隣のSHOP99でよく買っていた、コーラが最近赤くなってしまって、とっても不味いのでやむなくビールを購入してしまう日々。だから酒量が増え、休肝日が消え、あまり良くない肝臓がさらに悪化してしまっているだろうから、もうどうしてくれるんだよう!

大好きです、うたわれるものらじお。(途中経過)
三宅華也かわいいよ三宅華也。言葉にできないビープ音(唸り声)に身悶えました。「二次元が初恋じゃだめですか!?」 OKOK。リアルだって触らなければだいたい二次元だしね。
大原さやかはどっかいけ。ナニが「さぁやと呼んで」だっつの、おこがましすぎ。誰だか知らんが調子乗りすぎだ。専門学校行って簿記でも習ってろ。

多文化理解という概念は、いま最先端のキャッチコピーらしくよく見かけるし、確かにそれが多くの国と人々の間で実現すれば世界はより平和に近づく気はします。けれど、誰だって旅行に行って楽しい思いや、興味を満足させたとしても帰ってくれば、「自分の家が一番ね」と思ってしまうもの。多くの外国の文化はそれとして認めつつも、やはり自国の文化が一番だと感じてしまうのはきっと、どの国のどの人々も同じ、やむをえない本音なんでしょう。何しろ自分が育った、自分を育てた母なる文化なのですから。
実際問題、互いに厳然と存在する受け入れられない・認められない文化(習俗)を、そのうえで理解することを全方位で目指さなければならない多文化理解という概念は、感覚的な領域も絡むことからやっぱり難しいといわざるを得ません。僕の例で言えば、口をクチャクチャさせてモノを食べる友達は認められても、お嫁さんには迎えられません。最終的には理解できない部分があることをもみくちゃにする、つまり理屈じゃないわけです。
文化というものは、その国の人々の美意識の"粋(すい)"のようなものだから、好き嫌いが激しくて当然だし、そうであればこそ文化は鮮やかに際立つ。なんでもありの文化とは、きっとなんにもない文化なのだと思います。口をクチャクチャさせようがさせまいがどうでもいい、気にしないという感性は、それ自体立派なことだけれど、「食べるときの口の開閉」という文化(?)を喪失しているともいえるのです。
確固と独立した文化を抱えた者同士、感情的(生理的)にどうしてもわかり合えないのなら、お互い交流することを避けることが次善の方法。けれど主義主張というヤツは、疎遠なお隣さんほどの距離すら認められないのでしょう。多文化理解という思想には、そもそも感覚的なモノを、理屈で考えてどうにかしようという作為的な匂いと、高圧的な態度、そしてあまり好ましくない結末を予感させます。
世界は広く、その広さを肌で感じられる(体験できる)人たちは、きっとお金持ち。将来にわたって自国の文化しか知る・触れることのできないほとんどの人々は、だからこそ自国の文化を大切に思い、貴いものとして譲らない。そういう層(心の持ちよう)が大部分を占めるからこそ、文化は文化として揺るぎません。文化とは共同の美意識であり、個人のアイデンティティ。世界が広いというのは客観の話、主観的な世界は案外狭くて、狭いからこそ落ち着ける臆病さと、譲らないから他を知らなくて当たり前という矜持が、余所行きの精神性を構成しているように思います。
僕の世界には、小田急線の急行一区間の街並みですら大きすぎる、スケールの小さい男ですから。小山力也さんがうたわれるものらじおで話していたけれど、世界が狭まっていると安心するという感懐にはものすごい共感を覚えます。とはいえ、この狭まりが度を越えると、偏狭になり、ナショナリズムへと変質し暴走しかねないのだとしたら、僕らは安心するために暴走する危険性を秘めているわけで、なんだかおかしいですよね。
だからどうだというわけではないけれど、互いの文化を理解しようよという八方美人系の当たり障りない態度よりも、いっそ鑑賞すべき芸術・伝統として、互いが互いの文化を保護し保全に取り組むような学芸員的関係を目指したほうが、案外しっくりいくのではないかと思ったりします。何かの冊子で読んだ「農業は産業ではなく、文化である」という発想。国際的な競争に晒すのではなくむしろ国の重要文化財として農業を捉え、農業従事者を学芸員として国家公務員にするべきだというはっちゃけた提案は、眉唾モノだけれど、その発想自体はけっこう理想的ではないかなあと思ったりするのでした。
仕事で付き合うのは勘弁、だけど飲み屋で付き合う分には結構楽しいかもしれないという種類の人は、どこの世界にも一定数存在するものですが。そんな飲み屋での付き合い方、相手のリアクションを堪能できる居心地とは、品の悪い芸術品をニタニタしながら鑑賞しているようなもの。今の世界とスムーズに付き合うためには、あまり素面でいないほうがいいのかもしれませんよね。というより、相手に(自分が)素面だと悟られない程度のフランクさ・いい加減さが世界にほどよく蔓延すれば、僕はこうも毎日おどおどしなくて済むのかしらね。