自由という服従

自由という服従 (光文社新書)

自由という服従 (光文社新書)

自由であるはずの人々がむしろ積極的に服従しているという現象を、いくつかの事例を参照して論じていますね。
とはいえ、トルシエ監督下における日本代表選手の選抜とか、OLのサボタージュとか、「自由恋愛市場」とか、建築労働者の世界とか、とりあげた事例とその分析が、少なくとも著者よりは現実を生きている読者にとってみれば失笑的なまでに表層的で、ふっと吹いたら消しゴムのカスと一緒に飛び散ってしまいそうなくらい机上的な論であることは、AMAZONのカスタマーレビューに書いてある通りです。
「自由恋愛市場」だなんてうさんくさい概念持ち出す前に自分の恋愛経験を元に書け、岸さんを喫茶店に呼びつけて話を聞く前に貴方が土木作業員として現場に潜り込め、と言いたくなります。
ただ、自由であるからこそ服従してしまうという指摘自体は興味深く、"エンディング"は結構感銘的で、論としては薄っぺらいけれど分析した現象に対してちゃんと「どうしたらいいか」というある意味突拍子もないとも言える"救い"を述べていて、社会学の本としてはイマイチだけれど一般書としてはそう捨てたものでもないんじゃないかな(というかこの本は一般書です)。
僕はこの本を読んで、自己実現や個性尊重が重視される風潮で「好きなように生きなさい」(自由)と言われて育った学生が自己分析シート付就活必勝本(服従)買い漁っているような現実を思い浮かべました。
社会が教育に均質の能力を持った労働者を求めていた時代、その均質性から外れた人はその社会を破壊する方向に向かうしかなくて、画一化された教育システムが実は社会の不安定要因を排出していたのに対し。さまざまな個性を受け入れようと掲げている社会は、教育から落ちこぼれた人たちを「フリーター」や「ニート」と命名して社会の底辺のうちに囲い込み、「対策を講じています」という"ポーズ"を示すことで社会の不安定化・破損を予防し、本当は能力の高いエリートを摘み上げるための方便にすぎないのに、お題目を信じた学生たちを必死に「自己実現」や「個性発揮」という幻影にしがみつかせることで、社会システムへと強固にあまねく従属させ盤石なものにしていく。
自己実現や個性を発揮するために努力するというのはある意味矛盾で、自分が生きていくことが自己実現だし、自分であることが個性なんだと声高に主張したところでそれはただの妄言なんだろうなあ。

自分が好きになった人に、「好きでない」といわれること、あるいはもっと厳しく「嫌い」といわれる(のは)「もっとも自分の存在意義を否定されたくない人に自分の存在意義を否定されてしまう」ことを意味するでしょう。その人の判断を否定しようとすれば、今度はその人を好きになった自分を否定せざるを得ないのですから、結局は自分で自分の存在を否定してしまったようなものです。
(略)自分が(異性を)支配しているにしても、あるいは支配されているにしても、そうした関係から開放されるためには、他者との関係の中で自分の存在価値が他者によって否定されうる、しかも自分はそのことを積極的に受け入れなければならない、こうした事実を認めることが一人ひとりに必要とされるのです。

自分(プレイヤー)の存在意義を無条件で全肯定してもらうための装置がギャルゲーであるとして、どのギャルゲーをプレイするかはプレイヤーの自由、気に入ったギャルゲーをインストールして起動してマウス動かしたりエンターキー押したりして、操作するという形でヒロインたちと恋愛と目と耳に届く全てのパッケージを全く支配しているのは僕らプレイヤー自身に他ならないけれども。僕らがギャルゲーに支配されているというのはいまさら指摘する必要もないくらい歴然とした事実で。
自由という服従
ギャルゲーの存在価値がプレイヤーの存在意義を無条件で全肯定することである限り、ギャルゲーはプレイヤーを否定しないし、プレイヤーの人格は傷つかないからギャルゲーの支配を緩めない。そしてその関係に無自覚であろうとなかろうと、僕らは喜んで従属されていくんでしょうね。自由だからこそ、開放されているからこそ、むしろ僕らはそうなのだと思います。(4/100)