういうことです。親と子には保護・被保護という権力的・人生的に歴然とした格差があって、原作ファンとアニメファンには隠然とした情報格差があるということ。それは自分の感じ方を撤回してしまうだけの力があるのです。
「原作のほうが面白く描かれていると思うんだったら、原作を読めよ」と言われるかもしれません。しかし考えてもみてください。「アニメが面白いからこりゃ原作も読むしかないぜ」という場合の意欲と、「アニメがそれほど面白くないらしいから原作を読むことにするか」という場合の意欲を比較したとき、どちらのほうがより積極性を帯びたものになるでしょう。そして、一度撤回させられた面白さを、原作とはいえ同じ作品を改めて鑑賞しよう、正規の面白さを味わってやろうなどと思えるでしょうか。おそらく「そこまでするほどの作品じゃないだろう」と思ってしまうんじゃないでしょうか。
これはあくまで僕個人の場合なんで、一般化するつもりは毛頭ないんですが、程度の差を指摘されることで、本質的なものまでこぼしてしまうというようなことが、原作つきアニメを視聴する"無知なる"ファンにはありうるんだと思います。そしてそれは誰にとっての不幸かと言われれば、原作ファンになるかもしれなかった"無知なる"ファン本人であろうし、新たなファンを獲得するかもしれなかった原作者も含まれるかもしれません。作者はきっと、自分の作品のファンがひとりでも増えることを純粋に嬉しく思うものなんでしょう?
ここに至って、原作ファンとは作者を応援するものではないのか、作品さえ面白ければそれでいいのかという、深刻かつやるせない疑念が浮かんできます。僕が深刻かつやるせない気持ちになっても、致し方ないことではあるんですが。
これが「コードギアス」であれば違います。もしこの作品を貶すような視聴者がいれば、僕は機会を見て反論を試みるでしょう。それでも相手に理解してもらえなければ、「そういう見方もあるのだな」と引き下がるだろうけれど、それでも僕の「コードギアス」を面白いと思う部分はまったく損なわれはしない。損なわせない。これはまさに情報格差がないゆえ、劣等感がないゆえの「僕が面白いものは誰がなんといおうと面白いのだ」という矜持です。
情報格差がない平等、それは誰も持っていないという意味での平等であり、ましてや衛星やOVAでなく、全国津々浦々ほとんどの誰もが視聴できる地上波で放映し、しかも放映後24時間はネットで無料視聴できる。これはもう完璧な、完膚なきまでの平等さですよ。万歳したくなるくらい。
ああ、なんか話がずれてきているな。これではただの熱烈な「コードギアス」ファンじゃないか――。
つまり僕が言いたいのはですね、もちろん原作つきのアニメを原作ファンが視聴するなということではありません。それこそオレ何様です。けれど観ると決めたら覚悟を決めて、良かった点だけを指摘するよう心がけましょう。原作ファンでしか知りえない"こだわり"を提供しましょう。それでいて原作と比べるような物言いは極力避けましょう。
そして、あらゆる配慮を惜しまず、それでも我慢ならないくらいそのアニメがひどいものだったら、自らの矜持にかけて貶したくて仕方がなくなってしまったら、何も言わずにそのアニメを視聴すること自体辞めてしまって、アニメ化されたことそのものを忘却するために原作を読み直してみてはいかがですか。つまりそういうことです。
僕にしては珍しく好んで読んでいたライトノベルのシリーズに、「キノの旅」があります。これがアニメ化したというのは、きっと多くの方が知っているかと思います。映画化もしたんですよ。で、ちょっと前にこの1巻をレンタル店で借りてみたんです。観てみたんです。けれど2話の途中で停止し、そのまま返却してしまいました。
あれは、なんというか、体質にあわなかったというか。身体が"ゾクゾク"ってしてしまうくらい、ダメでした。キャラデザの粗さとか、モトラドの声とか、「キノの名言」みたいにわざとらしいテロップとか…。
このエントリーの内容からするとこんなこと、書いちゃダメなんですけど、これまでだって「絶対書かない」と心に決めていたというのに。ごめんなさい、具体的な事例が必要かと思い告白させていただきました。今試しに「キノの旅」のアニメ版の感想をググってみたんですが、面白くないという感想は見つかりませんね。もしかしたら、単に僕が原作つきのアニメを原作ファンとして鑑賞するときの態度、というかスキルが備わっていなかったのかもしれません。それは、ありえるな。
原作ファンがアニメ化された作品を視聴するということがこんなにも辛いことだったなんて、僕はこのとき初めて知りました。原作ファンには原作ファンにしかわからない辛さがあるのだと。それでも観たくなる気持ちというのもまた、理解できないことはない。
ああ、何が言いたいのかよくわからなくなってきました。
ただ、かつて僕が原作のファンで、その原作がアニメ映画化決定と告げるアニメ雑誌の表紙を見たときの狂気的な衝撃。徳間ホールで試写会を観終えて、そこからどうやって駅まで戻ってきたのかよく覚えいないという恍惚。「耳をすませば」というそんな幸せすぎる記憶が、マンガ・小説を滅多に読まないことよりも深刻に、原作つきのアニメを原作ファンとして"ひとかど"に鑑賞するための適正な経験を阻害しているのかもしれません。
単純だから、困難で、楽しいにとりとめはないから、結論もありません。長々と書いてきたけれど、どこまでも個人的な話です。

発達障害の子どもたち 杉山登志郎

発達障害の子どもたち (講談社現代新書 1922)
これは良い本ですね。発達障害児を持つ親御さんのみならず、子どもと関わるすべての大人に読んでおいて欲しい一冊。具体的な事例を多くまじえながらの理論的解説はとてもわかりやすく、発達障害児の療育に長年携わってこられた筆者がゆえの熱さ(!)はとても共感的です。
特に、子育ての根本部分は健常児だろうが自閉症児だろうが大して変わらないということが妙にうれしく。規則正しく健康的な生活、信頼と愛着の形成、遊びを通じた自己表現、身辺自立、コミュニケーション能力の確立と集団における基本的ルールの学び――。これらはつまるところ子育ての普遍的なルートであるのだし、それが早いか遅いかの違いでしかないのだと(僕は言葉を話し始めるのが普通より遅くて、母親を心配させたらしい…)。ただ、それぞれの課題には上手く身につけられるのに適した年齢制限というものがあって、確かに大変なことには違いないけれど、決して難しいことではないんだと勇気づけられているような気がします。
そもそも人間という種には、受精の困難さと生理学的早産という宿命的なリスクにあって、乳幼児が発達障害を抱えて産まれる素因は誰であれ常に存在し、しかしだからといって必ず発現するというものではなく、環境的な影響も大きい。大切なのはそだち。それは急がないこと。
まるでゲームでも攻略するみたいにオートマティックな「何歳までにできるようになる」といった情報や、"普通"という名の姿なき理想が母親を精神的に縛り、そこから少しでも遅れてしまうと不安となる。焦りとなる。思うようにならないもどかしさと、理解できないかんしゃくがイライラとなって、1体1の密室のなかで積み重なり、充満した陰鬱さが虐待へと結びついてしまう。
当然のことながら、信頼と愛着が形成されるべき親子関係における虐待こそ、困難な発達障害を発症させ悪化させる最大の環境要因なのです。
ではどうするればいいか。自分の物としてではない、ひとりの存在として子どもを対等に認め、できないことを叱るよりもできたことをほめる。かんしゃくを起こさなかったことすらほめようと思えばほめられます。そして早寝早起きを基本とした規則正しい生活、つまり自分が健康であるよう心がける。例えばADHD児に対しては「おだてまくる」覚悟が必要だと筆者は言うように、適用の仕方は多少異なるものの、こと"そだつ"という基本的な部分に関して、健常児も発達障害児も変わらないのです。
そのことをわきまえた上で僕らは、特殊学級特別支援教育というものへの潜在的な蔑視、できれば入れたくないという偏見を意識することから始めなければならないのかもしれません。それは発達障害児本人たちの幸せをまったく考慮していないものだから。そもそも発達障害とは"障害"ではなくて、正しくは発達の道筋の乱れ、あるいは発達の凸凹なのだという。そう考えてみると、リアルの女性を生理的なまでに嫌悪しギャルゲーの二次元美少女に"萌え萌え"言ってる僕が偏見を持つなど、まったく"おこがましい"ことだったのかもしれません。
発達障害児の早期発見について、日本は世界に冠たるシステムを備えているという指摘、最近何かと批判されることの多い教育現場を、スウェーデンストックホルムでは少人数教育であるにもかかわらず高校生の17パーセントが退学しているのに対し日本では40人規模の集団教育にあって3パーセントに過ぎないと述べ、現場を鑑みないマスコミの安易な教育批判、教師批判とその風潮を厳に戒めています。
学級崩壊に代表されるように、子育て支援という要素がますます重要になっている教育現場において、第一線の教師たちはかかる重圧に苛まれながら、懸命に日々苦闘し成果を維持し続けている姿に僕らは思いを及ぼす必要があります。そして、絶対的に不足している特殊教育専門施設の整備と、専門家の育成・資格制度の充実を彼らとともに求めていくこと。それは現場教師に対する喫急なサポートであり、今日と将来すべての子どもたちのために必要なことなのです。
そういう堅苦しいことより何より、親の理解のもと特別支援教育を施されることで発達障害児は、むしろ有能な労働者として成人し、障害者雇用制度を利用し大企業で立派に働いているといういくつもの事例を、我がことのように誇らしくうれしそうに語る筆者の眼差しは、その事実とともに僕の発達障害への思い込みを氷解させてあまりあるものでした。素晴らしい。

お知らせ

ブログの体裁をちょっといじろうと思ったら、壊れて、ちょっと元に戻らなくなっちゃったので、このまま放置新聞。ごめんなさい。
前のスタイル結構気に入ってたのに…。バックアップ取っておくんだったよ…。
追伸。
結局土曜の日中を費やして、version4.1にアップデートしてみたり元のversionに戻してみたりといろいろ試してみたけれど、ダメだったので、さっぱりあきらめました。だって原因が分からないんだもの。なので仕方なく、以前のようにはてなダイアリーで暮らしていこうかと思います。というか、結局1年も離れていなかったのね…。
さいわい、Movable typeで書いてきたエントリーはすべてはてなに読み込ませることができたので、まあコメントは反映されなかったけど、もう勘弁ください。このままズルズルと日曜日まで犠牲にするわけにはいかんのです。
ああ。そういやはてなダイアリーって先頭を1マス下げなくても自動で下げてくれるんだったね。便利だ。それに改行すると行間が少し開くから読みやすげだし、以前使ってたときは当たり前だと思ってたけど、なかなかどうして。慢性的に重いと言っても、MTだってエントリーを登録するのにちょっと時間がかかったし。
うおっ、「その場編集モード」がすごい便利! 「登録」が反映されるの早っ! 
あー、これはー。MT復旧を急ぐ必要ないかもなあ。

通り過ぎる車に恥も外聞もない

 車を走らせながらカーナビでエロビデオ見ていた奴、ちょっと出て来い。
 うちの母親が、信号で停まる度に前の車のカーナビ画面が見えてしまって、それが肌色のゆるゆる動くような感じで、すごい嫌がっていましたよ(説明しよう。母親は遠目が利くのだ)。しかもそういうときに限って進路がずっと同じだったりして……。
 お前ら、いったいナニをナビされたいというんだwww
 まあ、いつぞやのサイドウィンドウ全開でアニメ「うたわれるもの」主題歌「夢想歌」を大音量で流しながら通り過ぎていった痛車、というか街宣車もかなり恥かしかったけれどね。あれは車内ではきっと「○○のみなさーん、うたわれるものですよー」というテンションだったに違いない。
 そう考えると、そこはかとなくうらやましいですね。ウチの車にカーナビが付いていたとしてもエロビデオは見ないだろうけどね。

観測する主体としてのプレイヤー、観測機器としての主人公

 親の影響か、僕は子どもの頃から旅行や遠出というものを積極的にしない、根っからの故郷引きこもり人間で、今でもそれは変わっていないんですが。大学で福岡出身の友人を得、1年次の夏休み、青春18切符を使って福岡に帰省するという彼につきあって福岡まで旅行したことがあるんです。
 旅行と言えば学校の修学旅行(日光・京都)、自発的に行ったとしてもせいぜい箱根か山梨どまりだった僕が、いきなり関西をすっ飛ばし本州を離れて九州ですよ。僕にとってはまさに驚天動地な出来事だったわけです。
 まあ、行程のほとんどは彼が決めたもので、それに従って来るだけでいいからと彼が言うから僕は同行し、彼にとってはていのいい暇つぶし相手だったんでしょうね。それでも途中で別行動をすることになり、僕は以前から興味があった四国に渡って、香川で讃岐うどん高知でかつおのたたきを食べて宇和島城とかマイナーな城を訪ね歩いたりと、初めてにしてはなかなか充実した旅だったなあ。
 そんな気ままでのんびりとした旅程。座り心地の悪い夜行列車でまったく眠れず、そのまま夜が明けてしまい、仕方なく車窓の縁に顎を突いてぼんやりと外を眺めていると、太陽が昇る直前の蒼い靄に包まれた名も知らぬ街並みが現れてきて、そのとき僕はふと疑問に思ったんですよ。
 それまでの僕だったら決して知りえなかった、福岡出身の友人と親しくならなければ決してその存在を意識することもなかっただろうあの街は、果たして僕が今こうして眠気まなこで眺めている以前からそこにそうやって存在していたんだろうかと。
 そんなの当たり前、何を馬鹿なことをと思われるかもしれません。けれどそれを確かめる手段を僕はそのとき持ちあわせてなくて(何しろ僕はこの電車が今どこを走っているのかすらわからなかった)、だとしたら、あの靄に包まれていまだ眠りに沈んでいる名も知らぬ街は、僕が見る・認識することによって初めて存在しているということもできるんじゃないかと、そんなアホらしいことが思い浮かんだんですよ。
 ――観測する主体としてのプレイヤー、観測機器としての主人公。
 プレイヤーは主人公というレンズを通してヒロインを観測している。彼女たちを表象する立ち絵が常に正面を向いているのは、地球から見える月の面が表であることを誰も疑わないように、当然のこと。たとえ彼女たちが本当は別の方角を向いているとしても、観測している側は、何であれ見えている面を表だと認識するでしょう。
 人間の姿でいうところの表とは、表情が正当に判別される面のことであり、立ち絵は記号に過ぎないのだから、ヒロインは観測されている限り正面を向いているしかないともいえます。兎は月で杵をつき続けるしかないのです。
 そしてプレイヤーは、選択肢の選択を通してひとりのヒロインに焦点を絞っていくことになります。そこから外れてしまった他のヒロインは、当然、観測されなくなる。もちろん観測機器の都合で観測されなくなろうが彼女たちは存在しているはずですが、しかし彼女たちの存在を主人公というレンズを通してしか認識できない僕たちプレイヤーにとっては、自分の乗っている電車が今どこを走っているのかすらわからない僕が見ていた街のように、観測されなくなった時点でいなくなってしまう。
 旅行を終えた僕があの街はどこにあるなんという名なのか調べようとしても、きっと難しいように、主人公との同一化(プレイ)を終えたプレイヤーがヒロインたちの消息を調べようとしても、それは不可能なのです。主人公というレンズが夢想する極私的な世界であるギャルゲーとは、「ヘタレ」「超人過ぎ」など夢落ちまがいの突き上げに常に晒されながら、だからこそより潔癖に、いっそう頑なに、そこにあるものだけが全てであり、そこにないものは何もない。
 少女マンガのコマに多い何も描かれてない空白は、社会との断絶と閉鎖された人間関係を象徴していると宮崎駿監督は語っていたけれど、作品にとって都合の悪いこと・純度を損なう諸々を空白に溶け込ませているのに便乗して、自らのリアルや社会という曖昧な生きづらさを読者もまた放り込んで、感情移入しやすい環境を自ら構築しているのでしょう。
 レンズがなければプレイヤーはヒロインを観測することができず、観測機器に投影されないものは、プレイヤーにとって存在しないということ。そこには幸福もなければ、不幸もありません。「選ばれなかったヒロインがみんな不幸になる」という発想に僕が違和感をもつゆえんです。コマの空白のように、主人公-プレイヤーの共犯でヒロインとの関係にとって都合の悪い事実をなくしてきたのだから、幸も不幸も、そう"なる"主体そのものが少なくともその1プレイには存在していない。
 不幸というならむしろ、物語序盤まではヒロインとして平等に観測されていた彼女たちが、観測主体(プレイヤー)の意向と観測機器のシステム上の規制(1シナリオ1ヒロイン制)によって"なかったこと"にされてしまうことでしょうか。それすら、既にいなくなっている彼女たちのことを、あくまで第三者が「不幸だろうな」と推測するという話であって、そもそも幸福や不幸など第三者には決して測れない主観的なものなのだから、埒もない想像に過ぎません。
 「選ばれなかったヒロインがみんな不幸になる」ではなく、「選ばれなかったヒロインはみんな不幸になって欲しい」ということなら、わかりやすいんですけどね。昔プレステで発売された恋愛ゲーム「リフレインラブ〜あなたに逢いたい〜」のエンディングでは、主人公と結ばれることになるヒロイン以外のヒロインと、男友達の3年後の姿が1枚絵として描かれるんですが、それが社会的に好ましいあるいは本人の望むものになるかどうかは、主人公の好感度の高低に拠ります。
 リフレインラブ~あなたに逢いたい~ Major Wave1500シリーズ
 例えばヒロインのひとりで社長令嬢の高宮祥子は、主人公の好感度が低いと高級ホステス、高いと父の会社の副社長という具合にエンディングが変わります。これなど、ギャルゲーというものが、プレイヤーのどういう了見のもとに出来上がっているのかということをあからさまに示す好例といえるでしょう。もちろん、高級ホステスや女優が一概に不幸だとは言えません。とんでもありません。
 つまり、不幸とまではいかないけれど(男友達に関してはより明確に不幸、「フリーター」とか「呼び込み」とか…)、あまり幸せとはいえないと考えてしまいたい自分がいるというだけの話です。
 ギャルゲーのヒロインは、主人公によって救われ幸せにしてもらうことを待ち望んでいる、というより、主人公の関与がなければその人生すらままならないからヒロインであることができるのだといってもいい。何度目かのプレイによって主人公に振り向いてもらえるという確信(それはシステムによって裏打ちされている)があればこそ、ヒロインは健気に主人公のことだけを想っていられるし、たとえ1回目のプレイでそうならなかったとしても、大人しく引き下がること(いなかったことにされること)ができるのです。
 漫画「ママレード・ボーイ」のように、小石川光希に振られた須王銀太が同じく松浦遊に振られた鈴木亜梨実と付き合うようなことが、ギャルゲーであってはなりません。それは2回目以降のプレイ(プレイヤーの未来)を奪うことであり、完全なる自己中心・独占・万能世界を脅かしかねないこと。主人公にのみその将来を依頼するヒロインという仕様を真っ向から否定するような暴挙は、あってはならないのです。
 ママレードボーイ全曲集
 これもかつてプレステで発売されたギャルゲー「てんたま」で、主人公の幼馴染である相沢貴史と篠崎千夏は、ひそかに相思相愛の間柄。けれど長い付き合いなのがわざわいして思いを伝え合えずにいます。主人公の早瀬川椎名が、彼のもとにやって来た見習い天使・花梨と結ばれる大団円的なベストエンド(最後にプレイすることのできるシナリオ)では、ふたりは無事付き合い始めているんですが。
 てんたま -1st Sunny Side- (2800コレクション)
 しかし篠崎千夏の単独ルート(シナリオ)で主人公は、よくあることですが相沢貴史とのことで相談に乗っているうちに、千夏に惹かれるようになってしまう。千夏もまた主人公への想いを意識するようになり、いつまでも煮え切らない貴史そっちのけでふたりは結ばれてしまうんです。
 そもそも設定段階で千夏と貴史が両思いであることはわかっているのに、千夏を主人公にとってのヒロインと格付けてあること自体人でなしだなあと僕は思ったものですが。貴史はいい奴だし、先に述べたようにギャルゲーとしてはどこか違和感が残ります。
 千夏にとっての自然だと思われるハッピーエンドと、主人公の掲げる千夏シナリオのハッピーエンドの食い違いを、そうプレイヤーが意識してしまうことは、ギャルゲーとしては割とリスキーなことです。そんな罪悪感じみた後味の悪さにあって、最後の最後で貴史と千夏がくっついてくれたのは妙に救われましたね。観測とは実に興味深いものです。
 とにかく、千夏が主人公になびいたことにショックを受けた貴史は、主人公の恋を応援していた手前、特に修羅場を主催することもなく、主人公たちが住む街をひっそり出て行きます。彼のもとにやってきた見習い天子・葵とともに。電車に乗って。
 貴史はどこに行くのか――。
 それは現主人公の早瀬川椎名にとっては名も知らない、知りようもない街。貴史に認識されることで初めて存在することができる、いまだ蒼い靄に包まれた場所に降り立って、日の出とともに今度は彼だけが観測する世界を作り上げてゆくのでしょう。あいにく、彼に観測主体が"降臨"することはなかったみたいですが……。