携帯電話のAUが、さかんに「無期限繰り越し」とか言ってるけれど、僕は今もきっとこれからも、月1000円ある無料通話分の1割すら使わないだろうから。1回電話をするだけで、貧困に苦しむ世界の子どもたちに伝染病予防の注射をプレゼントするというような、慈善活動にせめて寄付することができたらいいのにと、常々思っています。
私用で携帯電話を使ったのは、たしか、5月に先輩と焼肉を食べに行くとき連絡を取り合ったくらいじゃなかろうか。日本が世界に誇る「もったいない」思想に鑑みても、繰り越すだけじゃ駄目だと思います。問題を将来に先送りするのもよくありません。
って、自分でダイヤルして寄付すればいいのだけれど…。そうするべきなんだろうけど…。

今夜、久しぶりに月を見た気がします。せっかくだし、サテライトキャノンでも撃っとこうかな。

夏休みで電車に女子中高生の制服成分が欠乏していると先日嘆いてみたけれど、何をおっしゃるか月森さんよ。街中を見回してみたまえ、朝から暇を持て余している幼女が溢れているではないですか。お前の目は節穴でぃすかぃね。
通勤途上、水着袋を持って横断歩道を渡っている小学低学年の女の子とすれ違うと、むわっと、ふらっと、通勤拒否して市営プールの臨時排水溝管理ボランティアに名乗り上げたくなります。貴方もなりませんか? そうでしょう、とりあえず尾行しとこうかなと思いますよねえ。

先日伺ったRGN03の中で、僕が興味を持ったテーマの一つに、「メタルギアソリッド」のパッケージの裏の話があります。
コントローラを通して、いかに操作するかという技術論のみに意識を向かせることで、プレイヤーがゲームに気安く集中できる安定した関係性。それを敢えて、コントローラ以外の存在(現実)にプレイヤーの意識を逸らせることで、反作用的にゲームプレイという磁場(自身の位置づけ)そのものを揺るがすことの本質は、ゲーム内登場キャラクターや、システムそのものが、プレイヤーに直接問いかける、意向を請うている(かのようにプログラム的にでっちあげてある)メタゲーと呼ばれるものと、同じなのではないでしょうか。
ドリームキャストの「サクラ大戦」シリーズで、大神一郎宛に携帯端末がかかるとビジュアルメモリが鳴ったりするのも、似た揺らぎをプレイヤーにもたらすものでした。まるで、旧来式のゲーム-プレイヤー関係の、外側から直接僕自身に繋がろうとしてくるような、侵入してくるかのようなこそばゆい違和感。逆に言えば、ゲームの主人公を外側から操っていたはずの僕が、巧妙に内側へ介入"していることにさせられ"、ある演出的意図に基づき、ゲーム内容と一次元的に関わりあっていた事実を告知されるといった"へんちくりん"。
そう面倒な仕組みを弄さずとも、ただ、コントローラの右ボタンを押してもキャラクターが右に動かない、機器の故障ではなく意図的にプレイヤーの意思に反抗するだけで、メタゲーでいうほどの"ゆらぎ"は得られるはずです。疑いようがなくプレイヤー=パイロットであった一人称視点の3Dシューティングゲームで、あるシーンや、特定の敵機にターゲットを合わせて射撃ボタンを押しても反応しない、他のシーンや敵機相手では普通に撃てるのにどうして? という状況を作り出せば、プレイヤーに生じるゆらぎは、メタゲーのそれと同質でしょう。「ポートピア連続殺人事件」の真骨頂はまさにそれでしたよね。
ポートピア連続殺人事件」は、そういったゲームとしてのゆらぎを、ミステリーとしての肝に連動させたところが名作と呼ばれるゆえんだけれど、ゲーム(システム)としてゆらぎを現出させてしまうと、物語としては破綻し再起不能になってしまうという弊害があります。それは(主観的に言えば)、「Ever17 -the out of infinity-」が陥った"救いがたいくだらなさ"であり、「EVE the lost one」を信奉する理由でもあります。RGN03でも言及があったように、壊される手段と機会(自爆スイッチ)を予め組み込んだシステムとは、むしろ、スキーで最初に習うのは転び方であるように、案外、システムの完成度と優位性をひけらかすための売名行為なのではないかと思ったりもします。
ゆらいだ物語が成立しづらいのを逆手にとって、ループシステムの作品(物語)にメタゲー的要素を持つものが比較的多いのは、それが元々壊れている"システム"を、エンドレス(繰り返す)ことで再構築していく、元々壊れている"物語"を、ループ(繰り返す)ことで再構成していく性質を掲げているからです。
壊れている、というより不完全であるシステムと物語を、プレイヤーはさらに壊しつくし、粉々にした上で伝家の想像力をもちだし、一貫性のある完成度の高いシステムとして、優れて感動的な物語として評価し、自発的に"意味(価値)を付与する"ことを要請しているわけです。誰が偉いかといえば、当然制作会社でもクリエイターでもなく、作品に心酔し褒め称えるプレイヤーに決まっています。
つまるところ、オタクという種族は、多種族が自惚れるところを、敢えて反転し自虐してみせるのが特徴であり、その自虐とはぶっちゃけ、メタゲーでいうところの"ゆらぎ"。「自身は何者なのか」という青臭いテーゼをいつまでも引きずって、そのことを自虐的に投影したシステムこそが、プレイヤーと主人公(PC)という関係性を根幹にしたゲームなのです。僕らは自分の正体について思い悩むのと同じベクトルで、ゲームにおけるプレイヤーとPCの関係性に意識を向け、降って沸いたようなそのゆらぎに自虐的な悦びを見出してしまう。
それはだから、人間は、眠っているときも自分自身であり続けていることに不安を抱かないように、プレイヤーは、ゲームの途中でトイレに行くとしても便器に座りながら、ヒロインの肢体を思い浮かべて"困ったこと"になった自分に苦笑することにいっさい不都合を感じないわけです。
「自分がここにいる」
この事実をゲームを通して観念させてくれるこの機構を、主観的にいえば誰もがやぶさかではありません。それがゆらぎであろうが、登場人物に対する共感や感情移入だろうが、気に食わない・生理的嫌悪感を覚える主人公だろうが、根本的には差異がない。「そう思っている」「感じている」自分がいるということは、疑いようがないからです。ゲームに熱中しすぎると、ごく稀に世界が急激に遠のいて、現実が急速に萎んでいくような感覚を味わったことがありませんか。
閉じてゆくゲーム磁場のなかで、プレイヤーがしがみつくように体感しているのは、ゲーム登場人物でも主人公でもなく、プレイヤー自身の存在なのです。自分の汗のじとじと感、心臓の拍動と脈拍が妙に生々しい。それこそ、まぎれもなく、
「自分であることを証明する自分」(メタ自分)。