メイドと紅茶にまつわる連篇集

 「あ、あのっ!」
 「ん?」
 「こ、紅茶はいかがですかっ?」
 街の郊外に広がる蒼々とした緑地をひと筋流れる小川、そのほとりに建つ館がありました。
 この館に彼女は住み込みのメイドとして働いています。この館にはまだ入りたてで、メイドの仕事はお世辞にも良くできませんでしたが、紅茶を淹れることに関してだけは得意でした。
 彼女の紅茶を注ぐときのまなざしはとても可憐で、紅茶を飲む人に注ぐまなざしはとても穏やかでした。
 紅茶の味もさることながら、彼女は相手に紅茶を美味しく飲んでもらうことが得意で、彼女自身そうすることがなにより好きだったのです。
 取り立てて美しい女の子ではありませんでしたが、素直で気立てが良く、気づかぬうちに誰もが彼女の味方をしてあげたくなりました。
 休日の昼下がり、この館の若当主が、川に張り出されたテラスで彼女の淹れた紅茶を飲んでいます。その傍らで彼女はとても穏やかなまなざしで、彼のことを見つめています。
 「ぁ……」
 かすかに頬を赤らめて一心に彼のことを見つめる彼女の表情が、一瞬にして影を帯びました。
 若当主は無言のままテラスを立ち去り、白木のテーブルには、飲み残された紅茶のティーカップが寂しげに置かれているのでした。


 「わ、私っ、ほ、本日よりこの館におつっ、お勤めさせていただくことになった――」
 「ああ、そうか、よろしく」
 「は、はい……」
 若当主の父、現当主は外国で事業を起こし、それにかかりっきりとなっているために滅多にこの館へは帰りません。
 母は彼が幼いころに亡くなっていました。
 母方の祖母がこの館の離れに住んでいますが、長年記憶を病んでいて、彼と話しをすることはありませんでした。
 若当主は高等大学で経営学を学びながら、父の国内の事業の関する全てを任させていました。彼の経営に関する手並みは現当主を上回るのではないかと、周りの人は口々に言っています。
 彼は常に冷静で判断力は明晰、周囲の雑音に惑わされることなく自らの意志を貫徹し、大きな事業をいくつも軌道に乗せていたのでした。
 息も休まらぬ学業と経営の日々、ひとときのくつろげる場所がこの館のテラスでした。彼はあの新しいメイドが淹れてくれる紅茶と、彼女のまなざしに心地良いもの以上の、あるあたたかな気持ちを抱き始めていました。
 けれど、どうしても彼女の美味しい紅茶を最後まで飲むことができなかったのです。
 それゆえ彼はいつも、彼女にすまないという気持ちと、自分のことがわからないという不安な気持ちを抱えたまま、逃げるようにテラスと彼女を振りきって、疲れる日常へと戻っていくのでした。


 「君の淹れてくれる紅茶は、美味しいな」
 「あっ、ありがとうございますっ!私、紅茶を淹れることだけは得意なんです」
 その年若いメイドは、かつて母と弟の3人で暮らしていました。父を幼いとき事故で亡くし、母は苦労しながらふたりを育てました。
 身体にあわない厳しい仕事の合間に、母はよく彼女と弟に紅茶を淹れてくれました。
 母はかつてメイドをしていて、紅茶の淹れ方はそのときに先輩メイドより教わったのだそうです。その勤めていた館の次期当主が、ふたりの父でした。
 父と母は恋に落ち、当主である父親に反対されたため、駆け落ちして結ばれたのです。
 母はふたりに紅茶を淹れてくれるとき、父との幸せな思い出がよみがえってくるのでしょう、それは幸せに満ち足りた表情をしていたのでした。
 「紅茶はね、幸せになってもらいたい人に、自分の幸せな気持ちを込めて淹れてあげると、美味しくなるのよ」
 母は、紅茶を淹れるたびそう教えてくれました。
 その母も、長くわずらっていた病気が悪くなって、去年父の元に旅立ちました。
 それゆえ、普段から自分たちに良くしてくれていた遠縁の親戚に頼んで、まだ学校で学んでいた弟を預かってもらい、彼の学資や生活費を稼ぐために(その親戚は必要ないといってくれましたが)、彼女はメイドとして働くことにしたのでした。


 「メイド長に言いつけられたことなんて、適当にやってりゃいいのよ」
 「は、はぁ……」
 メイドという仕事は、かつては女の子の憧れの職業のひとつでしたが、しだいにその大変な仕事内容と、一部雇い主による酷い仕打ちが表沙汰となり、今では誰もあまりやりたがらない職業となっていました。
 メイドの雇い主は、最低限お金持ちでなければならず、人間というものは、必要以上にお金を持つと人の痛みがわからなくなるものらしいのです。
 それでも、彼女はメイドという仕事に魅力を感じていました。住み込みで働けるので親戚に負担をかけずに済むし、年齢にしては高い給金がもらえるので、弟にいい勉強をさせてあげられます。
 それに、母もかつてメイドをしていました。紅茶を淹れているときの母の姿を見ていると、少なくともメイドであったとき、母は幸せであったに違いないと彼女には思えるのでした。
 そして、それは彼女にとっても事実でした。
 何の縁もゆかりもなく、たまたま職業紹介所で見つけて来たのがこの館でした。
 その館にはメイド長のおばさんと、先輩メイドのお姉さん、執事の紳士と庭師のおじいさんが働いていました。
 メイド長は家事全般に堪能で特に料理が得意でした。新人メイドである彼女にはとても厳しくあたりましたが、たまの帰省で弟に会いに行くときは、無愛想な顔のまま、絶品のシチューとお手製のパンを渡してくれました。
 先輩メイドは仕事をそつなくこなす技術に長けていました。彼女がメイド長に言いつけられたことにあくせく取り組んでいると、それを簡単に済ませる方法、手を抜いてもばれない部分をこっそり教えてくれました。
 執事の紳士はとても寡黙で仕事熱心でした。けれど周りに若当主や他のメイドがいないときは、その博識とユーモアのセンスを生かして彼女を笑わせてくれました。とてもそうとは思えないくらい立派で真新しい「いらない本」を、よく弟へ持たせてもくれました。
 庭師のおじいさんは本当にただの心優しいおじいさんでした。彼女は自分のお祖父さんに会ったことがありません。幼子が初めて触れるしわと老いの持ち主が自分のお祖父さんであるとするなら、まさしく庭師のおじいさんは彼女のお祖父さんでした。


 館の誰もが、彼女の淹れてくれる紅茶が大好きでした。自分の幸せを惜しみなく注ぎこむように淹れてくれる彼女の紅茶を飲めば、健気な思いやりに触れれば、館の誰もが彼女の幸せを望まずにはいられませんでした。
 それは若当主にしても同じでした。しかしどうしても、自分でもよくわからない抗いがたい心の動きによって、飲み残させられてしまうのです。


 ある日。テラスで紅茶のティーカップを手にくつろいでいる若当主に、彼女は思いきって尋ねてみました。
 「ご主人様は、どうして私の淹れた紅茶をすべて飲んでいただけないのですか?」
 若当主は、彼女が自分の事を心配して聞いてきてくれていることをわかっていました。けれど、明確に答えることのできないいらだちと、自分の事がよくわからないという不安を他人に明け透けにされそうな恐怖が、そのとき精神の抑制を超えてしまったのです。
 「君の紅茶をどこまで飲もうが私の勝手だろう。メイドの分際で私を非難するのか」
 彼は言い放ったとたん、後悔の海に沈みこむ自らの姿を見ました。彼女が紅茶を通して自分に注いでくれた幸せを、一瞬にして台無しにしてしまったのです。
 彼女の顔を、彼はとても見ることができませんでした。
 当主としてのプライドが邪魔して彼女にすぐ謝ることもできず、そのまま館を離れざるを得ませんでした。


 彼女はその日一日メイドの仕事が手につかず、失敗ばかりしてしまいました。笑顔をなくした彼女のことを心配してメイド長は半休を与え、彼女は自室に引きこもっていました。
 ベッドに倒れ枕を涙に濡らしています。
 彼女は、母の幸せの形見と、自分の幸せの気持ちを、若当主に拒絶されてしまったのが悲しくてなりませんでした。寂しくてしかたがありませんでした。
 彼女にとって一番幸せになってもらいたい彼に、自分の幸せな気持ちを受け入れてもらえなかったことが、辛くてどうしようもなかったのです。
 枕に顔を埋めながら、自分が彼のことを好いているのを実感していました。


 彼もその日一日経営の仕事が手につきませんでした。見てはいない彼女の悲しげな表情が脳裏にちらついて、つい感情的になり、大切な商談を失敗してしまいました。
 心配した部下にあとの仕事を任せて、彼は夜半過ぎ館に戻りました。
 真っ先に彼女の部屋を訪ねましたが、ノックをしても反応がありません。鍵は開いていました。
 躊躇いながらもドアを開け中に入ると、彼女はメイド服のままベッドに倒れこむようにして眠っていました。
 彼女の目元が腫れているのを見、彼は重い罪悪感で心をぎしりとふさがれていくのを感じながら、自分が彼女のことを好いているのを実感していました。


 翌朝。彼女が目を覚ましてみると、若当主が椅子の背に顔を預けるようにして眠っていました。ふだんの落ち着いた態度からは想像もつかないとぼけた寝顔に心が温まるのを感じながら、彼女はある決心をして、朝の仕事をしている庭師のおじいさんの元へ向かいます。
 庭師のおじいさんは、この館に一番古くから勤めているのでした。


 若当主は日が昇りきるころに目を覚ましました。ベッドに彼女の姿はなく、どうしたものかと館内をさ迷っていると、テラスにやってきていました。こんな平日の昼どきに館にいたことはなく、何となく椅子に座って川のせせらぎに耳を傾けていました。
 すると彼女がテラスにやってきます。いつものように紅茶を可憐に淹れてくれます。
 彼もいつものように、彼女の淹れてくれた紅茶を口に運びます。なよやかな味わいが身体を温め、彼女の穏やかなまなざしが心を安らげます。
 それでも彼は、やはりいつものように最後の一口を飲むことができませんでした。
 しかし今日の彼女は、穏やかなまなざしをなくしません。
 それどころか、何を思ったのかティーカップを手に取ると、紅茶の残りを口に含んだのです。
 驚きのあまりきょとんとしている彼の顔に近づき――
 「んんっ!」
 口づけをして、彼女は最後の紅茶を口移しで飲ませてあげます。
 とたんに彼の視界が反転しました。それは、彼に過去の記憶を呼び覚まさせる儀式だったのでした――。


 幼いころに母を亡くしていた彼には、母代わりのメイドがいました。
 常に彼の傍らにあって、限りなくやさしく、無条件で彼を受け入れてくれました。
 彼女は絵本の読み聞かせと、ケーキ作りと、紅茶を淹れるのが得意でした。
 幼い彼は、母を大好きであるのと同じように、彼女のことが大好きでした。
 しかし、彼の祖母はそうではありませんでした。
 自らの娘を亡くし、その傷も癒えぬまま彼女が残した大切な孫を、かのメイドは横取りしようとしているように祖母には思えてならなかったのです。
 何かにつけて祖母は彼女に辛くあたりました。
 幼い彼の父は、妻に先立たれたショックを埋めようとでもするかのように、次々新しい事業に手を染め、滅多に館へ戻ることはありませんでした。
 メイド長や執事には祖母のやりように意見することなどできず、新入りの庭師には祖母と口をきくことすらままなりませんでした。
 彼女は次第に精神を病んでいきました。それは決して幼い彼の前では見せなかったけれど、彼女の自室は荒んでいきました。壁に血褐色の染みが増えていきました。
 祖母はさんざん苛めぬいた挙句、病気を理由に館を出ていくよう彼女に告げます。彼女に身寄りはなく、ここを離れれば路頭を迷うしかないということを知っていながら。
 彼女が館にいられる最後の日。川に張り出されたテラスの白木のテーブルで、彼女は、幼い彼に最後のケーキを切り分け、最後の紅茶を淹れてあげました。
 幼い彼は嬉々としてケーキを食べきり、紅茶を最後まで飲もうと、ティーカップを口につけたとき、自然彼女の姿が目に入りました。
 いつもと変わりなく穏やかな笑みを顔に湛えたまま、彼女はそのとき、ケーキを切り分けたナイフを自らの首に突き立てたのです……。
 

 「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
 全てを思い出した彼は、まるで今まさに血しぶきを浴びているかのように、背後に飛びすさびました。おぞましいものから逃れるように、もんどりうってテラスを飛び降ります。
 川の底によつばいとなって、激しくも痛ましい嗚咽をもらし始めました。
 館の者が何事かとテラスのほうにやってくるなか、彼女は躊躇わず川に浸かり若当主を背中から抱きしめます。
 「ご主人様っ!」
 「ご主人様っ、私はっ!」
 「私はっ、ずっとご主人様の傍にいますからっっ!!」
 何かから彼を必死に引き留めようとでもしているかのように、彼女は強く彼を抱きしめ、つよく彼に叫び続けました。
 若当主の狂おしいまでのわめき声と嗚咽に、彼女のせつないまでの呼びかけが、いつまでも館と周囲にこだましていました。


 我に帰った若当主は、館の居間で肘掛け椅子に腰を下ろしていました。
 知らぬ間にガウンを着ていました。どうしてか、髪の毛が濡れていました。
 目の前では、彼と同じように肘掛け椅子に腰を下ろして、ガウンを着ていて、髪の毛が濡れている彼女がいました。
 彼女は、両手で包むようにして持つコーヒーカップを口につけたまま、彼のことを心配そうに見つめています。
 彼は、目の前のテーブルに置いてあるコーヒーカップを手にとって、口に運んでみました。
 それは苦くて渋みの強いコーヒーでした。
 彼は、一口飲むなりカップをテーブルに戻して、彼女のことを見ながらこう言いました。
 「コーヒーよりも紅茶のほうが良かったのに
 彼女がぱっと笑顔を咲かせます。
 2人を取り巻いていたメイド長と執事の紳士は「やれやれ」とあきれ顔、先輩メイドと庭師のおじいさんはかったくに笑い出しました。
 みんなそろって、びしょぬれでした。


 あの日以来、若当主はテラスでのティータイムがより楽しみになりました。
 彼女の淹れてくれる美味しい紅茶を、ぜんぶ飲めるようになったからです。
 最後のひと飲みを口に注ごうとすると、まだ、得体の知れない怖い思いが黒い染みとなって意識に広がっていきますが、そういうときは、彼女の穏やかなまなざしを必死に見つめ返します。
 彼女は決して自分の傍からいなくならない、そう信じることで、ようやく彼は心の平穏を取り戻すことができました。
 彼女の紅茶をまったく堪能して、彼は初めて言うことができたのです。
 「ごちそうさま」
 そして彼はようやく知ることになったのです。紅茶を飲み終えて「ごちそうさま」と言ってくれる人を迎える、彼女のはっとするような美しさを。
 平静を取り戻したはずの彼の心がにわかに騒ぎだします。冷静沈着な彼らしくなく、落ち着かない様子で彼女のことを見たり視線を外したりしています。
 それがなんだかおかしくて、彼女はにっこりと微笑んで――
 「ご主人様、紅茶のおかわり、いかがですか?」
 「あ、あぁ。よろしく、頼む……」
 陽光のうららかさにあてられて、川面のせせらぎがきらきらと笑っています。それがテラスにまだら模様を映し出し、その欠片がふたりと白木のテーブルとからっぽのティーカップを包み込んでいます。
 のどかでゆるやかな、昼下がりのことでした。