土曜日の朝はなんというか、貴重です。これから仕事に行くんだ自分と、根拠なきお休み雰囲気とのお茶目な食い違い、蒸し暑くなる手前の奇妙に清々しい避暑地感が、溌剌と慰めてくれている感じといえばいいでしょうか。誰をって、僕を…。
何事もなかったかのように平常営業の自販機に、ほのぼのと親近感を覚えてしまいます。1000円札は使えなかったりするけどね。

帰りに、「コンピュータ・ゲームのデザインと物語についての研究会 第三回」(GLOCOM)という研究会に参加してきました。
http://www.glocom.ac.jp/j/news/index.html
「プレイヤーという存在― プレイヤーキャラクター / プレイヤー圏 / ゲームからの逸脱 ―」という表題に純粋に興味を覚えて足を運んでみましたが(遅刻したけど)、お二方による発表会(プレゼンテーション)というスタイルのそれは、正直あまり僕の関心と合致するものではありませんでした。
機会があれば何か、書いてみるかもしれませんが、とりあえず「エースコンバット4」はプレイしてみようかな。
一般的なゲーム論・学術的な視点や見識を、無理矢理コンピューターゲームの現場に応用してみましたというような、ゲーム談義に毛が生えたようなトークの雰囲気は、タメになるようで実はあまり意味がない。「プレイヤーという存在」と銘打ったにしては、プレイヤー個々人(つまり僕ら)の視点・心理的な変化を観測する意志がすっぽり抜け落ち、「(たいてい)こうなるものだろう」という巧妙な不確実性(推測)で論を進めていることのあやうさを、彼らはもっと自覚したほうがいいように思います。
「プレイヤーという存在」(プレイヤーキャラクターとの齟齬)というテーマが明け透けに議論されている恋愛ゲームへの突っ込みは皆無だったし、「それがどうした」(普遍化)の作業はおざなりで、プレイヤー向けゲームデザイン論の範疇を脱するものではありませんでした。プレイヤーという存在は、ゲームデザインであるより前に、人間というありようそのものであるだろうに。
ひとつの演出論として括られてしまう程度のプレイヤーという存在は、どれだけ迫真のドラマシーンだろうと、尿意を催せばたやすく中断されてしかるべき価値しか持ち得ないでしょう。「ROOMMATE〜井上涼子〜」のように、登校前にセガサターンを起動して涼子ちゃんに挨拶しなければ済まない、帰宅して(1時間おきに)起動して涼子ちゃんを探さずにはいられないといった、自分のリアルの生活がゲームというルールに支配されている(従属する)ことを積極的に選び取ったとき、そのときの自らの(ゲームに対する)ありようへの振り返りのなかで、「プレイヤーという存在」の本質が浮かび上がってくるのではないかと思うのです。
個人的な体験・視点を貪欲に普遍化していく学術的なアドベンチャーを、今回個人的には期待していたんですが。学者さん的な存在は妙に、自分の体験を元に論を進めるのに恥じらいを覚えるようですね。ゲームはプレイしなければ価値をなさず、プレイは個人的な体験に他ならないのだから、臆することなく個人の体験・感性を語ればいいのにね。