発達障害の子どもたち 杉山登志郎

発達障害の子どもたち (講談社現代新書 1922)
これは良い本ですね。発達障害児を持つ親御さんのみならず、子どもと関わるすべての大人に読んでおいて欲しい一冊。具体的な事例を多くまじえながらの理論的解説はとてもわかりやすく、発達障害児の療育に長年携わってこられた筆者がゆえの熱さ(!)はとても共感的です。
特に、子育ての根本部分は健常児だろうが自閉症児だろうが大して変わらないということが妙にうれしく。規則正しく健康的な生活、信頼と愛着の形成、遊びを通じた自己表現、身辺自立、コミュニケーション能力の確立と集団における基本的ルールの学び――。これらはつまるところ子育ての普遍的なルートであるのだし、それが早いか遅いかの違いでしかないのだと(僕は言葉を話し始めるのが普通より遅くて、母親を心配させたらしい…)。ただ、それぞれの課題には上手く身につけられるのに適した年齢制限というものがあって、確かに大変なことには違いないけれど、決して難しいことではないんだと勇気づけられているような気がします。
そもそも人間という種には、受精の困難さと生理学的早産という宿命的なリスクにあって、乳幼児が発達障害を抱えて産まれる素因は誰であれ常に存在し、しかしだからといって必ず発現するというものではなく、環境的な影響も大きい。大切なのはそだち。それは急がないこと。
まるでゲームでも攻略するみたいにオートマティックな「何歳までにできるようになる」といった情報や、"普通"という名の姿なき理想が母親を精神的に縛り、そこから少しでも遅れてしまうと不安となる。焦りとなる。思うようにならないもどかしさと、理解できないかんしゃくがイライラとなって、1体1の密室のなかで積み重なり、充満した陰鬱さが虐待へと結びついてしまう。
当然のことながら、信頼と愛着が形成されるべき親子関係における虐待こそ、困難な発達障害を発症させ悪化させる最大の環境要因なのです。
ではどうするればいいか。自分の物としてではない、ひとりの存在として子どもを対等に認め、できないことを叱るよりもできたことをほめる。かんしゃくを起こさなかったことすらほめようと思えばほめられます。そして早寝早起きを基本とした規則正しい生活、つまり自分が健康であるよう心がける。例えばADHD児に対しては「おだてまくる」覚悟が必要だと筆者は言うように、適用の仕方は多少異なるものの、こと"そだつ"という基本的な部分に関して、健常児も発達障害児も変わらないのです。
そのことをわきまえた上で僕らは、特殊学級特別支援教育というものへの潜在的な蔑視、できれば入れたくないという偏見を意識することから始めなければならないのかもしれません。それは発達障害児本人たちの幸せをまったく考慮していないものだから。そもそも発達障害とは"障害"ではなくて、正しくは発達の道筋の乱れ、あるいは発達の凸凹なのだという。そう考えてみると、リアルの女性を生理的なまでに嫌悪しギャルゲーの二次元美少女に"萌え萌え"言ってる僕が偏見を持つなど、まったく"おこがましい"ことだったのかもしれません。
発達障害児の早期発見について、日本は世界に冠たるシステムを備えているという指摘、最近何かと批判されることの多い教育現場を、スウェーデンストックホルムでは少人数教育であるにもかかわらず高校生の17パーセントが退学しているのに対し日本では40人規模の集団教育にあって3パーセントに過ぎないと述べ、現場を鑑みないマスコミの安易な教育批判、教師批判とその風潮を厳に戒めています。
学級崩壊に代表されるように、子育て支援という要素がますます重要になっている教育現場において、第一線の教師たちはかかる重圧に苛まれながら、懸命に日々苦闘し成果を維持し続けている姿に僕らは思いを及ぼす必要があります。そして、絶対的に不足している特殊教育専門施設の整備と、専門家の育成・資格制度の充実を彼らとともに求めていくこと。それは現場教師に対する喫急なサポートであり、今日と将来すべての子どもたちのために必要なことなのです。
そういう堅苦しいことより何より、親の理解のもと特別支援教育を施されることで発達障害児は、むしろ有能な労働者として成人し、障害者雇用制度を利用し大企業で立派に働いているといういくつもの事例を、我がことのように誇らしくうれしそうに語る筆者の眼差しは、その事実とともに僕の発達障害への思い込みを氷解させてあまりあるものでした。素晴らしい。