+11.5cmの正確じゃないたいせつな現実

 俺は高1、クラスの保健委員をやっている。
 なぜ保健委員になったと君は問うか。それは女子の身体測定データが得られるからだ。


 大昔、ファミコンに「ベストプレープロ野球」というゲームがあった。プレイヤーが監督となって実在のプロ野球チームの采配を振るうというもので、通常の野球ゲームのように選手を直接操作することはできない。せいぜい守備位置を変え、バントの指示を出し選手を交代するなど、ストイックなまでの監督業へのこだわり。しかも130試合のペナントレースを言葉通りに消化するという、野球ゲーム史上に残る革命であり、名作だ。
 そしてこのゲームのもうひとつ素晴らしい点は、チームに所属する選手データをプレイヤーが自由に編集することができるところだ。実在の選手の能力や調子に照らして正確にデータ化するもよし、まったくオリジナルのチームを作るもよし。監督として采配を振るうチームをプレイヤーが自由に作り上げることのできる点が、この作品を不朽のものとしている。大昔の作品であっても、プレイヤーの意欲次第で今日でもいつまでも楽しむことができるのだ。
 そう。俺は保健委員となって女子の身体測定のデータを獲得し、それを元に脳内女子チームを正確に編成し、脳内球場にて繰り広げられる、オール女子の脳内ペナントレースを、熱く、熾烈に、淫らに、くんずほぐれつ采配していくのだ。
 素晴らしい。ああ、なんて素晴らしい構想であることだろう。
 確かに俺のレベルともなれば、軽く見ただけで女子のスリーサイズなど誤差1センチ以内で推測できる自信がある。だがそれではダメだ。データとは正確でなければ意味がない。推測であることを自分自身が知っている以上、己がそれを許さない。推測は妄想であり、データこそが事実なのだ。そして、選手を心から信用することができなければ、監督として心置きなく采配など振るやしない。選手のために、そしてチームの勝利のために、俺は靴のサイズからスクール水着のサイズに至るまで、女子に関するありとあらゆるデータを把握していなければならないのだ。


 そして、ついにこの日がやってきた。身体測定の実施日だ。
 思えば保健委員とは実に地味な活動だった。「風邪予防にうがいを欠かさず」とクラスメイトに説明をしたり、「充実した一日を過ごすために、朝食をきちんと取りましょう」と書かれたプリントを配ったり、「毎日入浴して、体を清潔に保ちましょう」というポスターを作製したり、「エッチするときはコンドー――」というのはさすがになかったが。とにかく目立たない委員会であることは確かだった。
 だが、それも昨日までの話。今日という日を迎え保健委員はその真価を存分に発揮することだろう。そして俺にとっても、我が人生においてもっとも輝かしき日。まさに今日のために生きてきたといっても過言ではない。一日千秋。My life is today.お母さん俺を産んでくれてどうもありがとう。あんたの息子は、こんなにも立派に――
 「大高くん、女子の計測データまとまったよ」
 おお、ついにきたか。
 「お疲れさん。こっちはもう終ってるから」
 声を掛けてきたのは同じく保健委員の天野由希子だ。


 あれは1学期最初の委員決めホームルーム。俺はもちろん真っ先に保健委員に立候補した。だが、どこの世界でも人気のない保健委員のことだ。相方は推薦かなにかでやる気の無いヤツが選ばれてくることだろう。いやいや委員会活動に従事することだろう。むしろそのほうが俺の野望成就にとっては望ましいなどと考えていると、手が挙がった。俺に続いて保健委員に立候補したのが彼女、天野だ。
 どういうつもりだ。もしかしてたぐいまれなる奇特な物好きで、保健委員の活動なぞに情熱を燃やしているとでもいうのだろうか。それならそれでふだんの活動は全て彼女に――
 「ちょっと、大高くんもちゃんと仕事してよ。立候補したのはそっちが先じゃない」
 立候補したのに後も先も関係ないと思うが。
 「それでも男なの? か弱い女の子に仕事押しつけて何とも思わないわけ?」
 男女共同参画社会が聞いて呆れる。それに自分のことを「か弱い」などとのたまう女子に限って、たいていそこいらの男子よりよっぽど強いのだ。本当にか弱いのならそもそも口答えなどできやしないだろうから。
 「……わかったよ」
 俺のように秘めたる野望があるわけでもなかろうに、仕事を適当にこなし、俺にほとんど押しつけて、たまには一緒にやることもあったが。彼女は何が楽しくて、何にやりがいを見出すべく保健委員なぞに立候補したというのだろう。まったく謎な女だ……。


 「それじゃ、あたしが先生のとこ持っていってあげよっか?」
 「いやいやいやいや。俺が持ってくからいいよ」
 思わず慌てて、さりげなくやさしく。
 「天野さんはもう帰ってよ、遅いしさ」
 俺が繰り出せる最高の笑顔を彼女に贈った。
 「あ、そう? ありがとう。下校時間まであと15分くらいしかないから、急いでね」
 天野も微笑み返してきた。やけに染みる、なんだろう、この罪悪感は。
 ん? だがなぜ天野はすぐ帰らない?
 俺が帰っていいよと言ったのにも関わらず、ましてや自身が下校時間まで15分と言ったにもかかわらず、帰ろうとせず、彼女は自分の席に再びついて今度は文庫本を読み始めた。そもそもなぜ体操着姿? 部活か? いや、そんなはずはない。なにせ俺と同じく、今の今まで机で集計作業をしていたのだから。
 まあいい。今は野望達成が最優先事項だ。今日という日をなんだと思っている。
 俺はかねてよりの計画通り、女子の計測データが記入された用紙を厳かに抱え、教室を出る。規定上これ以上の速度は望めないというほどの早歩きで社会科準備室に駆け込み、中から鍵を掛ける。よし、あとは拝借したデータを書き写すのみ。鞄の中から予め調達しておいた予備の計測用紙を取り出し、数値を写し始める。まるで電卓の表示盤のように迅速で端正な数字が流れるように書き込まれていく。


 俺はデータが好きだ。数値が好きだ。つまり数字が好きなのだ。
 数学、物理、化学。とにかく数字が関わる科目には自信があった。俺は数字を裏切れない。数字の期待に応えないではいられない。間違った解を導いてしまったなど一晩は泣く。数字に申し訳がないからだ。学校や塾、家庭で嫌なことがあると、無意識のうちにノートに数字をひたすら書いていたりする。頁一面にびっしり数字が無秩序に並んでいるさまを見ると、無性に安心するのだ。無秩序? いや、数字の並びに無秩序という概念はない。1の次に何が来ようともそこに無限の意味を見いだすことが可能なのだから。
 そして数字は裏切らない。1と表示されていれば1以外では決してありえない。まるで清らかだ。それにひきかえ、”音”と表示されていても”おと”であったり”おん”であったり”ね”であったり、時と場合によって読み方を変える漢字など、実に汚れた存在だ。それは人間と同じだ。
 時と場合によって言うことがまったく違う、そして当然のように裏切る。なんて汚れた存在だろう。だから俺は数字が好きだ。思春期真最中の俺は、清らかで決して裏切らない数字を通して、そうある異性と触れ合いたい。従順な瞳を犯したい。それは俺にとってはごく自然の、ありふれた性的帰結だった。


 「ん?」
 空白。
 なぜだ? どういうことだ?
 天野から預かった集計用紙の一部が空欄になっているではないか。
 「しかも……」
 胸囲。
 集計用紙だけではなく、束になった個人別の計測用紙もチェックしてみたが、そもそも胸囲記入欄自体見当たらなかった。
 「? しかもよりによって……」
 荒川、瀬野、高橋、日高……。この組み合わせはなにか、そうだ、クラスの女子ベストを男子にアンケートすればトップ5常連の女子たちだ。つまり胸囲のうちでも特に重要なデータばかりがごっそり抜け落ちているということではないか。おまけに天野のデータもない。信じがたい話だが、天野もトップ5の常連だ。まったく信じられない話だった。賄賂でも贈っているのか?
 「これは由々しき事態だ……」
 一部の、しかもクリーンナップを固める一流選手のデータが不完全とあっては、監督たる俺の作戦指揮に重大な不安が残ってしまうではないか。
 「時間はない」
 なにはともあれ、ひとまず教室に戻り天野に確認しよう。もちろん帰ってしまっているだろうが、藁をもつかむ気持ちで、俺は閉めてあった鍵を開け社会科準備室を出た。


 「お、おい、天野。ちょっといいか?」
 幸い天野はまだ教室にいた。別れたときのように体操着姿で席に座り文庫本を読んでいた。下校時間間際に何をやっている。よく考えてみればずいぶん不思議なシチュエーションだが、よく考えてみる余裕はない。
 「ひぇ? あっ」
 びくっとするように背筋を張り素っ頓狂な声を上げる天野。そこまで驚くことはないだろう。よっぽど集中して本を読んでいたのだろうか。
 「なんだ? エッチなシーンに差し掛かっていたのか?」
 「ち、違うわよバカ! もう、なんで男子ってこう、発想がエッチなのかしらね」
 エッチな本読んでるヤツにエッチだと非難されるのは小気味良いな。
 「まあ、天野がエッチな本を読んでいたことはこの際、どうでもいいとして――」
 「エッチな本じゃないってば」
 「さっき預かった女子の測定データだけど、集計用紙の欄が一部欠けてるぞ?」
 問題の集計用紙を天野に手渡す。
 「何? 今女子のこれを覗いてたの?」
 「あ、いや……」
 しまった。欠損データのことばかり考えていたので、女子の計測データを閲覧するということの否定しようのないやましさをすっかり忘れていた。
 「エッチ……」
 「それは、だな? 俺のほうが先に保健委員に立候補したわけだし? 天野のフォローもだな、しておくべきではないかと……? それにフォローしたからこの記入漏れが見つかったわけだし?」
 「それはそれでしょ。こんなときばっかり調子いいこといっちゃって。いつもはあたしに任せっきりじゃないの。つまり、大高くんはエッチということで、ファイナルアンサー?」
 悔しいが取り消せない。しかし、天野のほうこそ仕事を任されて文句を言うくらいならどうして保健委員になったのかと問いたい。だがもちろんそんな時間もない。そう、時間がないのだ!
 「ああ、ごほん。とにかくだな、提出時間も迫ってるし、どうしようか」
 「うーん、でもデータが欠けてる子ってもう下校しちゃってるよ?」
 「部活でもか?」
 「部活で残ってる子もいるかもしれないけど、ひとりひとり探しに行って教えてもらうの?」
 「むむ、それも、そうだな」
 時間はない、居場所も知れない。だがデータが欠けたままでは監督の采配に支障をきたしてしまう。
 どうしたらいい? データ収集はあきらめて俺の推測値で代替するか……。
 ん? 待てよ。
 「そういえば天野、お前のデータも欠けていたな」
 「え? あ、えと、そうだっけ?」
 「他のヤツはダメそうだが、天野のだけでも記入しておくか」
 「それは……しょうがなく?」
 「そうだ、実際しょうがないだろう。手近にいるのはお前だけだし」
 「しょうがなくじゃ、教えてあげない」
 なんだそれは。教えてあげるとかあげないの話ではないだろう。記入されてないから記入を促しているだけではないか。
 「しょうがなくじゃ、教えてあげない」
 同じ台詞を繰り返してるし。それに微妙に上目遣いで、少し頬を膨らませて。なんだ、何が言いたい。
 ……そうか。気持ちの問題というわけか。
 「天野」
 俺はおもむろに天野の肩をがっしとつかむ。
 「はヒっ!?」
 「お前が欲しい」
 「へ?」
 「お前の胸囲(データ)が欲しいッッ!」
 俺は誠心誠意、心からココロからの欲望を吐露した。欲しいんだ、天野の数値的事実を。現実とは相容れない清らかな形態を。
 「むっ」
 なにか、そこはかとなく怒っているような気がするが。俺はまごころを君に贈った、よもや怒りを買うはずもないよな。
 「え、えーっとぉ、あ、そういえばー」
 「うむ、そういえばいくつだ?」
 俺は胸ポケットからボールペンを取り出し、記入する準備をする。
 「って、大高くんに直接言うの?」
 「当たり前だ、時間もなかろう?」
 「あたしが書けばいいじゃない」
 「誰が書いても一緒だろう。俺も見るんだから」
 「見ないでよ。というか見たらダメでしょ。なに堂々と言ってくれちゃってるかな」
 「それが保健委員の務めだからな。たとえ人の道に外れることであっても、俺は、オレは、やり遂げてみせるぞッ!」
 「それ使命感に燃えるようなことじゃないから。そんな恥かしい使命感見せびらかさないでよ」
 「価値観の相違だな、残念だ。とにかく――」
 「……」
 「いくつなんだい?」
 俺は精一杯やさしく、まるで道行く幼女にお菓子をあげるからおいでと話す変質者のような穏やかさで尋ねた。人畜無害な人柄がこぼれるような微笑みも完璧のはずだ。
 「あーえーっとぉ、そういえばー」
 「そういえばいくつだい?」
 「……あたし」
 82センチ±1センチといったところだろう。とりあえず8だけ書き込んでお――
 「胸囲測ってないんだったー」


 は?
 イマナンテオッシャイマシタ?
 上目遣いで俺の頭上を見つめながら、棒読みで何ありえないこと言ってやがる。
 「は、測らないなんてことがあるのか? あっていいのか?」
 世の中とはそこまで不条理なものなのか。
 「えーっとね、うん、測れなかった。身体測定のとき、なんかお腹の調子が悪くて」
 「お腹? 胸じゃなくて?」
 「あ、う、うん、そう胸の調子が悪くて……。男の子にはわからないだろうけど」
 「それは、腫れるとか? 疲れがたまるとかか?」
 「う、うんそんな感じ。お、おっきいと大変なのよ、女の子は」
 そうだったのか、知らなかった。女子は生理や出産など身体的にきついことが多いのは知っていたが、まさか胸にまで影響があるとは……。そうか、それで他にも胸囲の欠けている子がいたのだな。
 だが、他の女子はさもあろうが、天野はそれほど大きくないんじゃ……。いや、そういう風に考えるのは人として失礼だ。盲腸で入院している人に、「お前腹黒いんだから盲腸とも上手くつきあっていけると思ってたんだけどながっはっは」と言ってのけるようなものだ。
 「すまん。知らなくて……。無理に聞き出そうとして恥かしいこと言わせてしまって、無神経だったな……」
 俺は素直に頭を下げた。
 「えぇ? あ、いや、うん……」
 天野が慌てたように頷く。俺が謝ったのがそれほど意外だったのだろうか。これでも俺は男だ。女子に対する最低限の礼儀くらいわきまえているつもりだ。体調の悪い選手に無理させてまで出場させたりはしない。監督とはそういうものだ。思いやりある紳士なのだ。
 「それじゃ、これはもう先生のところに持っていくな」
 俺はクラス全員の計測用紙を机の上で軽くそろえ、教室を出ることにした。
 「天野ごめんな、ヘンなこと聞いて。……その、体、大事にな」
 俺は軽く手を上げて挨拶し、投げやりな笑顔を置いて教室のドアを開けた。まだ全員のデータを写し終えていないが、もういいだろう。俺の輝かしい今日という日は、翳った。もう終わったのだ。廊下の窓から差しこむ敗北という名の夕陽が、やけに目に染みる……。
 「あ、あの、大高くんちょっと……」
  背後から天野の声が響いた。俺の主観的なものだろうか、妙に湿っぽい雰囲気だ。
 「ん?」
 俺は首だけ振り返った。
 「あ、あのね、実はもう治ったんだ」
 「え?」
 「ずっと安静にしていたら、調子良くなってきたの」
 「そ、そうなんだ」
 俺は体ごと改めて振り返る。野望の残滓が彼女の実在を色濃く沈めていた。
 「ずっと体操着でいて、楽にしていたから戻ったんだと思うよ」
 「そ、そうか。腫れがひいたんだな、それは良かった」
 「っ! あ、えと、まぁ……ね」
 「でもそういうのは治りかけが大切なんだぞ」
 そうなのか? いや、一般論としてはそうだろう。
 「んと……」
 「家に帰ってちゃんと寝とけよ。もちろん仰向けでな」
 そう、仰向けで寝るのが重要だ。うつ伏せで寝て下手に圧迫したら治るものも治らなくなってしまう。よくわからないが。
 そういえば、風呂には入れるんだろうか……。
 「で! でもねっ! あたしも保健委員じゃない? なのに計測してないのがあるのはよくないと思うのね」
 「い、いや、それは別に」
 「例えば、『保健委員のくせに胸囲測ってないんですって』『それってずるくない? 私たちは恥かしい思いして測ったのに』『簡単に測られるような安っぽい胸とは違うのよって? お高くとまってんじゃないわよ』『まったく保健委員の風上にも置けないわよね』って言われちゃう……」
 「そ、そうなのか?」
 お高くって……。女の世界とは噂どおりドロドロだった。
 「保健委員としての沽券に関わるじゃない? いじめられるかもしれないし、それに大高くんの昇進に迷惑かかるかも」
 昇進って……。迷惑というか、そもそも保健委員長になどなるつもりはないが。
 「だからね、測るから、き、胸囲。あたしがんばるから!」
 「そ、そうか。がんばれ」
 「測る」
 「うん」
 「測ろう」
 「うん」
 「測って?」
 「……はい?」
 ――。
 ――――。


 「で、こんなところにいるんだ? なぜ? 俺たちは……」
 倒置法を濫用して当方の困惑ぶりを表現してみる、ここは社会科準備室。ドアに遮られ夕陽のほとんど差しこまない、鍵で閉じられた室内は、あっという間に薄暮の晩年に差しかかっていた。
 「狭くて人があまり通りかからない場所って、ここくらいでしょ」
 「狭くて人があまり通りかからないここで、何するっていうんだ?」
 「だから言ったでしょ、き、胸囲を測るのよ、あたしの……」
 「誰が」
 「大高くんが」
 「な、なぜ!?」
 「だって、しょうがないじゃない。教室に女子生徒いなかったし……」
 「そもそも先生に測ってもらうものだろう、身体計測は」
 「先生は……そう、あれよ……あれ、職員会議」
 「そうだっけか? そんな話は聞いてないが……」
 「風の噂を小耳に挟んだのよ、た、確かよ」
 それは情報の由来からして全然確かではないと思うが。
 「それにしたって誰かいるだろう、他に――」
 「しっ! 誰か来たっ」
 突然天野の手が俺の口を塞いできた。
 「んんっ!」
 湯船に浸かってふやけたような手のひらの感触に、汚してはいけない気がして思わず口を引き締める。鼻の下に当たる彼女の小指がむずむずした。
 「……ような気がした」
 ゆっくりと俺の口から手が離れていく。
 「……おい」
 というかなぜ俺たちはこそこそしなければならない。やましいことなど……。そのとき、俺がさっきまで絶好調に写していた女子身体測定データの集計用紙に手が触れた。
 「とにかく――」
 天野はおもむろにスカートのポケットに手を入れ、中からタバコのケースのようなもの(とはいえ正方形だ)を取り出し、
 「はい、これ」
 俺に手渡した。
 「なに」
 なんだかよくわからないまま受け取ったが、これはメジャーのようだ。
 「なぜポケットからこんなものが……」
 マイメジャーとでもいうのだろうか。もしかしたら彼女は、気になったところは測らずにはいられない習性を有しているのかもしれない。なんだ、さっきのは性別の違いによる価値観の相違で、けっこう俺と気が合いそうじゃないか。
 「いいから、早く測りなさいよ」
 天野はなぜかつっけんどんな口調でそう言い放ち、ぷいっと後ろを向いた。
 「だから、どうして俺が測らなくちゃならないんだよ」
 「しつこいわねー。この期に及んで怖気づくなんて男らしくないわよ」
 怖気づいてないし。そもそもこの期に及んでないし。だいたい男らしさの定義に、女子の胸囲を潔く測れるかどうかなんて基準は存在しないはずだ。たぶん。
 「というか、自分で測れよ。測れるだろ自分の体なんだから」
 まるでヒーローがラストで決める必殺技のように、あるならもっと早く出せよ的正論を俺は突きつけた。言っておいてなんだが惚れ惚れした。なるほど、だからヒーローは必殺技を最後に決めるのを辞められなかったのか。つまりナルシストなのだ。
 「あ、え、んと、えーっとね?」
 「後ろ向いててやるから、見られるのが恥かしいんだろ?」
 「ちがっ、いや、そうなんだけど!」
 どっちだよ。
 「あの、ね。あ! そうそう、む、胸のアレは治ったけど……測るときに両腕を上げるとね、まだ痛むってこと」
 「え?」
 「ほら、腕を上げようとすると、む、胸の横が引っ張られるでしょ。それが、その、痛いのよ」
 「そ、そうだったのか……」
 ただの数値的事実かと思っていたが、胸囲とはこれほどまでに面倒な条件の適合によって成り立っていたのか。奥が深いぞ胸囲。出っ張っているくせに!
 「も、もうっ! 女の子になに恥かしいこと言わせてるのよ、バカ!」
 「す、すまん」
 俺は見直していた。したたかに、晴れやかに彼女のことを。
 俺の保健委員長就任はともかく、保健委員会の名誉のために天野は無理を押してここまで頑張ってくれている。これまでは保健委員に立候補した彼女の真意をはかりかねていたが、今俺は確信する。
 彼女もまた、俺と同じように、一世一代、身体測定に賭けていたのだ。しかも俺のようによこしまな、利己的な野望によってではなく、保健委員会の興隆という純粋な利他的動機に基づいて、保健委員会の天王山ともいえる身体測定の完全なる成功のために己の身すら捧げようとしているのだ。
 なんという神聖さ、なんという美しさ。俺は、オレは、いとかよわき天野のせつなる願いに報いるべく、現世での神の代理人になることを決意したッ。
 「わかった。やるよ……」
 「う、うん、それでいいのよ、それで……」
 天野は頷き、むこうを向く。そして少し腕を上げて左脇にささやかな空間を作った。
 「脇からメジャーを伸ばしてよこして」
 「わかった……ん?」
 「なに? どかした?」
 そのとき、神の思し召しが俺の思考にかすかな疑念をもたらした。
 「……体操着の上から測っていいのか?」
 神は人間の偽りや欺瞞の心をお認めにならなかった。
 そう、体操着をお望みではなかったのだ。
 「ひっ―――――――――――――――!!!」
 天野は、絶句した……。


 「天野?」
 「……」
 よく、大型の上位種に睨まれて体をすくめる下位の小動物を映像で見るが、
 「あの、天野?」
 「……」
 俺の今の状態がまさにそれなのだろうと、
 「天野さん?」
 「……」
 思わざるをえない。理屈じゃない、本能がデンジャラスを告げていた。
 「天野さーん、天野由希子さーん」
 「……っ」
 「ん?」
 「わ、わかった、わかったわよ……」
 「な、何をおわかりになられたんでしょうか」
 人は相手に真から圧倒されると、敬語になってしまうものらしい。
 「脱ぐわよ、脱げばいいんでしょ……って、たくし上げるだけだけど……」
 「はぁ、さようで……っ!」
 瞬時、さらに倍的物凄い形相で天野に睨まれた。「キィ!」って音が聞こえてきそうだ。
 人外がいる、しかも目の前に。こ、怖いよママ……。
 「目隠ししなさいよ。ほら! 早くっ!」
 「は、はいっ! でも目隠しなんてどこに……」
 「んもう! そこにある紙を丸めて目にテープで貼り付ければいいでしょ!」
 「え? あ、そ、それは……」
 天野は、俺がさっきまで書き写していた集計用紙を指差した。そして1秒の猶予すら与えず、ズカズカと机に歩み寄り、掴み取ると、無造作に、無情にも、切り裂いた。
 ――ビリビリビリビリッ
 「あ! あああ……」
 「なに?」
 ――キィ!
 「い、いえ、ナンデモアリマセン……」
 大高秀志の野望は実質的にこのとき潰えたのだと、後世の歴史家はしたり顔で分析するだろう。
 天野は切り口も生々しい半紙を俺の眼前に突き出し、そのまま押しつけた。
 「テープ」
 「は、はい」
 脇にあったテープ台を天野に差し出す。俺はそのとき、古い映画で見た、拳銃屋の店主が客に弾丸を売り渡し、それを客が拳銃に装てんするのを愛想よく眺めていると、おでこの真ん中にズドンと当の弾丸を撃ちこまれてしまうシーンを思い出した。走馬灯のように。
 「これで、よし」
 白い紙なのでわずかにオレンジ色の光を透過していたが、それ以外は確かに何も見えなくなった。鼻の下に当たる紙の切れ端がむずむずした……。
 「さ、これで準備完了ね。さっさと測っちゃいなさいよ」
 ――スルルッ
 衣の擦れる音がかすかに聞こえてきた。ブルマに仕舞いこんであった体操着を引き抜いたのだろうか。
 「あ、ああ、わかったが、目隠しされててはどうにも……」
 メジャーの先を持った手をさまよわせた。
 「こっちも体操着を両手で、その、た、たくし上げてるんだからふさがっているわよ」
 「つか、こっち目隠ししてるんだから上全部脱いでもいいだろう?」
 「エッチ! 嫌よそんなの! なんで身体測定で全部脱がなきゃならないのよ」
 「エッチってお前なあ。こっちは見えてないんだってば」
 「それでもいやなの。あたしが裸でいるところを男子に想像されるだけでも嫌。それも目の前で、最悪だわ」
 その理屈はよくわかんないから。想像するヤツは何があろうと何見てようと想像するから。それに目隠ししといて想像するなというのなら、俺は何をもって現実に対処しろというのだろう。天野のことを柱かドラムカンとでも思えと?
 「あ、今ヘンな想像してるでしょ。ほらやっぱり!」
 「……えっと」
 確かにヘンな想像はしていた。それは間違いない。
 「とにかくっ、メジャーを持った手を伸ばして。あたしが移動して――」
 「それよりもさ。ある程度メジャーを伸ばしといて、地べたに半円を作ってそこに天野が立てばいいじゃないか」
 「ああ、なるほど。それで引き上げればいいのね。頭いいじゃない、さすが学年トップクラスだけのことはあるわ」
 なぜかものすごく褒められてない気がするのは気のせいだろうか……。


 さっそくメジャーをある程度引き伸ばし、両方を持って地面に輪を作るように置いた。
 「もう少し長くしてよ」
 「ああ、わかった」
 こんなものか。
 「もっとよ! 大高くんあたしのことバカにしてるでしょ?」
 「なんだよそれ! じゃ何センチ伸ばせばいいんだよ!」
 「そんなの決まってるでしょ! はちじゅうに……ご? はっ! い、1メートルくらいよ! なに言わすのよバカっ!」
 ――バシッ!
 「痛っつー!」
 ぶったな! オヤジにも殴(略)。
 あー。なんか今の反応で天野の胸囲だけじゃなく腰周りのデータまで取れたような気がするんだが……。もう帰りたいよう。それより腰回りの記入欄あったっけなぁ。
 惰性と心ここにあらずと適当の混合物でメジャーをありったけ伸ばし、地面に放り、いや設置した。
 「もうっ、ほら中に立ったわよ。そのまま上げてちょうだい」
 「……了解」
 地面に付けていた両手を持ち上げる。しゃがみこんでいた上体も一緒に上げていく。
 ――――っ!?
 うぐ、鼻の頭が何か布地に触れたぞ。待て。一旦停止。
 これは、紙で目隠しされた眼前にうすぼんやりと広がる黒っぽさ。素っ気ない布地ごとふんにゃりと沈む柔らかさ、これはもしや……。
 「きゃっ! ちょっと! なにお尻触ってんのよ!」
 「す、すまん、見えなくて……」
 「に、匂いとか嗅がないでよね! このド変態!」
 「事故だから……」
 ……。
 なぜ俺はここまで罵倒されなければならないんだろう。俺が何をした。というか俺は今ここで何をやっている。なにこれ、ああ、涙か。涙がこみあげてきたよ……。
 そういえば俺の野望はどこいった? 今日のために保健委員に立候補した、まさに身体測定のために生きてきたといっても過言ではない、我が人生においてもっとも輝かしき日はどこいった?
 ああ、なにもかもがみな懐かしい……。
 「……ほんと、あたしなにやってるんだろ……。こんなことまでやらせるつもりなんて……」
 というか、変態というのは、男子に胸囲を測らせといて悪態ついてる女子にもいえるのではないだろうか……。
 「あーもうちょっと上。行きすぎ。ん、そんなとこ。そのまま巻尺を締めていって」
 「……了解」
 なんだかUFOキャッチャーの筐体になったみたいだ。景品の人形がレバーに文句言ってる。こりゃおかしいや、あはは……。
 「背中で合わせていって、でも肌触ったら殺すから」
 そんな殺生な。いや殺生なんだが。ああもう!
 ――――っ!?
 ぬわっ、なんだこの感触は。
 蒸気をいっぱい吸った肉まんの表面のような、しっとりとしていて指にまとわりつくこれは、まさかそんなやば……。
 「っくっくっく……」
 喉の奥で笑ってる。すごい、ラスボスの伝統スキルをマスターなさってますよこの人は。
 「ひぃ!」
 驚きのあまりメジャーを持った手を少し引いてしまった。
 「うぁっ、痛っ。ち、ちょっと引っ張らないで!」
 「ごっ、ごめん」


 ……驚いた。
 喉が苦しい、顔が熱い、手が震える。
 紐を通して感じられる際限のないこの弾力は、いったいなんだ。引っ張ったはずなのにまるで手ごたえがなかった。なんなんだこれは。同じ人間とはとても思えない……。
 これが女子の胸囲というものなのか? まるで泡に巻尺を回しているような、正確に測ろうとすると潰してしまいそうで、怖い。こんな怖いことを女子は身体測定で毎回やっていたのか。信じられない……。
 「あ、あまり強くしないで。やさしく、して……」
 「う、うん。……あ、あのな、ごめんな、天野」
 「え? あっと、ううん。こっちも調子乗りすぎちゃったし……ごめん、ね、大高くん」
 「いや、そんなこと……」
 ……
 …………。


 データとは事実であり、事実とは正確であるべきだ。
 だからこそ数値は揺るぎない現実であり、俺のアイデンティティよすがとなっていた。
 しかし、正確であることを求めすぎるばかりに、数値を壊してしまうことになったら。いや、データが形象する物体や、事実が形成する人間そのものを傷つけてしまったとしたら……。
 それはとても怖く、とても悲しいことだ。かけがえのない現実を損なうことだ。
 今、俺はそう思い始めていた。
 そして、なぜか、今目の前の女の子に対して強く、傷つけたくないと思い始めてもいる。この傷つけたくないという気持ちが、いわゆる天野由希子という特定の異性を大切にしたいということなのかどうか、俺にはまだよくわからないが。
 けれど、数値に表せられない俺と彼女の関係みたいなものが、どこにでもあるなんの変哲もない現実であるのなら、そのあやふやでつかみどころがなくて自由に編集したり加工することができないからこそ、人類史上に残る不朽の名作であり続けるに違いないのだと、俺は気づいたのだ。
 俺の名作は、目の前にあるかもしれなかった。目の前といっても、目隠しされているから見えないんだが……。


 「ん。服戻したよ。目隠し外していいわよ」
 俺の両手で輪になっていた巻尺を、天野は持ち上げ、くぐるようにして既に抜け出していた。体操着をブルマに仕舞う音が妙に耳に残る。いまどき体操着をブルマの中に仕舞う”真面目な”女子も珍しいんだがな。
 「あ、ああ。だが両手がふさがっている」
 天野の胸囲を測定し終えたメジャーは俺の両手に握られていた。何があっても離すもんか、天野の胸囲は俺のもんだ。まるで運命によって引き離されようとしている親子の分かち難い情愛のように、俺は両手に力を込めた。
 「もう、世話が焼けるなぁ」
 いや、強引に無茶な目隠しをしたのはお前だから。君が、俺に、世話かけてんのよ。All right?
 天野が俺の顔に貼られたテープを剥がしにかかる。思いがけない瞬間顔を指先でつままれる感じが新鮮だ。
 「痛っ。髪の毛抜くなよ」
 「しょうがないじゃない。テープにくっついてるんだから」
 くっつけたのはお前だろ。
 「ハサミで切り取る?」
 「……いや、遠慮しとく」
 いろんな意味であらゆる可能性がデンジャラスだ。
 ささやかなすったもんだの末、俺の顔に貼りつけられていた栄光の残骸は取り外された。目隠しされている間にすっかり暗くなってしまっていた、狭い社会科準備室があらわになった。こんなに狭かっただろうか。視野がまだ惚けているようだ。
 「……見えない」
 「何が? あたしの顔?」
 「違う、あたしの胸囲」
 「ばっ、バカ!」
 天野は慌てて"自分の"胸を腕で隠した。いや、少なくとも今はそっちのほうはどうでもいいから。
 「ど、どうでもいいですって?」
 「勝手に俺の地の文読んでないで、電気つけろよ」
 「む。さっきからやけに命令口調ね」
 「ひと仕事終えたんだ、それくらい許されてもいいだろう」
 「なにがひと仕事よ、いやらしい」
 そう言いながらも天野は壁際まで歩き、室内灯のスイッチを入れた。胸囲を俺に知られるのを教室では嫌がっていたのに、電気つければ胸囲が白色の下に晒されるというのに、案外素直だな。
 「さあ、あたしの胸囲はいくつかな? かな?」
 それどころかわくわくしてるし。いったいどうしたというんだ? 開き直りか。少し、ほんの少しつまらん。恥らえ、タテマエとはいえお前は乙女なんだから。
 まあいい。辛酸を嘗め尽くし気力の全てを注ぎ込んでようやく手にしたこの感奮。天野の胸囲、よく考えると既にどうでもよくなっているのだが、やっぱりよく考えない。さーて、い・く・つ・か・なー?


 ―
 ――9
 ―――93
 ―――――93.5cm
 ―――――――えーっと、
 ――――――――――はい? 


 「にこにこ♪」
 視線を戻すとそこには満面の笑みを浮かべる天野がいた。
 「にこにこ♪」
 顎をあげて俺のことを見上げる彼女は、すごく嬉しそうだ。
 「にこにこ♪」
 満面を無視して視線を下げ、天野の胸を見た。
 「にこにこ♪」
 きょう‐い〔‐ヰ〕【胸囲】胸まわりの寸法。男子は乳首のすぐ下で、女子は乳房隆起の上端で測る。
 「ふっ」
 「ふっ?」
 「ふつ」
 「フツ族?」
 「ふつふつふつふつ」
 「沸騰してるのかな?」
 「ふっ、ふざっ、ふざふざふざけるななななななななななななななななぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
 俺は魂の雄叫びもそこそこに、天野の両胸をがっしと鷲掴んだ。


 確かに俺のこれまでの人生、女子の胸を掴むことはおろか触ったことすらありはしないさ。揉んでも、吸っても、こねてもかじったりも(略)いない。
 だがな、
 だけどよ、
 親指と人差し指に念のため中指を添えるだけですっぽり収まる乳房で胸囲93.5cmはありえないだろうッッ!!


 「遅かったわね、保健委員さん」
 提出時間から30分ほど過ぎ、俺はクラスの身体測定表(個人のものと集計したもの)を保健委員会の顧問の先生、明野先生に提出しに行った。タバコと店屋物の中華料理の匂いが染みついたどこにでもある職員室だ。
 「……すいません」
 俺は心持ち(否見るからに)憮然と謝り、明野先生に物を手渡した。
 「あれ? 頬がずいぶん赤いじゃないの? どうしたの?」
 「……明野先生があまりにもお美しいので。赤面してしまって」
 「そういう台詞はもっと気持ちを込めて言うものよ。それに血がにじんでるじゃない。本当に大丈夫なの?」
 「……血の一滴に至るまで明野先生を愛されたいからです。ワイエムシーエーと書いてラブです」
 「はぁ? まぁいいわ。身体測定の用紙は預かります」
 「……はい。助かります」
 「助かる?」
 俺のリアクションに疑問を抱いたのか、明野先生は渡された用紙をペラペラとめくり始めた。
 「……それでは、俺、失礼します」
 軽くお辞儀をして、職員室のドアへ向かう。とにかく今日は帰りたい。家に帰ってアホみたいに眠りたい気分だった。忘れたい、何もかも。もちろん思いきりうつぶせで。
 「……あれ? ちょっと待って大高くん」
 「……はい? なんでしょうか」
 既に何もかもが気だるいが、相手は先生だ。失礼のないようにちゃんと振り返った。
 「この、女子の集計用紙、なに?」
 「え? 何と言われても、そのまんまですが。ああ、何人かの女子の胸囲が抜けてますが、それは――」
 「胸囲って。胸囲測定なんてもう何年も前に廃止になったわよ」
 「……俳誌?」
 「胸囲測定をテーマに俳句詠んでどーするのよ」
 いや、案外名句をひねれそうな気がするが。
 「廃止よ廃止。去年も今年もやってないの。つまり」
 「つまり?」
 「今日もやってないってこと」
 「……ふっ」
 母さん、俺を産んでくれてどうもありがとう。
 「しっかし、おっかしいわねーこれ。胸囲測定をまだやってた頃の用紙に名前だけ今年の子入れて。記入してある胸囲は大高くんが? くくくっ、予測して? まさか本人に聞いて回ったわけじゃないでしょう?」
 「……ふふっ」
 ひとりの女の子に対してこんなにも、強く、激しい、
 「それに極めつけは、ぷぷぷ、この天野さんの胸囲っ。きゅ、きゅきゅ93.5cmですって!あははははーおっかしぃ。そんなに大きいわけないじゃなーい。青年誌のグラビアアイドルかってーの。夢見すぎ、妄想しすぎ。現実を見ろっての」
 「……ふふふっ」
 憎しみを抱くことができるだなんて、思ってもみませんでしたよ。
 「でもまあ、あれだよね、しょうがないよね男の子だもん。『恋は盲目』っていうものねっ! ぎゃっははははーっ! ひぃぃ、お腹痛ぁいぃー! くははははーっ!」
 コロス。ぜってえコロス……。


 「待てコラっ!! 天野ッ! ぜぇぜぇ、ちょっと、待てェー!!」
 下校時間をとうに過ぎ、夕闇を静かに抱き、日中のほとぼりをゆるりと冷やそうとする校舎を、
 「待ってーといっわれてぇー、待っつ保健委っ員がぁー、どっこにぃーいるってのぅよー。こっのー、エっロ保健委っ員がーっ!!」
 妙な節をつけた歌を歌いながら、踊るように、申し訳なくなるくらい乳房を”揺らさず”廊下を華麗に走る女の子がひとり、
 「ふ、ふざけるなぁー! こ、このペテン師がぁぁぁぁ! ぜぇはぁぜぇ、きゅ、93.5cmだなんて大嘘つきやがってぇぇぇ!! ぜぇぜぇ、ぜってえ許さねぇからなぁーっ!!」
 息を切らして走る、足取りもおぼつかない、されど髪を振り乱し鬼のような形相の男の子がひとり。
 「せっくはらー大魔っ神ぃんー、せ、責任取ってよねー!」
 「お、俺の純情を、ぜぇぜぇ、ももももて遊びやがってぇ! ぜぇはぁ、そ、そっちこそー、責任取れぇぇー!!」
 女の子のスカートのポケットから巻尺がこぼれおちました。
 男の子が勢いのまま蹴り上げます。
 メジャーの先が窓の鍵にひっかかり、尺が勢いで引き伸ばされました。すると40cmと51.5cmの間が、切り取られでもしたのかなくなっていて、しかし丁寧に縫いつけてありました。
 とはいえ、そんな”使いものにならない”巻尺とはあまり関係なく、ふたりはいつまでも、飽きもせず騒々しく追いかけ回し、追いかけ回されるのでした。


 おわり。