ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団

ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団 ハリー・ポッターシリーズ第五巻 上下巻2冊セット(5)

ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団 ハリー・ポッターシリーズ第五巻 上下巻2冊セット(5)

評論家で劇作家でもあった福田恒存は、「悪の自覚なくして、どうして個性がありうるか」と問い、死という限定性を認識した人間が、絶対者によってつかさどられた世界において「部分としての役割」を自覚的に演ずることを「生の本質」と説いた。また、戦後の日本は「神が無くなってしまったこと」だけではなく、「神の不在に気づかなくなってしまったということ」にこそ問題があると論じ、保守主義者としての人間観を明確にした。(1/8付朝日新聞

今回のお話は、灰色のテキスト色で区分けされている、ハリーが悪になるところが非常にエキサイティングでしたね。
癇癪を起こしてばかりなのは思春期独特の不安定(反抗期の暴走)さであるかもしれないけれども、父親という、完全に信奉し自身の拠って立つところでもあった存在に対して初めて抱かされる疑念、チョウとの喧嘩、多くの人に学ぶようにと言われていた授業を疎かにしてしまったこと、そしてあまりにも悲しすぎる別れに際し、あれほど深く敬愛していたダンブルドアに対し怒鳴り散らすなど、あのハリーとは思えないような態度のオンパレード。しかもそれらこぞってネガティブキャンペーンが、名前も言えないあの人の影響であるかもしれないと思わせるところが巧みですよね。そうかもしれない、そうじゃないかもしれない…。
これまで大の大人も黙らせる華々しい活躍を見せてきた、つねに誠実で真面目だったハリーが、今回はまるでダメな、鬱屈した、行き当たりばったりの言動ばかりを示し、そういう気持ちになるのは分かるけれども、どこかやるせない、もっと上手く立ち回れてもいいだろう、みっともない思いばかり募るものでした。以前に比べ多少ロンが頑張っている姿を見るにつけ、ハリーのダメさ加減がどうしても浮かび上がり、どうにもすっきりしない物語。でもそれは、ヒーローでも優等生でもない、善いばかりではない・むしろ悪くさえあるハリーという青年のありのままの心のありよう・思いの移りようを、包み隠さず、丁寧に、執拗に描きつくした、ハリーという表裏ある個性の物語だったということができるでしょう。
苦境に陥るけれども、努力と友情と機転と幸運で乗り切り、誰もが救われる幸せな物語は、前巻のラスト時点で終わってしまっていた…。大切な人は、言葉を交わす暇すらなくあっさりと離れていく。芽生えたばかりの正当なるプライドの柔肌を切り刻んでいくように、ハリーは悪く、愚かで、まったく情けない。そうであるさまがいっそう、かわいそうに思えてきます。彼を巡る状況は、不当だと理不尽だと現前を罵っていられない、最後には大逆転できるんだと盲信してもいられない、後悔や罪悪感とともに一切合財認め、どうにもならない、そういうものなんだという屈辱を受け入れざるを得ないというところまで、ハリーは"即刻"大人にならなければならないのだと、そうのたまいやがるのですよ。
あんまりじゃないですか。そんなこと、15歳の男の子はおろか、30歳を過ぎた僕にだってなかなかできることじゃないというのに…。

「君の持ち物を探すのを、ほんとに手伝わなくていいのかい?」ハリーが言った。
「うん、いいんだ」ルーナが言った。「いいよ。あたし、ちょっと下りていって、デザートだけ食べようかな。それで全部戻ってくるのを待とうっと……。最後にはいつも戻るんだ。じゃ、ハリー、楽しい夏休みをね」「ああ……うん、君もね」

なんてせつない、もどかしいファンタジーであることでしょう。死はあっけなく訪れ、失われた大切なものは二度と戻らない。ピンチを救うからこその魔法であり、失くしても取り戻せるからこそのファンタジーではなかったか。これじゃあ僕が普段観てるアニメや読んでるライトノベルのほうがよっぽど幸せです…。シンプルな展開に生易しい涙を落とすことを許さない、そこには断固たる人間性という複雑さ・現実という理不尽さが容赦なく刻み込まれていて、それらを目の当たりにして激しく揺れ動くハリーの姿は、まさに僕たちのふだんのありようそのまま。泣くほど特別なものじゃあ、ない。
どうにもならない暗い気持ちを抱くハリーこそが彼の個性であり、大切な人のあってはならない死に直面して嘆き喚きながらも、自らと世界の未来をかけて「あの人」と対決しなければならないという役割を自覚していくハリーこそが、彼の生の本質。この「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」において、ハリーはようやく"生い立った"のだと、僕は思います。