僕の暗闇 見つめる気持ち
朝、住宅路をひどくゆっくりとした足取りで歩くひとりの男の子がいました。目をつむり、白い杖を地面にたどらせています。
彼の名は、広瀬尚己(ひろせなおき)。市内の高校に通う学生です。
尚己は、目が見えませんでした。
幼いころにわずらった特殊な病気の影響で、視力を完全に失くしてしまったのです。
その病気は、まるで台風のように突然訪れてきて、彼の身体を苛み、あっけらかんと過ぎ去ってみれば、彼の身体は全く元の通り健康に回復しました。ただ、目だけすっぽり抜き取られてしまったかのように、見ることができなくなっていたのでした。
家から学校までの道のりを尚己はほぼ完全に覚えていたので、戸惑うことなく歩いていきます。住宅路のT字路に差しかかると、ひとりの女の子が待っていました。
「おはよう」
彼女の名は藤倉さゆり(ふじくらさゆり)。尚己のクラスメイトで、学級委員でした。
クラスメイトはそれがさも当然であるかのように、目の見えない尚己の世話を彼女に押しつけました。
しかし彼女は、誰に押しつけられるまでもなく彼の世話を買ってでました。
尚己と、さゆりと妹のちゆり(双子の妹)は中学のときからのなじみで、さゆりは日ごろから彼を助けていたのです。
ですから、彼女が尚己の世話をすることはごく自然なこととして、周りも、そして本人たちも思っていたのです。
さゆりに手を引かれながら尚己は登校し、下駄箱で靴を履き替え、廊下を歩き、教室に向かいます。
こうしてさゆりの手を握っていると、目が見えないはずの尚己は”見ることができました”。
もちろん視力が一時的に回復するという意味ではありません。
不思議なことに尚己は、自分を助けてくれる人の”見ているもの”を”わかる”ことができたのです。
彼女が、窓に吊り下げられた鉢植えに目をやります。すると尚己の脳裏に、”窓に吊り下げられた鉢植えのイメージ”が浮かんでくるのです。
それはただ漠然としたイメージであって、実際の鉢植えとは違っているのかもしれません。しかし尚己にそれを確かめることはできません。
ともかく尚己は、相手に触れることで”ものを見る”ことができるのです。中学のときに気づいて以来、彼はそう信じていました。
そして、信じられたからこそ、尚己は光なき将来を絶望に埋めつくされることなく、また、自分を助けてくれる人の存在をひときわ大切に思うのでした。
尚己は、さゆりのことが好きでした。
それがたとえ、障害者のよく陥る、異性の奉仕的な思いやりを個人的な愛情と勘違いしているに過ぎないものだとしても。
好きという気持ちに正確性も正当性もありはしません。ただ、どうしようもなく、そうなってしまうのですから。
「おねーちゃんも毎朝大変だねぇ」
ちゆりの声がしてきたかと思うと、さゆりと繋いでいた手が解かれました。
ちゆりが手刀で切るようにして引き離したのでした。
予想しなかった衝撃に尚己は重心を失い、よろけてしまいました。
「こら!ダメでしょちゆり。尚己くんが転んじゃうじゃない」
さゆりが尚己の身体を抱きかかえるようにして支えます。
「ふーんだ。そんな簡単に離れられないように、う、腕組むとかすればいいのよっ」
どこか格好のつかない捨て台詞を吐いて、ついでに尚己のわき腹をつねって、ちゆりは廊下を小走りに去っていきました。
「あ、相変わらずだね」
尚己は苦笑いを浮かべながら、つねられた脇腹をさすります。
そう言いながらも、彼はちゆりを決して悪くは思っていませんでした。
彼女が自分のことを良く思っていないということは以前からわかっていたし、それがどうしてなのか尚己にはよくわかっていなかったけれど。
面と向かって素直な感情をぶつけられるということに、尚己は筋違いの嬉しさを感じていました。
彼は、街ですれちがう誰にも親切にされ、助けを求めれば誰もが手を差し伸べてくれました。
けれど、自分を取り巻くみんながひとしく取り繕ったような好意を向けてくれるというのは、人間関係として異常だし、目が見えないだけによけい気味悪く感じるときがありました。
そういうとき、ちゆりに辛く当たられるとむしろすっきりすることができました。
それがたとえ理不尽なものであったとしても、自分に思い当たる節がなくても、救われるのは確かでした。
普通の人間関係を実感することが、しいては自分が普通の人間なんだという認識となって、尚己自身を現実に繋ぎとめることができたのです。
それにちゆり自身、とてもわかりにくいけれど、本当はやさしく思いやりのある女の子でした。
さゆりが熱を出して学校を休んだ日などは――
「お、おねーちゃんがいないんだから、わ、私がやるしかないじゃない……」
ちゆりが尚己を助けてくれました。
その援助は、彼女のふだんの言動からは想像もつかないほど思いやりあるもので、ときおり思い出したかのようにぶっきらぼうになるところがまた、彼女らしいのでした。
尚己の勉強のしかたは、ひたすら教師の話を聞くのに専念することでした。
点字版の教科書などあるわけもなかったので、聞いて理解するしかありません。さいわい試験は口述で行うことが特別に認められていて、彼のクラスの授業を担当する教師は、板書よりも言葉による説明を重視するよう校長より特別の指示が出ていました。
尚己は、親に買ってもらった高性能携帯レコーダーを机の上に置いていました。授業をこれで全て録音し、家で復習するためのものです。
彼は予習をすることはできませんでしたが、その分復習は熱心に取り組みましたし、そのやり方にこだわりました。
尚己は、授業を録音したデータをMS-DOSタイプの音声読み上げ式パソコンに取り込み、教科別・単元別に編集し系統立てていきました。授業全体を体系づけることによって、教師の説明が薄かった部分が浮かび上がり、それを教師に質問しさらに録音したものもパソコンに追加していきました。
数多くの音声データを体系化していく過程で、各教科の俯瞰的なテーマを感覚的に理解していき、それが各単元の理解をより深めることに繋がりました。
しかるべくして、尚己の主要5科目における成績はとても優秀でした。体育や技術、音楽や美術といった実技・芸術系科目は履修することすらかないませんでしたが、机上の学問において彼の理解力はいかんなく発揮されていきました。
目が見えないことを逆手にとっていっそう研ぎ澄まされた集中力は、尚己の思考力を高めました。
視覚障害者であっても充実した勉強や研究ができる大学は、当然のように偏差値が高くしかも国公立大に限られましたが、尚己は自らの努力と工夫でその壁を突破しようと、懸命でした。
そして、尚己にその可能性が高いからこそ、本来視覚障害者を受け入れる設備が整っていなかったにもかかわらず、校長の「特別の配慮」で尚己はこの高校への入学を許されたのです。
尚己には夢がありました。ソフトウェア開発者になって、視覚障害者でも気軽に利用できる汎用音声入出力式OSを開発することでした。
パソコンやインターネットは、世界の人々を、経済・社会的格差を超えて等しく結びつけています。それをさらに、身体・障害的格差を越えて等しく結びつけていくための技術革新が、求められていました。
尚己は、自らの光なき未来を確かに輝けるその夢を、ひたすら追い求めていました。
そんな自分を支えてくれる一番大きい部分、それは藤倉さゆりであり、これからもずっとそうであると尚己は何の根拠もなく信じていたのでした。
最近さゆりに手を引かれながら歩いていて、尚己には気づいたことがありました。
彼女がふだん見ているものは、中学のころから大して変わりませんでした。学校であればおもに窓から見える風景や、とりとめのない事物。街中ではお年寄りや子どもに視線が行くことが多いものでした。
ふと自分の手が離されたかと思うと、さゆりはお年寄りや子どもたちのもとに駆け寄って、何か手助けしていました。
さゆりは生来そういう博愛的なやさしさがありました。何の損得勘定もなく条件反射的にそういうことができてしまう彼女は、尚己にとって誇らしくまた嬉しくあり、一抹の寂しさを感じさせもしました。
そんなさゆりが校内でよく見ているものがありました。
それはものではなく、人でした。神谷智史(かみやさとし)という男子生徒です。
さゆりが彼のことを見、名を呼びかけたとき、彼が神谷智史という人物であることを尚己は知りました。
彼は尚己のクラスメイトであり、さゆりにとってもそうでした。
尚己の手を引いているときに限っての話とはいえ、さゆりが見る男子生徒のうちで、神谷にかけられる時間が最も長く、頻度も多いのでした。
というより、さゆりが時間らしい時間をかけて見ている男子生徒は、神谷以外にいませんでした。
この事実に気づくと、尚己はとたんに心が苦しくなりました。それは、さゆりが神谷のことを少なからず想っているということの大きな証拠に他ならなかったのですから。
「神谷くん、ちょっといいかな?」
尚己は、ある休み時間に神谷を呼びました。
彼のほうを向いて話しかけるということができないので、見当違いのほうを向いていても本人に聞こえるようにと、大きめの声で呼びました。
尚己は神谷に、男子トイレまでの誘導を頼んだのです。
それまではさゆりに頼んでいたのですが、女の子に男子トイレまで誘導してもらい、あまつさえ待ってもらうというのはひどくデリカシーのない行いでした。
とはいえ、好きな女の子に恥ずかしい思いをさせているという実感は、男の子にとってにわかに捨てがたいものでした。
今回、別の目的ができたことをきっかけにして、尚己はこのえげつない快楽を捨て去ることにしました。
別の目的とは、神谷からの援助を通して彼のことを知ろうというものでした。
さゆりが神谷のことをよく見ているのが、実は好意でもなんでもなくて、例えば彼に弱みを握られ虐められているとか、あるいは今ちまたをにぎわせているストーカーのようなことをされているとか、そういった理由も考えられたからです。
尚己は一縷の望みをかけていました。もし神谷がさゆりに悪意をもっていて、それを掴むことができれば、彼を告発し彼女を救うことができるでしょう。
そうなればさゆりの絶大な好意を得られるはずでした。
「昨日のブラームスは感動したなぁ〜」
尚己と神谷は、科学実験室に向かう廊下の道すがらクラシック音楽の会話を弾ませていました。
「クレンペラーの第1だっけ?僕も鳥肌が立ったよ」
尚己は音楽を好んで聴きました。それも、何をしゃべっているのかよくわからないJ-POPではなく、クラシック音楽が特に好きでした。
目が見えない代わりに耳を酷使する尚己にとって、小さい音に耳を澄ませ、大きい音に興奮し、緩急自在の芳醇な音楽に時を忘れて聴き入るのが、最高の安らぎとなりました。
しかし高校生のおこづかい程度では月に買えるCDも限られ、クラシック音楽を聴く手段としてはもっぱらNHK-FMでした。
毎晩放送しているクラシックプログラムは欠かさず録音していました。
その話をたまたま神谷に話したところ――
「なっ!?昨日の録音したテープ貸してくれっ!」
それ以来、互いに録音テープやクラシックCDを交換しあい、会えばクラシック談義に花が咲く仲になっていました。
当初は男子トイレまで誘導してもらうつもりでしたが、移動教室のときもたいてい尚己は神谷に頼むようになりました。
「クレンペラー?そういえばパパがベートーベンの交響曲をその人ので全部持っていたよ」
尚己の援助を逃れたはずのさゆりでしたが、神谷のサポートがてらふたりに付き従っていました。彼女も父親の影響でクラシックの素養があるらしく、ふたりの話の輪に自然と加わってきます。
「なっ!?」
「かっ、貸してくれっ!!」
さゆりは、神谷に援助のしかたを教えたり、それ以外の他愛のない話をしているとき、普段と比べると会話のトーンが心もち高くなっていました。
尚己と話すときとは違う、心から楽しそうな笑い声が聞こえてきます。
そして、神谷にはさゆりに対する悪意など微塵も感じられませんでした。そもそも悪意の素地すらないほど彼は誠実な人柄でした。
それどころか――
「あ、あのさ、藤倉って――」
仲が良くなるにしたがって、神谷が尚己に振ってくる話題はさゆりに関するものが多くなりました。
誘導してもらうのに彼の肩に手を置いていると、尚己の脳裏にはさゆりのことばかりが浮かんできました。
脳裏に浮かんでいるさゆりが、神谷との会話を弾ませています。ころころとしたかわいらしい笑い声が尚己の耳に響いてきます。
直己が得たくて得られなかった気の置けない友達に囲まれ、楽しい気分になればなるほど、彼の心の痛みは深まっていきました。
その落差は日に日に激しくなっていきした。
きっとさゆりは、とびきり素敵な笑顔を神谷に向けているのでしょう。
その笑顔は、自分に向けられることはなく、たとえ向けられたとしても、それを”見ることは決してできない”のだということを、尚己はまざまざと思い知らされていました。
「か、神谷の次は僕に貸してよね〜?」
尚己は、今自分が笑っているのか、泣いているのか、よくわからなくなっていました。
とはいえ、目の見えないような自分が人を好きになっても、しかたがないし、人に好きになってもらっても、どうしようもないということは、わかっていました。
そして、自分がしなければならないことも、尚己にはわかっていたのでした。
自分の障害とその存在のせいで、さゆりと神谷が互いに1歩前に踏み出すことができないでいるのだとしたら、尚己はその障害と男としてのプライドにかけて、引き下がらなければなりませんでした。
自分の障害を”えさ”にして、さゆりを自らに引き留め、神谷との仲を妨げようという卑怯な人間でいたくはなかったのです。
尚己は神谷にこう、話しました。
「神谷、君がさゆりのことを本当に好きなら、正直に告白して欲しい。さゆりは心からやさしい女の子だし、君は彼女にふさわしい男だ。僕らが本当の友達なら、僕に遠慮なんてしないで欲しいんだ。僕とさゆりとは、助けてもらっている以外何の関係も、ないのだから……」
尚己はさゆりにこう、話しました。
「さゆりちゃん、君が神谷のことを本当に好きなら、正直に告白して欲しい。神谷は根っから誠実な男だし、君は彼に大切にしてもらえるよ。僕らが本当の友達なら、僕に遠慮なんてしないで欲しいんだ」
ある日の休み時間。尚己は神谷の肩に手を乗せ廊下を歩いていました。
「え?そ、そうだっけか?」
今日の神谷はどこか歯切れが悪く、話は上の空でした。視線も落ち着かないみたいで、尚己の脳裏にはさまざまな事物がさかんに差し替えられていきました。
いつも尚己の隣にいてふたりの話に加わってきたさゆりの気配が、今日はありません。
けれど後ろから上履きを踏む音は聞こえてきます。
「さゆりちゃん?いないの?」
尚己は気になって声をかけてみました。
「え?い、いるけど?」
尚己の後ろから声が返ってきました。二言三言会話を交わしてみると、いつも落ち着いている彼女らしくなく、気もそぞろといった雰囲気が感じ取れました。
「……」
神谷とさゆりは、互いの想いを確かめあい、つきあい始めたのでした。
その事実は尚己の心に深く溶け込んでいきました。
心はひどく冷え込み、頭がカッと熱くなっていくのを、尚己は科学の実験みたいに観察していました。
「あ、平気だよひとりで行けるから――」
「ごめん、ちょっとやることあるから先に行ってて」
尚己はそれから、さゆりの援助の申し出を断るようになりました。
彼女の純粋なやさしさをむげにすることに尚己の心は痛みました。けれど尚己はそうせずにはいられません。
さゆりの手に、彼女の身体に触れるたび、尚己の心は罪悪感で張り裂けそうになるのですから。
そんなある日。
さゆりの援助を断ったものの神谷も呼び止められず、直己はひとりで階段を下りていました。
「あっ!」
踵を踏み外し、尚己の暗闇が一瞬宙を舞います。
階段から転げ落ちてしまったのでした――。
「助けが、必要なときは、ちゃんと、言ってよぅ……」
さいわい肩を痛めた程度で済み、保健室で治療してもらっているときにさゆりが駆け込んできました。
「心配、したん、だからっ……」
嗚咽でしゃくりあげながら、尚己にいたわりの非難を浴びせてきました。
「もう、さゆりちゃんには助けてもらえないんだよ」
「え?なんで」
「君の手は握れない、君の身体に僕が触れちゃいけないんだ」
「ど、どうしてそんな……」
「さゆりちゃんは神谷とつきあい始めたんでしょ。だから――」
「そ、それとこれとは関係な――」
「いや、君は神谷以外の男に触れちゃいけないんだ。君のやさしさを神谷以外の男に与えちゃいけないんだ」
「……」
「それは神谷を不安にさせる。さゆりちゃんは、神谷のことをいちばん大切にしてあげなくちゃ……」
それは極論でした。原則論でした。けれども尚己にはそれを主張する権利がありました。
直己はまぶたに力をこめます。
たとえ目は見えなくとも、普通の人と同じように涙はあふれ、普通の人よりそれは容易くこぼれ落ちるのでした。
しばらくじっとしていたさゆりは、静かに保健室をあとにしました。入れ替わりに保健の先生が戻ってきて、タクシーの到着を告げました。
念のため、病院に行くことになったのです――。
翌朝。尚己はいつもの通学路を歩いていました。肩に厚く巻かれた包帯が学生服を少し盛り上げていました。
そして、いつもさゆりが待っていたT字路に差しかかると、
「おっはよー」
想像もしなかった人物からのあいさつが聞こえてきました。ちゆりでした。
尚己が彼女の場違いな元気さにきょとんとしていると、
「な、なによ。おねーちゃんに頼まれて、し、仕方なく来てやったんだからね」
ちゆりはそう言うと、尚己の手を強引につかみ、彼を高校まで導いていこうとします。
「仕方なく?」
「仕方なくっ!」
こうして尚己は、ちゆりに助けられる騒々しい日々が始まったのでした。
「広瀬、オレが――」
「尚己くん、私が――」
休み時間に入ったとたん、神谷とさゆりが尚己に近づき声をかけてきました。次の授業は視聴覚室で行われることになっていました。
尚己が彼らへの返事をしようとすると――
「なーおーきー」
教室のドアが景気よく開かれ、まるで小学生が友達の家の前でやるように尚己を呼ぶちゆりの声が聞こえてきます。
「ちょ、おねーちゃんたちは、寸暇を惜しんでどっかでいちゃいちゃしてればいーのよ!尚己っ、ほら行くよ!」
一瞬にして笑い声に包まれた教室から、尚己は連れ出されました。
「まったく。仲いいところを見せつけないで欲しいわよね。まぁ尚己には見えないんだけど……」
ちゆりは尚己とクラスが違うにもかかわらず、彼のクラスの時間割を把握していて、移動教室があるたびこうしてわざわざやってきてくれました。
そこまでしてくれなくても、と尚己は思いましたが、なるべくさゆりや神谷の助けを借りたくない、自分のことでふたりをわずらわせたくないと思っていた彼は、ちゆりの強引なやり方に救われていたのも確かでした。
「あんたも大概バカよね。お人好し過ぎるというか。ほんとはおねーちゃんのこと……」
廊下をずかずかと歩いていくちゆりは、相手のことなど何も考えていないようで、相手の身になって物事を考えられる女の子でした。
尚己の気持ちを思いやった上で、ちゆりは無遠慮に振舞っているのでしょう。そんな心づかいが尚己はうれしく、冷めきった心が温められていくのを感じていました。
「それは、もういいんだよ……。それよりもちゆりちゃん、ありがとう」
「え、えぇっ!?」
「ありがとうって――」
ちゆりの引いていた手がいきなり引っ張られ、尚己は前のめりになってしまいました。
足が追いつかず倒れそうになったとき、尚己の顔がやわらかい何かに受け止められました。
アイロンがけされた布地のようなパリッとしたものに包まれた、温いゼリーのようなものが、尚己の頬に感じられます。
思わず手を伸ばして触ってみます。
もみゅもみゅ。
その感触は、尚己がこれまで経験したことのないものでした。最高級の丸型かまぼこがあるとしたらこんな感触かもしれないと、彼は思いました。
「ねぇ、ちゆりちゃん。僕はいま何を触ってるのかな。もしかしてかま――」
もみゅもみゅ。
「なっ、なななっっ!」
前方にいるはずちゆりの声が、なぜか尚己の頭の上から聞こえてきました。最高級丸型かまぼこの台板が小刻みに揺れていました。
「なに触ってるのよぉぉぉぉぉぉぉっっ!!」
ちゆりは絶叫し、尚己のお腹に渾身のボディーブローが炸裂しました。
ぼこっ。
「だ、から、なに…さわって…い…る…のか…な……と……」
尚己は、廊下に沈みました。
「どうして僕はこんなところにいるのだろう……」
ある休日。
デパートの女性用下着売り場の真ん中に、尚己はぽつんと立っていました。
尚己は目が見えなかったので、ただ漠然と「こんなところ」と表現しましたが、極めて明瞭に「こんなところ」と描写せざるを得ないものがありました。
あたりの女性客や女性店員が露骨に尚己のことを訝しがっています。そんな状況をつゆとも知らず、ちゆりは”商品”を吟味しているのでした――。
「あ、もしもし尚己?」
「あ、あぁちゆりちゃんか……」
「今日ひま?」
「ま、まぁ暇といえば暇だけど?」
「じぁあさ、買い物につきあってあげるよ」
「へ?」
「尚己、あんた何か欲しいものとかないの?」
「そんなこといきなり聞かれても……。ま、まぁコンパクトメディアは欲しいかな」
「うん、それじゃ決まりね。先日のお詫びも兼ねて――」
『先日』という言葉に反応して尚己が顔を歪ませます。お腹のねじれるようなあのときの痛みがよみがえってきたような気がして、彼は無意識のうちにお腹に手を当てていました。
「ほ、ほんとは私が詫びる必要なんか全然ないんだからねっ!」
最高級丸型かまぼこ所持者(推定)は無茶苦茶でした。
尚己の買い物は、家電量販店に入って10分もかからず済みました。
これで帰れるのかと尚己は思いましたが、
「ついでに私の買い物にもつきあってよ」
とちゆりが言うので、つきあうことにしました。
そして、彼女の”ついで”は既に2時間以上に及んでいました……。
尚己はどこに連れて行かれているのかよくわかりませんでしたが、洋服の匂いがよく鼻をついていたので、ブティックを何店も回っているのだと思いました。
手を引かれて通りを歩いているとき、尚己はちゆりに尋ねました。
「洋服を買いたいの?」
「え?うんそうよ。私に似合うのとか、お財布と相談するとなかなか見つからなくてね〜」
「ちゆりちゃんが、洋服ねぇ」
「な、なによ。私だっておしゃれに気を使う年頃の女の子なんですからねっ」
「そ、そういう意味じゃ……」
「そりゃさ、あんたがそんなんだからだいぶ助かってるってのもあるんだけど……」
「そんなん?」
「な、なんでもないっ。さ、次の店行くわよ」
ちゆりの”ついで”はどうやら3時間でも収まらなさそうな雲行きでした――。
4時間後。
すでに夕刻となり、街灯にちらほらと明かりがともり始めました。
「さすがに疲れたわね。そろそろ帰りましょっか」
これだけの時間をかけてやっと買えた、下着1着の入った小さな紙袋を掲げながら、ちゆりはついに宣言しました。
「ふぅ、やっと開放される〜」
尚己は思わず息を吐いて、脱力しました。ちゆりと繋いでいた手が自然と離れます。
「わ、悪かったわね、長い”ついで”になっちゃって」
手のひらが外気に触れてひんやりとしました。
断続的にとはいえ、こんなに長い時間誰かと手を繋いでいたのは尚己にとって初めてでした。そんなことを考えながら、互いの汗でふやけてしまった手をゆっくりと握ったり、ゆるめたりしながら、尚己はちゆりに尋ねました。
「あのさ。どうして僕なんて連れまわすの?」
「え?」
「洋服買いたいなら、ちゃんと目の見える友達連れてくれば、似合うとか似合わないとか言ってもらえるだろうし。荷物も持てない僕なんて足手まといなだけでしょ」
「……」
「もし、さゆりちゃんとのことで気を使ってくれてるなら、もう十分だから。だからもう――」
「お腹すいちゃった。ね、ラーメン食べない?」
「はい?」
「私美味しいラーメン屋知ってるんだぁ。屋台だけどね」
そう言うと、ちゆりは尚己の手を再び握ってきました。
夕暮れの冷たい風を浴びた互いの手のひらが、ゆるやかに温かみを取り戻していきました。
「お、いらっしゃぁーいっ!」
威勢のよい男の人の声が聞こえてきました。声の感じからすると20代後半から30代半ばといったところでしょうか。気風の良い兄貴を尚己はイメージしました。
ちゆりは尚己の手を引いてのれんをくぐらせ、席に座らせました。
「ほう、今日は彼氏連れか。珍しいな」
「かっ、彼氏なんかじゃないわよ!それに珍しいも何も、彼氏なんて今まで連れてきたことないでしょ!」
「まぁ、そういうことにしといてやるか」
「むーぅ……」
ちゆりの唸り声が聞こえてきます。あのちゆりを手玉に取る人間がこの世にはいたものかと、尚己は感動すら覚えていました。
「と、とにかくラーメン2つね。ちゃんと作ってよ」
「あいよっ!おっと、そっちがちゃんとやるのはキスまでにしとけよ?かかかかかっ」
「なっ!」
つくづく世界は広いものだと、尚己は驚きと笑いを禁じえませんでした。
「なーおーきーくーん?」
殺気を感じた尚己は、思わずお腹に力をこめました。
「はいよ、ラーメン2つあがりっ」
濃厚な匂いが漂ってきました。どうやらトンコツラーメンのようです。
ちゆりに連れてこられたとき、尚己は実はそんなにお腹がすいていませんでしたが、この匂いをかいだとたん、現金な胃は空腹の気持ちを彼に伝えてきました。
「はい、箸ね。どんぶりはここ」
ちゆりは尚己の手に端を持たせるついでに、どんぶりにそっと手を触れさせます。
「なんだ、彼女に上げ膳据え膳させてるってぇのか?」
「ち、ちが――」
「目が、見えないんです」
尚己は自分で店主に告げ、申し訳なさそうに頭を下げました。
「す、すまねぇ。ヘンな短気起こしちまって……」
「いえ……」
なんとなく気まずい雰囲気になりかけたふたりでしたが、
「ここのラーメンは味はいいのに見た目最悪だから、まぁ目が見えないほうがいいんじゃない?」
そんなことを悪びれず口にできるのがちゆりなのでした。あっけらかんとした話しぶりに尚己は思わず吹きだしてしまいます。
「ま、まぁな、見てくれは悪いが味には自信あるぜ」
「見た目悪いのわかってるならどうにかしなさいよ、このおじさんは」
「おじさん言うなって!それに、なんだ?お嬢だってその見てくれでこんないい男捕まえて、うちのラーメン悪く言う資格な――」
ぼこっ。
「かまぼこっ!?」
尚己は条件反射的にお腹に力をこめました。
「私が、なんですってぇ?」
「とても可愛らしくて、いらっしゃい、ます」
「今日のラーメン代は?」
「はい、おごらせて、ください……」
「よろしい」
広いと思っていた世界は、ちゆりの前で急速にしぼんでいきました。しょせんその程度でした。
「美味しいよ、このラーメン」
どんな見てくれなのか少し気になりましたが、勇気を出して口に入れてみると、それはとても美味しいものでした。
のどごしのいい細麺が、濃厚で個性的だけれどしつこすぎないスープと相性良くからまって、いくらでも食べられそうでした。
「そう、良かった」
隣で静かに食べていたちゆりは、どこか嬉しそうでした。
「替え玉できるから、足りなかったら頼むね」
「それじゃ、1つ頼もうかな」
「おじさーん、替え玉ひとつねー。もちろん――」
「へいへい、金はいらねーよ」
別の客の相手をしているらしい店主が、やぶれかぶれという風に返してきました。
そんなやりとりを聞いているうち、尚己の頬が自然と緩んでいきます。
「楽しい?」
ちゆりは尚己にぽつりと尋ねてきました。
「面白いおじ、お兄さんだね」
「おじさんでいいのよ」
箸を置く音がしました。
「あのおじさんと話してると楽しいでしょ。でもラーメンは他に、見た目も味も良いのを出す店はいくらだってあるじゃない?こんな不便できたない屋台じゃなくて、ちゃんとしたきれいなお店もいっぱいあるし」
「うん」
「だけど、おじさんと話してて楽しいのは他に代えられないし。こんな楽しい気分で食べられるラーメンは他にないと思うのよ。肩肘張らずにくつろげる屋台もね、好き」
「そうだね」
「そういうことだと、思うんだぁ」
「え?」
「だから、尚己と一緒にいると、た、楽しいってことよ」
「ぁ」
「他の友達ならどうとか、足手まといとか、尚己街で言ってたじゃない」
「あ、うん」
「確かにそう考えることもできるだろうけど。でも尚己と一緒にいて楽しいのは、そういうのとは次元が違うっていうのかなー」
「はぁ」
「私は、まぁそれなりに楽しいんだから、あんたは気にしないでいいのよ。それよりさ――」
「ん?」
「わ、私おねーちゃんみたくお、おしとやかに振舞えないし、やさしくもないから尚己には迷惑なだけかもしれないし、も、もしそうなら正直に――」
「そんなことない!そんなこと、ないよ」
「……ほん、と?」
「僕もちゆりちゃんと一緒にいると、楽しいし。今日は疲れたけど、楽しかったよ。こんな楽しい場所にも連れてきてくれたし、ラーメンも美味しかった」
「……」
「ちゆりちゃんがおしとやかかどうか、わからないけど、でもちゃんとやさしいと思うよ。というか、さゆりちゃんと比べられないいいところがちゆりちゃんにいっぱいあると思うし。そういうとこ、僕は好きだなぁ」
「すっ!?」
「もしもーし」
「きゃっ!」
いつの間にか近づいてきていた店主が声をかけてきて、それに驚いた女の子らしい悲鳴が聞こえてきました。
「え!?」
それがちゆりの悲鳴であることを受け入れるのに、店主と尚己は3秒を要しました。
「と、とにかくこんなとこで青春してないで、お客さん待ってるんだから、とっとと帰りやがれっ!!」
顔が一気に熱くなるのを尚己は感じました。恥ずかしいやら申し訳ないやらで、ふたりは口答えもできずそのまま退散し、帰途に着くことにしました。
「段差、あるよ」
「うん」
ちゆりに手を引かれながら尚己の脳裏には、すっかり暗くなった園庭と、ぽつぽつと星の輝き始めた薄明るい夜空が浮かんでいました。
それから幾週か過ぎ、学校で、街中で、あのラーメン屋で、ちゆりとともに過ごす時間が尚己にとって当たり前のものになっていました。
ちゆりと一緒にいると、尚己は不思議な感覚になりました。
彼女の無茶苦茶な言動に振り回されていると、どうしてか、彼の視界を覆う暗闇が少しだけ軽く感じられました。闇の濃度が薄まっていくような気がしました。
ちゆりが尚己の手を引き、日常の細々とした所作を助けてくれるのは、彼女にとって本当に”ついで”でしかありませんでした。
友達の洋服に糸くずがついているのを見つけたら思わず取ってあげてしまうような気軽さで、ちゆりは尚己を援助しました。
ちゆりにとって尚己は、まず何より友達でした。さゆりにとって尚己は助けるべき人であったのとは違い、ちゆりはデリカシーのかけらもないほどに、彼と明け透けな友達でいようとしました。
「もっとしゃんとしなさい」
「それくらいひとりでやりなさいよね」
目のことに関してちゆりは容赦がありませんでした。言いたいことを言い、厳しく当たりました。けれど、それが尚己にはむしろ嬉しかったのです。
変に気を回して全ての所作を代わりにやってくれたり、無関心をやさしさと言い繕って逃げたりせず、ちゆりはごく等身大で尚己と接し、彼女らしい自然さで尚己を支えてくれました。
そんなちゆりの”普通”と”ついで”が、尚己の心を軽くし、頭の緊張をほぐしました。
視覚を失ったせいで他の感覚を常に研ぎ澄ませていなければならない尚己は、ちゆりと過ごすひとときだけ、感覚を緩ませることができました。
安心するのです。常に暗闇に追い立てられていた尚己にとって、それは初めて味わう心地でした。
藤倉ちゆり。彼女のことを、好きだと一言で表わしてしまうにはあまりに一片的で、尚己にとって彼女はかけがえのない存在となっていました。
「次、音楽室だよね」
「あ、うん、そうだよ」
ちゆりの存在が尚己の中で日に日に大きくなっていくにつれて、彼女にまつわるある疑問が日に日に膨らんでいきました。
ちゆりに手を引かれているとき、彼女がもっとも多くの回数と長い時間をかけて見ているもの、それが尚己にはよくわからなかったのです。
それは人物、男子生徒のようでした。
顔の輪郭はぼやけていて、尚己は彼が誰なのか見当もつきません。ちゆりのクラスメイトでしょうか。彼女は彼のことを呼びかけたことは一度もありませんでした。なので名前もわかりません。
「……」
尚己の頭に神谷とさゆりのことが思い浮かびます。さゆりがよく見ていた男子生徒は、彼女が好意を抱いていた人で、それが神谷でした。
それと同じように、ちゆりにも好意を持つ男子生徒がいて、しかしさゆりの轍を踏まないために周到に心構えをした彼は、自分に気づかれないようにふたりの後をこっそりとつけていて、案内し終えたらちゆりはその彼と親しくしていたりするのではないか、尚己はそう疑わずはいられません。
今も脳裏にその人物らしきもやが浮かんでいます。それがまるであざ笑っているかのように感じられて、尚己はとたんに腹立たしくなります。
思わず、繋いでいないほうの手でちゆりの肩をつかみ、彼女をこちらに振り向かせました。
「ね、ねぇ!」
「な、なに?」
「僕たちの近くに、誰かいる?」
すると、ちゆりが尚己の手をぎゅっと強く握ってきました。
「え?い、いないけど……ど、どうしてそんなこと、聞くの?」
驚いたような手の反応。歯切れの悪いちゆりの返事。脳裏にはあの人物が濃さを増して浮かんできます。
「いや、なんでもないよ……」
尚己の抱いていた疑いは、そのとき確信に変わりました。
ちゆりにとって尚己は友達でした。少し楽しい友達。
それがつい先日まではくすぐったくも嬉しかったのに、今の尚己にはひどくさびしく感じられました。
脳裏に浮かぶ人物が尚己のことを憐れんでいるのように感じられて、尚己はたまらずちゆりに触れている手を離します。
「それ、だけ?」
「う、うん……」
「そ、そう、なんだ……」
いつものちゆりらしくない、どこかそわそわとした雰囲気が口調から感じられました。それは尚己の確信を固める傍証となっていきました。
「あ、あのさ。放課後尚己の部屋に行って、い、いいかな?」
「え?」
「授業でわからないことあって、お、教えて欲しいなーなんて」
「……うん、いいよ」
友達ならそれくらいするでしょう。尚己はうわべで判断して頷きました。
ちゆりが部屋を訪れるのは実は初めてのことでしたが、そんなことに思いをいたせることもできないくらい、そのときの尚己の心はからっぽの冷凍庫のようでした。
「今週の前田先生の物理、私あんまり聞けなくて……」
「……寝てたんだね?」
「ち、違うわよ!ちょっとうとうとしてただけ」
「……」
尚己の心の冷凍庫にはまだ氷がありました。どれだけ凍らせても氷以上にも氷以下にもならない、それは友達。
「だ、だからその授業を聞かせて欲しいの。尚己録音してあるんでしょ?」
「あ、あぁ、うんちょっと待って」
既に起動してあったパソコンを操作します。ちゆりの助けを借りなくてもパソコンは尚己ひとりで扱えました。
「でもクラスによって進み方違うんじゃ」
「平気よ。あの先生ずっとしゃべってるだけじゃない。ずれっこないわよ」
「やっぱり、そうなんだ……」
噂では、まったく同じ冗談をもう10年以上全ての授業で繰り返しているという話でした。
授業を録音した音声を再生させます。
「そう、この授業よ。というか授業前の雑談まで一緒じゃない……」
事実は噂よりも奇なり、でした。
それからふたりはしばらく物理の授業を聞き、再生し終えるとちゆりは、わからなかった部分を尚己に聞いてきました。
その質問の該当する授業の部分を手際よく再生しながら(授業の小単元ごとにtrackが分けてありました)、尚己は先生の話に付け加える形でちゆりに解説していきました。
物理は、数学ほど複雑な計算式を駆使することなく、理論的な学習が大部分を占めていたので、先生はひたすらしゃべるだけで事足りました。
それゆえ板書も少なく、目の見える生徒はビジュアル的な乏しさから眠くなりやすいものでしたが、尚己にとってはたいへん理解し甲斐のある好きな科目のひとつでした。
あとになって個人的に先生に聞きにいった際の録音内容も再生するころになると、ちゆりもその日の授業に関してほぼ完全に理解することができたようでした。
「よくわかったわ。というか物理の授業をこんなに理解できたの初めてよ」
「それは良かった」
「なんか、全部の授業を尚己の解説で勉強したら私きっと学年トップになれるわ!」
「そ、それは僕の身がもたないから……」
「万年1位の誰かさんを引きずり降ろしてあげるわ。見てなさいよ」
きっと自分の事を指差しているんだろうな、尚己はそう思いました。
「くぅぅぅ〜ん。はぁぁ、ほーんと、尚己が目が見えなくて私大助かりだわ〜」
「っ!」
かつての尚己であれば、ちゆりのそんな心ない言葉も軽く流せていたでしょう。ちゆりの思いやりを信じていたから。
悪びれないあっけらかんとした物言いは、かえって尚己の心をあたためてくれたでしょう。ちゆりと対等の関係であると実感できたから。
「……ちょっと」
けれど今の尚己は、信じられるものを失いかけていました。あたたまるものを失いかけていました。
冷凍庫の中の氷が、ぴきっという音を立てて、割れました――。
「今のはひどいんじゃないか?」
「ぇっ?」
「僕の目が見えなくて大助かりだって?なんだよそれ」
「あ、ちが――」
「そうやって僕のことをほんとは笑いものにしてるんだろ!自分が助けなきゃ何もできないっていい気になってんだろっ!」
「そ、そんなことな――」
「こんなしょーがいしゃを介助して男子の株でも上げようとしてんのか?好きな男子に気に入られようとでもしてんのか?」
尚己の頬に衝撃が走りました。ちゆりに叩かれたのでしょうか。
予想もしない一撃に重心感覚を失って、尚己はその場に崩れました。その拍子に後頭部が椅子にぶつかり、沸騰した頭をますます煮えたぎらせます。
「あ、大丈夫?」
ちゆりの手が尚己の頭に触れました。
「触るなよっっ!!」
「きゃっ!」
尚己は自分でも信じられないくらいの剣幕で、ちゆりを拒絶しました。
「情けないよな、馬鹿みたいだよな、女の子にピンタされて倒れる男なんて……」
「そ、そんなこと……」
「笑っちゃう、よな……」
「ごめん、ごめん、ね……。ちが、違うの……」
しゃくりあげながら、ちゆりは謝罪の言葉を繰り返していました。
「……」
彼女の啜り上げる音が耳から脳に伝わり、煮えたぎっていた尚己の怒りを一瞬にして凍てつかせました。
「ごめん、なさい……、わ、私、ひどいこ、と……」
彼女の切れ切れの言葉は、氷すらなくした尚己の冷凍庫を切り刻んでいきました。
尚己は、欲しかったものを得られなかったばかりか、失ってはならないものまで失ってしまったことを知りました。
自分のせいでそうなってしまったことを、絶望の淵で理解しました。
「……出てって」
「うっ」
「出てって」
「……っく」
「出てって」
閉まりきってない蛇口からこぼれる水滴みたいに、尚己はぽつんぽつんと繰り返しました。
鼻をすするかすかな音がしばらく残り、それもドアを開閉する音が1度して、しなくなりました。
「出てって……」
もう尚己からは出ていくべき何者もありはしなかったというのに、
「出てって……」
いつからか流れていた涙が尚己の顔にくっきりと筋道をつけて、
「出てって……」
ちゆりが叩いた頬をひりひりと赤く染め上げるのでした。
「おはよー……」
翌朝。
尚己がいつものT字路に着くと、いつものようにちゆりの声が聞こえてきました。いつものような元気さはありませんでしたが。
「昨日は、ご、ごめんね。本当に、ごめんなさい……」
「ううん、僕もひどいこと言って、ごめん」
「尚己がさ、嫌でも私は、助けてあげたいって、思ってるから……」
「僕も、虫がいいとは思うけど、これまで通りちゆりちゃんに助けてもらえたら、うれしい」
「うんっ」
尚己とちゆりは、仲直りのしるしみたいに改まって手を繋いで、学校への道のりを歩き始めました。
尚己はこのとき、昨日のちゆりの言葉ではないけれど、目が見えなくて助かったと思っていました。彼女は言葉少なく、話しも沈みがちでした。後ろから来て追い越していくちゆりのクラスメイトが一様に、「なにその顔、どうしたの?」と彼女に聞いていました。
「そんなに目元晴らして……」
「なんでも、ないよ?」
「……」
尚己の空虚なはずの心は、それでも軋みをあげ彼をますます苦しめました。
しかし尚己にはわかっていたのです。さゆりのときに学んでいたのです。
目の見えないような自分が人を好きになっても、しかたがないし、人に好きになってもらっても、どうしようもないということを。
好きな人の笑顔を見ることも、一緒になって笑うことも、
好きな人の泣き顔を見ることも、一緒になって悲しむことも、
尚己には叶わないことでした。
好きということの根本原理を喪失した尚己は、翼のない人間が空を飛べないように、好きということをあきらめなければなりません。
それは尚己にとって避けられない運命であって、それは早いか遅いかというだけでした。失うものの大きさは関係がありませんでした。
ちゆりが尚己にもたらしてくれた安らぎは、軽やかな暗闇は、かけがえのない彼女との空間は、好きということの無効判決で「初めからなかったこと」になるなんて、尚己にはわかりきっていたのです。
わかりきって、いたのです……。
「ここまででいいから――」
尚己は、ちゆりの援助をだんだんと避けるようになっていきました。
朝の登校時は彼女がT字路で待っているので断れませんでしたが、移動教室や下校時は他の友達に頼んだりひとりでこなすことが多くなりました。
「今日は、その、ひとりでいたいから……」
「そ、そっか。うん、じ、じゃあくれぐれも気をつけてね」
何度か断っているうちに、ちゆりも尚己に援助を申し出なくなりました。尚己は明確にちゆりのことを避けていたし、彼女自身思い当たる節があるのですから、そうなっていくのは自然ななりゆきでした。
尚己の心はあらかた麻痺していました。今はただ、この慢性化した心の痛み、苦しみに慣れていくしかないのだと、尚己は思っていました。
痛いのは今だけ、苦しいのはあと少しの辛抱だと、自分に言い聞かせながら――。
ちゆりとは朝の登校時だけ会うようになり、口数も日に日に少なくなっていきました。
手を繋いでいるとき、あのぼやけた男子生徒のイメージが脳裏に浮かぶことはほとんどなくなりました。
ふたりに”間違い”が起こる可能性がなくなったと見るや、その男子生徒はつけまわすのをやめたということでしょうか。それは正しい判断のように尚己には思われました。
もっとも、今も昔もふたりに”間違い”が起こる可能性などありはしなかったのですが。
尚己は沈みがちな気分を紛らすかのように、ますます勉強に精励しました。
枯れ葉の舞い落ちる季節がまたたく間に過ぎ、透き通るような高い青空の季節になりました。
期末試験を悠々トップで突破した尚己は、大学受験に備えた本格的な勉強に取りかかっていました。どうせ学校は消化授業でしたし、放課後に尚己のことを振り回す女の子もいませんでした。
ラーメンがひときわ美味しい季節になりましたが、尚己はあの”見てくれの悪い”らしい屋台ラーメンをひとりで食べにいこうとは思いませんでした。あのラーメンをひとりで食べてもきっと辛いだけだろうから、尚己はそう思いました。
今日も尚己は早々に学校から帰宅し、注文しておいた大学受験の参考書を梱包材から取り出しました。
それは有名予備校講師の授業を録音して、付属CD-ROMに収録されているというものです。本の記述はわかりませんでしたが、さすがは有名講師というだけあって弁舌による授業だけを聞いても十分わかりやすく、ユーモアもあって面白いのです。
シリーズ化されたこの参考書を尚己は毎号、時間も忘れて聞き入っていたのでした。
そのとき尚己は、ヘッドフォンを耳に装着してもう何度目かの音声授業を聞いているところでした。
「……てっ!」
突然、尚己の耳に何かの言葉の切れ端が引っかかりました。ヘッドフォンからではなく外から聞こえてきたような気がしましたが、それにしては小さすぎる音でした。
「なんだろう?」
尚己は妙に気になってヘッドフォンを外しました。
「……けてっ!」
「ぇ?」
強い言葉の切れ端とともに、尚己の脳裏がフラッシュのように一瞬光りました。何か、あいまいな映像の残影を残して光はすぐ消え去りました。
「な、なんだ今の……」
微弱な激しいその声は、少なくとも耳から聞こえてきたものではありませんでした。まるで、手を繋いだときに脳裏に浮かぶあのイメージに付着してやってきて、尚己の中で再構成されたような声でした。
自分の知っている声ファイルから”最適”の声が自動的に抽出されて、尚己に”聞かせている”ような、いうなれば”内なる声”は――
「助けて尚己っ!」
ちゆりのものでした。
尚己は無意識のうちに手を、いつもちゆりと握っていた手を握りしめていました。
既に汗ばみ、それは熱く火照っていました。
「くっ!」
尚己は歯を食いしばりました。わけもわからず彼は強い憤りを感じていました。怒りが脳細胞を活性化させます。
ぼやけていた脳裏のイメージが次第にはっきりとしていきました。
ある電灯が焦点を結びます。それはいつかちゆりと食べに行った屋台ラーメンの帰り、公園の路地を突き当たった小広場に、堂々と立っているくせにライトの切れていた、あの電灯でした。
「月夜に照らされて花が綺麗だなぁ」
「へぇ、綺麗なんだろうね」
「あ、ごめん……」
「いや、花のいい香りがするよ」
「ほんとにぃ〜?」
「ごめん、トンコツの匂いしかしない……」
「ば、ばかっ」
尚己は既に部屋をで、階段を駆け降りていました――。
廊下を走りぬけます。
とはいえ、彼がちゃんと走るなんてもう何年かぶりのことです。玄関を出たところでさっそくつまづいてしまいました。
「ちくしょう、しゃんとしろっ!」
崩れた足を奮い立たせるようにして尚己は立ち上がり、家の門扉を出たところで立ち止まります。
尚己は、まるでスイッチを入れるようなしぐさでこめかみに指を当てました。
すると彼の脳内で一枚の地図が起動しました。
朝夕の登下校のときさゆりやちゆりを通して見てきた街の風景が、線だけの地図を立体化していきます。
彼女たちと歩いているとき常に計測していた歩幅数が、地図の平面を区画します。
玄関から門扉を出た現在地までを走ることに要した歩数を、通常歩行に要する歩数で除法し、算出された商を掛け合わせ、地図上に表示された歩幅数が再計算されていきます。
尚己は足を持ち上げます。彼にとって走ることは初めての経験といっても過言ではありませんでしたが、理論的ないくつかの走法は知っていました。
尚己はイメージ上の走り方で、イメージ上の地図を、いま走り出しました。
確かな地面を踏みしめて――。
「はぁはぁ」
何度かのクラクションを浴びながら、何人かからの怒声を浴びながら、尚己は走り続けました。
走るということをまるで知らなかった足は、筋肉を奇妙に動かして尚己の狂行を阻害しようとしました。
「ぜぇぜぇ」
しかし尚己はそのとき完全にイメージ上の存在であって、物理的に干渉することはほぼ不可能でした。
悲筋肉は悲鳴をあげ、呼吸器官は断末魔をあげていましたが、尚己は止まることを許しませんでした。
ようやく尚己は公園に着き、すぐさま壊れた電灯の、花畑のある小広間に向かいます。
「ちゆりー!!」
乱れた呼気の合間をぬって、尚己はお腹の底からちゆりに呼びかけます。
「ちーゆりーっ!!」
彼女は確かにこのすぐ近くにいるはずでした。それは尚己の願望に過ぎませんでした。
けれども、せめてこれくらいのささやかな願いくらいかなえて欲しいと、尚己は人ならぬ存在に訴えかけていました。
「……」
尚己は耳を澄ませました。彼が視力を失って以来10数年にわたって鍛え抜いてきた自慢の聴覚です。今こそ”彼”の真価が問われる時でした。
がさがさっ。
「!」
左前方から茂みの揺れる音を尚己はかすかに聞き取りました。
「ちゆりっ!!」
彼は躊躇せず駆け出しました。
「な、尚己っっ!」
ちゆりの声が響き渡り、せつに願っていた彼女の存在が尚己を満たしました。
「ちゆ――」
唐突に尚己の腹部を打撃が襲いました。
「うっ!」
こみあげるような吐しゃ感が、
ごふっ。
同じ腹部を今度は蹴り上げられ、一気に口をつきました。
「おぇぇぇぇっ」
尚己は胃の内容物を吐き出し、うずくまるようにして倒れました。
「な、直己―っっ!!」
ちゆりの悲鳴が耳に突き刺さります。尚己の左右から男の下卑た笑い声が聞こえてきました。
ちゆりの声はさきほどから尚己に近づいてきません。誰かに抑えつけられているのでしょうか。
右と左に1人ずつ、先に1人。尚己は状況をそう認識しました。
「っく!」
目の見えない尚己に彼らと戦うすべなどありません。彼の取りうる戦術は、ひとつだけでした。
両手を地面につき、膝を立てて尚己は起き上がろうとしました。
尚己を右側のひとりがそれを蹴り潰します。しかしそれは尚己の予想していた攻撃でした。
「や、やめてよぉぉぉっ!」
手足を投げ出し見せかけの嗚咽を撒き散らすと、彼らは野太い笑い声をますます荒らげました。
自然、尚己を足で潰していた男の力が弱まります。
その隙を狙って瞬間的に両手足を着き、超低姿勢のクラウチングスタートで尚己は、ちゆりに向かって一気に飛び出しました。
「なおきっ!」
絶妙のタイミングで発せられたちゆりの声を頼りに、尚己は精密に軌道修正を施し、まさにちゆりに飛びかかっていったのです。
「わっ!?」
尚己の手が誰かの体に触れました。ちゆりの驚く声が眼前から聞こえてきます。尚己は手でまさぐるようにして、今触れている人物の胸元にもっていきました。
もみゅもみゅ。
これは確かにあのときの――
「かま――」
それ以上口にするのはあまりに不吉だったので、尚己は口をつぐみました。
「なっ!」
それまでとは別種の声をあげる”確かな”ちゆりを、尚己は背中から抱き上げ、自分を軸にして彼女を思い切り振り回し始めました。
ちゆりを押さえ込んでいた男が彼女の足に蹴られて離れます。
3回転ほどさせたあと、尚己は男たちに背を向けるようにしてちゆりを強く抱きしめました。彼女の頭を自分の胸で抱え込み、身体を両腕で包み隠すようにして茂みの中に自ら倒れこみます。
尚己は覚悟を決め、予想された打撃が背中に襲いかかってきました――。
がしっ。どしっ。
尚己は地面にうずくまり、ちゆりを必死に庇うように、男たちからの間断ない蹴りを背中で一身に受けていました。
「や、やめてっ!な、なおきがっ!」
想像していたよりはるかに激しい痛みに、尚己の背中は燃え上がるようでした。
がしっ。どしっ。ぐしっ。
「なおきがっ、死んじゃう、死んじゃうよぉぉ!」
胸元のちゆりが悲痛な叫び声をあげます。
死。
ふだんから暗闇でいることに慣れていた尚己は、死というものに妙な親近感を抱いていました。意識ある暗闇か、意識のない暗闇か。尚己にとってそれだけの違いでしかなく、眠っていようが起きていようが暗闇であることに変わりのない彼にとって、死ぬことと生きることがたいした違いには思えなかったのです。
少なくとも、怖くはありませんでした。
むしろ怖いのは――
「な、なおきぃ……いやあ、ぐすっ……うぅ……」
ちゆりが暴漢たちの手に落ちることでした。
ぼこっ。ばしっ。
「くぁぁっ!」
かけがえのない、大切なちゆりを守りたいという尚己のこの気持ちは、願望ではなく、欲望でした。彼はヒーローでもなんでもなく、ただ自分の欲望に忠実な盲目の獣に過ぎませんでした。
翼がないからといって人間は空を飛ぶ夢をあきらめないように、ちゆりを好きだという事実は尚己にとって揺るがしようがない夢でした。
男たちに蹴られるたび、その夢はなぜか大きくなっていきました。
「ぁ!」
そのとき、脳裏にぽっかりとあの人物のイメージが浮かんでいるのに尚己は気がつきました。ちゆりの手を握っているときによく浮かんでいた、あの男子生徒です。
今この場に来ているのでしょうか。ちゆりを助けてくれるというのでしょうか。
がしっ。ごぼっ。
自分のことはどうでもいい、自分の気持ちなんて斟酌する必要ないから、早くちゆりを連れて逃げていってくれと、尚己は祈るように思いました。
「くぁっ……!」
しかし彼が助けに入った様子はありません。ここまで来ておいて見て見ぬ振りなどという理不尽な態度に、尚己の頭は煮えくり返っていきました。
脳裏の漠然としたイメージが、少しずつはっきりしていきます。
「直己ぃっ!やっ、やめて、もうやめてっっ!これ以上、し、死んじゃうってばっっ!なおきっ!」
ちゆりが尚己の名を呼ぶたび、像は鮮明になっていきました。
そもそもちゆりの頭は尚己が胸元にしっかりと抱え込んでいます。彼の肩越しに誰かを見ることはできないはずでした。ちゆりが見ることのできる人物など、尚己以外には――。
尚己の脳裏でひとりの人物が焦点を結びました。
“それが自分の顔であることに尚己はそのとき初めて気がついたのです”。
尚己は苦笑いを浮かべました。苦痛で歪みきっていた彼の顔では到底判別がつきませんでしたが。
尚己は馬鹿でした。大馬鹿でした。
自分自身に嫉妬していただなんて……。
そのとき、男の渾身の蹴りが尚己の頭部に炸裂しました。
「うがっっ!」
暗闇に覆われていた尚己の意識が大げさなまでに明転しました。
真っ白になった世界で急速に意識が収縮していきます。その狭間で尚己は、善も悪もない、たったひとつの事実だけをその手につかんでいました。
ちゆりといつも繋いでいた、その手に――。
「やめっ、いやっ、いやだよぉ……」
「ちゆ、り……」
「な、なに?」
「好き、だ……」
「え?」
「ぼ、僕はちゆり、が、好き、なん、だ……」
「お前らー!!何やっとんじゃぁぁぁぁぁ!!」
どこかで聞いたことのあるような轟声が、途切れゆく尚己の意識にやさしく染み入ってゆきました――。
尚己は病院に担ぎ込まれました。
ちゆりから聞かれた状況から、病院のスタッフは重傷を予想しました。
けれど尚己の学生服を脱がしてみると、彼の背中にはダンボールが挟みこんでありました。全面に渡りぼこぼこに凹んでいたそれは、インターネット通販会社の梱包材でした。
ただでさえ大仰な梱包をすることで有名な通販会社である上、尚己が注文したのはCD-ROM付属のぶ厚い参考書。それを3号分まとめて注文し、それを包み込んでいたダンボールを折りたたんで背中に忍ばせていたのです。
これが緩衝材となって、内臓へのダメージは最小限に抑えられていました。尚己はこうなる可能性をあらかじめ想定し、男たちからの攻撃をなるべく背中で受けとめようとしたのでした。
目の見えない尚己がちゆりを守るために取りうる唯一の戦術とは、攻撃を一身に引き受け、最小限の被害に抑えることでした。
とはいえ、そうなる可能性が予測できたのなら、前もって対策などせず警察に連絡すべきだったでしょう。公園の人を連れて来るべきだったでしょう。もしあのとき屋台の店主が来てくれなかったら――。
「ばかっ……」
尚己は目が見えないために常に誰かの助けを得ていなければならず、それを当たり前のことだと思いたくない、傲慢さへの嫌悪から、肝心なとき誰かに頼ろうとすることを躊躇してしまう傾向がありました。
それに、尚己に意外と感情的な部分があるのもちゆりにはわかっていました。
そして、ふだんは的確な判断ができるのに一度頭に血が上ると考えなしに突っ走ってしまうところがあるのは、今回初めて知りました。
「……」
尚己が家を出るときそこまでちゆりの危機を予測していたということは、彼女にとって不可解でした。まさか、ちゆりが男たちに取り囲まれたとき一心に直己の助けを求め、その思いが通じて彼が助けに来てくれた、なんてことはないでしょう。
ちゆりが何より直己の助けを求めていたのは、事実でしたが。
「ねぇ、起きてよぉ……」
尚己はあれからずっとこん睡状態のまま、集中治療室に寝かされていました。
体に受けたダメージについては手術を要するほどではありませんでしたが、頭に受けたダメージによって尚己はいまだ意識が戻らずにいました。
医師の診断によると、現時点で脳の損傷は認められず、意識が戻らない以上予断を許さない状態であるけれども、心配せずともそのうち意識を取り戻すだろうということでした。
尚己の家族や医師は少し安心した様子で、別室にて入院手続きの話をしています。しかしちゆりは尚己のことが心配でならず、彼のそばを離れたくありませんでした。
心理士のカウンセリングも断り、ちゆりは尚己のかたわらに居続けました。自分の負った傷など、お風呂にいつもより長く浸かれば癒せる程度のものくらいにしか彼女は考えられず、何より今は尚己のことで頭がいっぱいだったのです。
「ぼ、僕はちゆり、が、好き、なん、だ……」
尚己が意識を失う寸前ちゆりに残した、告白。
それはちゆりにとってあまりにも嬉しくて、もうほとんど嫌われたと思っていた彼女にとって、ありえないくらいの幸せで、むしろ怖くなりました。
あれが尚己の最期の言葉なんじゃないか、せめて最後くらいちゆりに夢を見させてあげたいという、やさしすぎる尚己の一世一代の嘘だったんじゃないかと、ちゆりは予感せずにはいられないのです。
「このままいっちゃ、やだよ?わた、私のほんとの気持ち、伝えてないじゃない……」
ちゆりの頬を涙がつうと落ちていきました。
尚己には友達だと言ったけれど、ちゆりは中学のときからずっと尚己のことが好きでした。
本当は自分が一番辛いはずなのに、誰にでもやさしくて、見返りを求めなくて。
目が見えないくせに相手の気持ちがよく見えて、自分の都合を後回しにするものだからいつも損ばかりしていて。
切ないくらいもどかしくて、見ていると目が潤んでしまうくらい大好きなのに、どうしても素直になれなくて。
さゆりがすんなりと尚己の援助をしていくのを、ちゆりはうらやましく思っていました。
いつからか尚己を助けるのはさゆりという雰囲気になっていて、尚己はさゆりに気があるということがわかってしまってから、ちゆりにはもうどうすることもできなくなっていました。
尚己が幸せになれるならそれでいいと、ちゆりはそう思い込むしかなかったのです。
それなのに、さゆりは高校に進むと別の男子生徒のことが好きになって、尚己の援助も辞めなくて、ちゆりは腹が立ちました。ずるいと思いました。双子の姉に嫉妬していました。
そんな自分勝手な姉を、さゆりのことを本当は好きなのに、さゆりの恋を応援して、ふたりの後押しをしておいてひとりこっそり傷ついている尚己のことを、ちゆりは自身の心が引き裂かれるように思っていました。
昔よりもっと、ずっと、尚己のことが好きになっていました。
私だけは尚己を傷つけない、例え彼が自分のことを好きになってくれなくても、彼をずっと支えていこうと、ちゆりは決心しました。
でも、ちゆりは尚己を傷つけてしまいました。
心だけでなく、こうして体まで……。
「何が、決心よ……」
ちゆりの両目から涙がとめどなく溢れていました。
せめて謝らせてほしい、
ありがとうって言いたい、
許させるなら、好きって言いたい、どれくらい好きか教えてあげたい、
嫌な部分も含めて、私の全てを知ってほしい――
ちゆりは、ベッドの上で静かに寝息を立てている尚己をじっと見つめました。
「なお、き……」
尚己はいつも目を閉じていました。
目を閉じたままのやさしげな微笑み、穏やかな話し方、悲しげな口元、尚己のさまざまな表情をちゆりは思い浮かべていました。
「永遠の眠りにつくお姫様、じゃなくて王子様、か……」
危険の迫ったお姫様は一心に恋しい人のことを思い、それが届いて王子様が助けに来てくれました。けれど敵が断末魔に放った呪いで、王子様は永遠の眠りについてしまいます。
「結局のところ、眠りを覚ますのは――」
ちゆりは椅子から立ち上がり、ちらりとドアのほうを見たあと、尚己の顔に覆いかぶさるようにして近づきます。
「キス……しかないわよね」
小さいときこっそりママの口紅を唇に塗ってみたときのようなどきどきが、ちゆりの心身を震わせます。
そのくせ、大人っぽく尚己の体に垂れそうな髪を片方耳でおさえて、もっと彼の顔に近づいて、かすかに口をすぼめて……。
――。
――ん。
――ん?
――んんん!!?
「――んぁっ。えぇぇっ!?」
まるでおとぎ話みたいに、尚己は目を覚ましました。
「あ、れ?」
尚己はまぶたを開けていました。
尚己はちゆりのことを”見ていました”。
尚己の目で、ちゆりの目を見つめていました――。
「君が……ちゆり…ちゃん?」
「ごめっ、うっ、ごめん、ね……」
「げっ、僕ってこんな見てくれのもの食べさせられてたんですか……」
「開眼一番そのセリフはねぇんじゃねーか?」
「これでも前よりはずっとましになってるのよ?」
尚己の目は突然見えるようになりました。
医師の話によると、脳に受けた衝撃が元で視力の回復する例がまれにあるそうです。視覚と脳の中枢を結ぶ視神経がなんらかの原因で”断線”していたものに、幸運なショック療法的効果が及んだのではないかということでした。
しかしこのケースには未解明な部分が多く、視力に変調をきたす場合や、最悪再び視力を喪失する可能性もあり、目のリハビリも兼ねて長期通院・定期診断が課せられ、尚己は週に2日は病院に通っていました。
ちゆりは尚己の通院に必ず付き添いました。ふたり手を繋ぎながら。
もう尚己はちゆりの援助を必要としていませんでしたし、ちゆりは尚己を援助しているつもりはありませんでした。
尚己は、幸せであるためにちゆりの延長でありたかったし、ちゆりは、幸せであるために尚己の一部でいようと思いました。
ふたりにとって手を繋ぐことに口実はもはや必要なく、好きあう地平に見えない障害はもうありませんでした。
「おいおいお前ら。命の恩人が作るラーメンに向かってそりゃねーだろ」
「そういえば、あのとき頭蹴られた”おかげ”で尚己目が見えるようになったんですって」
「まじかよ」
「ええ、そうらしいです……」
「それじゃあ、あいつらコテンパンにのした時頭の2,3発も殴ったかもしれないから、今頃ベッドの上で開眼してるかもな」
「宗教?」
「心の眼だっつの」
「なにそれ」
「ほら、眼をつぶってても敵の場所がわかったりするやつだよ」
「それなら尚己が持ってるじゃない?ほら、あのとき――」
尚己は目が見えるようになると、あの不思議な力――体に触れた相手の見ているものがわかる――を失っていました。
とはいえ、目が見えるようになった尚己にその力は必要ありませんでしたし、彼が本当に見たいのは、手を握った相手が見ている自分の姿ではなく、手を握っていようがいまいがただちゆりの姿だけでした。
屋台を後にして、尚己とちゆりは手を繋ぎながら夜の帳が降りた園庭を歩いていました。
「月が綺麗ね」
「本当、そうだね」
ごく平凡な会話をかわします。同じものを見、同じ感覚を共有できるということの当たり前すぎる奇跡を、ふたりはかみしめていました。
ちゆりは尚己のことを見つめます。
生まれたばかりの瑞々しく深遠な尚己の双眸は、彼のやさしげな面差しに全くしかるべきものでした。ちゆりはその瞳に吸い込まれていくような心地におちいり、思わず彼の手を離し前に駆け出します。
「尚己の目がいつまた見えなくなってもいいようにさ――」
「ん?」
ちゆりはちょこんと尚己を振り返り、
「かわいい私を今のうちにいっぱい見ておいてよね」
月明かりに照らされ蒼白く、ほの紅いちゆりの屈託ない笑顔に尚己は目を奪われました。
「あー」
「どうしたの?」
「なんか、目がおかしくなったみたい……」
「え?」
ただでさえ月明かりで蒼白な顔を沈ませ、ちゆりが近寄ってきました。
「だ、だいじょうぶ?」
心配そうに尚己の目を見上げています。
「ちゆりのことが、ありえないくらい美しく見えるんだ――」
いたずらっぽくそう言うが早いか、尚己はちゆりの唇を奪いました。
「んーっ!」
最初は反発したけれど、ちゆりはすぐ力を抜いて尚己に身体を預けていきました。辺りを支配する寒さの決して及ばない温かみが、ふたりの世界を抱擁します。
「……ちゆり、好きだよ」
唇を軽く離し、吐息のかかる距離のまま尚己は、瞳をしっかりと見つめて最期でも嘘でもない告白をしました。
「私も、好き、ずっと尚己のことだけ好きだったよ」
好きな人に好きと言えるだけでどうしてこんなに幸せなんだろう、ちゆりは自分の言葉に自分の心がすごく嬉しがっているのを”共感”していました。
ぴとっ。
ちゆりの目元に溢れていた”ふたり分”のうれし涙を、尚己は指で愛おしげにすくいます。そのしぐさがあんまりにも尚己らしくて、ちゆりは思わず彼の首に手を回して唇をひとりじめしました。
――ん。
――んん。
ちょっとだけ背伸びしたふたりのキスは、トンコツの味がしました。1回目のときは味どころの話ではなかったし、キスってもっと甘くてロマンティックなものではないのかしらと、ふたりはちょっと思いました。
尚己に始まったばかりの世界と、ふたりに始まったばかりの恋と幻滅。
冬のきらやかな星座たちが優雅に羽ばたくこの星空は、遥かかなたの宇宙で遥かかつてから連綿と続く面白みのない事実を、ただ映し出している鏡に過ぎませんでした。
おわり。