<じぶん>を愛するということ

<じぶん>を愛するということ (講談社現代新書)

<じぶん>を愛するということ (講談社現代新書)

この本の中に出てくる「秘密の自己愛者」の記述を読んで、僕は「君が望む永遠」に出てきた穂村愛美のことを思い出さずにはいられませんでした。*1
誇大自己というのは、幼児期に抱く「自分は何でもできて、世界の中心なんだ」という完璧な自己像のことで、適切な母子関係によって修正・放棄されるべきものであり、不適切な関係が続くとその誇大した自己イメージは保持され、年を取るごとに肥大化していくのだという。
その誇大自己こそ、現代人が追い求めてやまない「自分探し」で見つけられようとしている自己愛的な「自分」のことであるとし、そもそも自己愛自体は人が健全に成長していくのに不可欠なものであり、情報過多社会で否がおうにも引きずられがちな誇大自己を認めつつ、安易に自分探しの解答を与えてくれる詐欺まがいの商売や活動に引き入られないよう、それとの適切な距離の築き方が重要であるといいます。
それは例えば、「いま、私が探しているのは『ほんとうの私』じゃなくて『誇大自己』なんじゃないかな」という風に意識化すること、そして、「ここにいる私は『ほんとうの私』ではな」く、「すべてをご破産にして、まったく違う私になりたい」というくらい強い自己否定は、「どんな人にも必要ないはず」、要するに常識的に考えておかしいということ。
朝起きてほんとうの自分がそこにいたのなら、翌朝起きてほんとうの自分がまだそこにいる保証は何もないということなのだし、「ほんとうの自分はいまの自分と地続きなもの」という元も子もない真実にがっぷり四つと組んで、「うまくいかないところだけをちょっと変える、うまくいったところだけをちょっと自分でほめる。この積み重ね」、上品に言えば「いつも自分にゆるやかな愛を注ぐ」ことが、「着心地のいい」「等身大の<じぶん>」のイメージにつながるのだというわけです。
上手く表現できているけれどもその内実は拍子抜けするほど当たり障りのない常套句然としたもので、「まぁそんなところだろうな」という無難な印象。本当、「そんなもの」なんですよね。誰もが「そんなこと」と薄々気づいている、改めて言われても「そんなもの」としたり顔で頷く、そんな飽き飽きするくらいの「積み重ね」こそが、「自分」にまつわる事柄にとってはさぞや重要なんだろうと思います。(22/100)

*1:今さらな「君が望む永遠穂村愛美論に興味がある方は、「続きを読む」をクリック

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