ふきだまる音楽 「遊藍」に寄せて

メロディというのは、必然的に流れ、そして消費されます。それがいいとか悪いとかじゃないけれど、僕は流れない、感覚がわだかまったような、様子がふきだまったような音楽に強い印象を覚えてしまいます。無性に惹かれてしまう。「車輪の国、向日葵の少女」のサントラより「憂藍」のような。オチがない、締まらない、都合よく途切れないただそこにのほほんとある情景のようなものを未編集のまま音象化したような、そういう音楽。
そういえば、昔ディスクシステムで発売された作品で「フェアリーテイル」(ソフトプロ)というのがあったけれど。あの音楽が、確かとても印象に残っています。確かというのは、もうどんな音楽だったかすっかり忘れてしまったけれど、メロディではない音楽だったと記憶しているのです。雰囲気というか、"ある様子"をメルヘンチックにかたどったような音楽。そういう感じが"好きだったような気がする"わけです。
まあ、思い出ですから、きっと美化されているでしょう。実際はどうだったか。そうだとしても、今聴いてもたいして良いとは思えないかもしれません。それにもう手に入らないでしょうしね。ただ、僕のレトロゲー好きという場合、電子三音と切り離して考えることはできません。単調なメロディが、ゲームが続く限りいくらでも繰り返される。途切れることなく、電源を切るまでいつまでも流れている音楽という在り方が、僕はたまらなく惹かれました。「スパルタンX」とか、何面まで行ったかということで競い合うような。決して終わらない(ゲームの側から終わりを告げられない)ゲームというあどけない信頼が、途切れないメロディ(音楽の側から引き上げない)を感傷的に介して、僕の日常を慰めてくれるような、えいえんなんていう言葉はひらがなだって知らなかったけれど、いつまでも終わらないものはあるんだよと言ってくれているようなやさしさがありましたねえ。
とはいえ、メロディがある音楽は、口ずさんでしまえれば終わってしまうわけです。途切れるし、消えてしまいます。それではまだ感情的に不安定で。だから僕は、メロディのない音楽に強く惹かれてしまうのかもしれません。メロディがないから口ずさめない、だからイメージするしかない。イメージしている限り、それは決して途切れないし、いつまでも終わらないのです。
レトロゲーが懐かしいのは、単純に思い出と結びついているからだけれども、きっとそれが終わりのないゲームであり、途切れない音楽だったからではないかと、僕は思ったりします。ノスタルジーというのは、現在とは断絶しているけれど、少年時代そのものに終わりはない(リスト化・定量化できない)、生活と会社というように1日が目的別に構成されない、寝ても起きても過ごすのは同じ一日であって、そこに途切れはないという世界の、たとえば鑑賞券みたいなもの。だから、レトロゲーがノスタルジーを湧き起こさせるのではなく、レトロゲー自体がそういう世界だと思うんですね。
懐古は繰り返され、懐古される世界も繰り返される。幼い日の小さな世界は小さく"くるくる"回り、今日の大きな世界は大きく"ぐるぐる"回る。回っている限り、終わりはないし、途切れない。つねに動いていられるから、自分が揺れていても惑わされない。そういう世界のありようを、メロディを流されない音楽を聴くことによって、少し俯瞰的に眺められているような錯覚を起こすんじゃないかと、思うんですね。
途切れるとか、終わるとか、そういう境界例すらない世界。空気中に漂泊する音をじかに吸い込むような。そういうおならの匂いみたいな生の音楽が、この世界にはあるのかなあと、ちょっと想像してみるわけです。