夏コミ後恒例の宴会で、不破さんとにしかぜさんに「聴かなきゃダメですよ」と言われ、ましてやにしかぜさんには過去の放送分までメールで頂いてしまった「うたわれるものらじお」。こりゃもう聴くしかないという段階にさせられ(?)ました。
しかし、ありがとうございます。とりあえず通勤時間に聞いてみますよ(でも新聞が読めなくなりそう…)。ダウンロードの仕方もわかったし、他にもお勧めの番組があったら教えてくださいねー。
ネットに住まわっていると、自分から何もしなくても、よい作品・話題の音楽などの情報が入ってきて、情報だけでなく実際に勧めてくれる方が現れるのは、本当に幸いなことですね。昔の話ですけど、「久遠の絆」(PS無印版)もそうやってネットで勧められて、どっぷりハマってしまった作品でした。
当時は僕もゲーム系の掲示板を運営していて、そこでプッシュされたのでした。懐かしいなあ。

ギャラクシーエンジェル Moonlit Lovers」を買おうとしたら、新品ではほぼ購入不可能らしく、中古でもなかなか見つかりませんでした(5500円で1本見つけたけれど、ちょっと高いのでパス)。プレイできるのは当分先になりそうです。というより廉価版待ちかなあ。
せっかくPS2本体買ったので何か専用ゲームを、ということで今頃「To Heart 2」を取り出してきて、ルーシーシナリオをクリア。ますますもって、「To Heart」は僕の肌に合わないなと実感するのでありました。
電波が入っていたり壊れていたりと、かくしゃくと現実を反則するヒロインたちの個性と、それらに翻弄され流動する主人公のあってなき思想の、"馴れ合い"を、ただ恋愛っぽく合成しているだけというような作風には、まったく投げやりになってしまいます。ページ送りすることについて、読みくだすことについて。
たとえば戦闘機に純白の翼が生えているという情景を想像してみてください。その戦闘機は飛行性能や戦闘力が格段にアップしてそうですし、見た目はとても華やかでありえないくらい美しい。けれど、「どうしてそうなったのか?」と考えてしまうと、それは途端におかしい姿・信じがたいものに感じられるでしょう。
僕は、恋愛というものをテキストアドベンチャーとして描かれるとき、「どうしてそうなったのか?」ということをきちんと描写しなければいけないと思うんです。翼がついていることによる能力向上や、それ自体の美しさによって、恋愛の機微(過程)を代替してはならないんだと思うんですね。
ヒロインたちの超個性や突拍子のない言動、きらびやかでど派手な存在感によって主人公のありようや思想ともども、恋愛という着色料でベタベタに塗りたくられているというような印象が、僕には進んで受け入れられない理由なんだと思います。
彼と彼女たちの恋愛は、理想的であるというより理念的で、幻想的であるというより非現実的、正義感溢れているというより幼稚でしかなく。狭い世界と狭隘な視界・浅慮な思想のもと、上擦った人生論などに振り回されつつ、僕は誰に何を感じ取ったらいいのかわからず、路頭に迷ってしまう。世界がしどろもどろ。
まるでファストフードのような恋愛。ただ萌えればいい(空腹を満たせばいい)というのなら、僕はそれを何もギャルゲーで得ようとは思わない。恋愛で萌えることはあったとしても、萌えることが恋愛ではないはずです。ヒロインの奇天烈な言動に驚いたり面食らったりしたのを、あとになって「ああ、そういうことか」とか「彼女らしいな」とか思い改める機会を与えられることが、恋愛の道義であるかのように説明されるのは、僕にはどうにも胡散臭い(まるで朝の占いのよう。1日もあればなにかしら当たるもの)。
平等の選択機会と、高等の教育によって人は皆が個性的に成長し、各々の成功を手に入れるという社会システムの大いなる矛盾に似せて、普通の(平均的な)主人公はヒロインたちの度を越えた個性的っぷりに惹かれ、恋愛を成就させていく。果たしてそこに人格はあるのでしょうか。
どうしても描くことのできない何かを、その事実を恥かしげに覆い隠しているかのように、彼女には電波が入り、彼女の性格は破綻しているとして。それはちょっぴり"見ていられない"光景なのかもしれませんね。