「かわいい」論

「かわいい」論 (ちくま新書)

「かわいい」論 (ちくま新書)

「かわいい」という言葉に与する社会的・心理的諸相をカテゴライズして分析する、「かわいい」論総論とでもいうべきでしょうか。とはいえおたく・美少女文化についてはただの現地レポートに過ぎないのが残念、このジャンルこそ「かわいい」にとって欠かすことのできない"なれの果て"だと思うんですけどね。
「かわいい」という意味が形容する内容として、「責任能力を欠落させた存在であるためであり、厄介者、お荷物扱いされる」「根底にあるのは心の躍動であり、それが親しげで好奇心をそそり、かつどこかしら未完成」「支配したいという欲求と同義であり、対象を自分より下の、劣等な存在と見なすことにも通じている」と論じ、生命力の溢れた好ましさだが未完成でお荷物的であり誰かに保護されなければならないという、支配されることを積極的に求めているものとして、同意なく無邪気に僕らの胸元へ飛び込んでくる感性であるということができるでしょう。
「他人を見下す若者たち」で示された、自我を安定させるために仮想的有能感に基づいて見ず知らずの他人を見下す際も、「感じない男」で示された、自己を肯定するために少女の体を支配し豊かな快楽を獲得する際にも、対象となる他人や少女を「かわいい」と意味づけすることによって、なけなしの道徳心から摩擦を起こす(かもしれない)罪悪感を軽減してくれる面もあるでしょう。というよりも、「捨て猫がかわいそうで「かわいい」のではない。それを見つめる人間のまなざしがかわいそうで、すべてを「かわいい」の色調に染めあげてしまう力に満ちているのである」というように、少女を「かわいい」存在として眺めているそのまなざし自体が、その所有者をして既に少女たらしめているのだと論じることもできるわけです。
少女を「かわいい」あるいは二次元美少女を萌えと感じている自分自身が、実は精神的には彼女たちに劣らず「かわいい」あるいは萌える存在であって、この精神に見合った肉体(とその快楽)を手に入れるために、なんとなくもうちょっとで手に入りそうな幻想を抱かせるために、「ロリコンは社会悪だ」と侮蔑するメディアのサブリミナルは視聴者の小児愛を煽り、悶々と増大した消費欲を資本主義がかっさらう、「萌え経済学」が報告する多様な趣味(幻想)に対応したおたく産業はますます裾野を広げている。
ところで、本書を読んでいて思いついたことなんですが。「萌える男」で本田透さんが「ONE〜輝く季節へ〜」の「えいえんの世界」を二次元の世界と解釈しているけれども、そもそもゲームプレイ自体が「体現している永遠の静止」つまり「疎外された時間の体験」であり、ディスプレイ上で「かわいい」美少女ヒロインたちと作られた日常的恋愛を楽しんでいる時間(二次元)こそが「えいえんの世界」なのではないでしょうか。妹のいる世界とは、むしろディスプレイの「外側で休みなく流れている時間の運動」(高校生となった主人公→プレイしている本人へも)を「強調」させるために存在し、兄を待ちわびているいつまでも幼い姿のままである妹とは、いつまでも自立できず家族と社会の中で時間を停止させたままである現実(三次元)プレイヤーの換喩であって、ふたつ(みっつ?)の世界は交錯し反転した構造をとっているような気がしてきました。
なぜ主人公は高校生になるまでえいえんの世界に旅立たなかったのか。それはこの年齢になりヒロインたちとの恋愛を通してようやく自我に目覚め、アイデンティティの危機を認識し、自立心が芽生えたからに他なりません。しかし彼女たちが愛おしいとはいえ二次元存在、恩義があるとはいえ理想化された恋愛。彼は戻ってくるべきではなかった。でも戻ってきてしまった。だから僕の時間は動き出すことなく、今もこうしてエロゲーをプレイしているわけです。しようがないですね。
さて、話が脱線してしまいました。本稿は「かわいい」の社会的効能についても述べられています。「自体を収拾し、当事者を保護するといった、ある意味での補償作用をもっている」(=ドジっ子)「幼稚であること、無害であることを通して隣人の警戒を解き、互いにその幼稚さを共有しあいながら統合された集団を組織してゆく」と、社会や対人関係を円滑に機能させる効果を説き、「女性として「かわいい」媚態を戦略とすることが自分に有利に働くことに、充分に気づいている」ことからも、そのあまりの蔓延ぶりに反発や嫌悪を覚える向きはあるものの、「かわいい」という感性が人々に好意的に受け止められ、積極的に活用されている現実を照らしだします。
しかし、子殺しやペット遺棄の例を持ち出し、「「かわいい」と信じきっていた赤ん坊や動物が、実は自分が無邪気に抱いていた人間という観念を危うくさせる他者であるという事態に直面してパニック状態に陥ってしまう」危険性、先に述べたように問題の本質(他人を見下す・少女の性を手に入れる)を「かわいい」は隠蔽してしまう、その紙一重な性質を筆者は暴き立て、警告します。「現実から隔絶された同義反復の微睡みのなかで、しだいに輪郭を喪ってゆく」世界、「観念の薄膜」によって現実に直面することを心理的・歴史的に巧妙に避けてきた我々の前に、「いっせいに地上に回帰し、その現前に誇らしげに提示する」おぞましさを読者に予感させて、論は締めくくられています。
「かわいい」は老人の人生を隠蔽し、「かわいい」は子どもの人格を隠蔽し、「かわいい」はE.T.のグロテスクさを隠蔽し、「かわいい」はオタク文化のえげつなさを隠蔽し、「かわいい」は凄惨な歴史を隠蔽します。僕らは「かわいい」を乱用することによって、面倒な現実や思想の大部分をうっちゃりひたすら自分のことしか見ていなかった。「かわいい」とはもはや「あれ」とか「それ」と同義の指示代名詞に過ぎず、そして「あれ」と指差してもその指を見つめてくる猫よろしく、僕らは「かわいい」と言っている自分のことを見て欲しいのです。
僕らが対象者(物)を「かわいい」と言ったとき、その1/3はそう感じる自分自身を「かわいい」と思っていて、1/3は対象者(物)をコントロール(支配)し所有しようともくろんでいて、残り1/3は歴史を無効化し自己中心世界の永遠性に酔っているんだということを、肝に銘じたとところで何がどう変わるという訳でもないんでしょうがねえ。