毒を吸う木

 町から離れた丘の先に、1本の大きな木が、まるで朽ちるように立っていました。
 葉っぱは黒ずんでいて、木肌は灰色ににごり、木全体がたれ曲がり、あたりを吹く風さえその場所では嫌なにおいを運んできます。
 近くに住んでいる子どもたちは、この場所には決して近づきません。この場所に来ると、それまでの楽しい気分が一気にしぼんでしまうからです。


 ときおりこの木に大人がやってきました。
 顔色の悪く、病み疲れたその大人は、恐ろしく長い息を木に向かって吐き始めます。
 まるで毒のような黒い息は、不思議なことにその木にするすると吸い込まれていきます。葉っぱ、枝、幹、木全体で黒い息をめいっぱい飲み込んでいるのです。
 ずっと息を吐き続けていたその大人は、毒の息を全部吐き終えると、見るからに顔色良く、とても健康そうな感じで、足取りも軽やかに帰っていきました。


 何年も、何十年も、多くの病み疲れた大人たちの黒い毒の息を、その木は体全体でいっしんに吸い続けてきました。
 でもあるとき、その木は死んでしまいました。
 緑色をなくした葉っぱは、冬でもないのに枯れ落ち、茶色をなくした幹は、しわを通してその先がすけて見えます。
 あたりを吹いていた風さえも、その場所をさけて吹くようになり、その場所だけ時が止まってしまったかのように、木は死んでしまったのです。


 大人たちはそれからもたくさんやってきましたが、死んだ木はもう大人たちの黒い毒の息をいっさい飲み込んでくれませんでした。
 彼らは、来たときと同じ顔色で町に戻っていきました。
 それから街では大人たちが争いを始めました。
 互いに憎しみあい、奪いあい、そして殺しあいました。
 ふしあわせが街をおおいつくし、火の煙と黒い毒の息が雲となって、街に灰色の雨を降らせています。
 大人たちの争いをしずめようとしていた教会の神父さまは、かろうじて子どもたちを町から連れて逃れ、丘の近くの修道所で暮らすことにしました。
 親のいないこの修道所で、子どもたちは毎日をさびしく過ごしていきました。


 天気の良い日。修道所に住む男の子が丘を散歩していました。
 丘の先に、かつて死んでしまったあの木が見えてきました。
 遠くから見てもそれは気味が悪かったけれど、この丘には他に面白そうな所がなかったので、男の子はちょっとした冒険心でその木まで歩いていきました。
 新緑の季節だというのに、その場所だけ枯葉があたりを埋めつくし、草原をさっきまで吹いていたはずの風はとたんになくなり、幹はしわだらけでいまにも倒れそうです。
 男の子はやっぱり怖くなって、その場所を離れようとしました。
 そのとき、風は吹いていないはずなのに、枝に葉はついていないはずなのに、葉のこすれるようなか細い声が、こう言っているのを男の子は聞いたのです。
 「…たすけて」


 修道所に戻った男の子は、友達みんなにさっきの出来事を話しました。
 天気の良い次の日。男の子は手にほうきとじょうろをもって、別の男の子はしゃべると小さなくわをもって、女の子たちは神父さんに教えてもらいながら作ったお弁当をもって、丘の先にあるあの木に向かいました。
 でも最初はみんな怖がってしまって、男の子たちはふるえながら、ほうきで落ち葉を拾い集め、近くの川でくんできた水をじょうろで木の根元に注ぎ、固まってしまった辺りの土をくわでたがやしていきます。
 女の子たちは遠くから不安そうにながめています。


 天気の良い日になるときまって、修道所の子どもたちは丘の先の木の近くで過ごすようになりました。
 子どもたちがけんめいにいたわってくれたおかげで、死んでいたはずの木は、少しずつ生き返っていきました。
 幹のしわはうるおい始め、枝には小さな芽がほころび始め、止まっていた風も吹き始めました。
 最初は不安がっていた女の子たちも、少しずつ木の近くまで来られるようになって、今ではたくましく張り出した根を背もたれに、可愛らしい歌を口ずさんでいます。
 あたりの土で育ち始めた若木が風に踊るように、鳥たちのさえずりが鼓笛のように、木を中心にして楽しい音楽があふれ始めました。


 楽しそうな音色を聞きつけたのでしょうか。
 町で争い続けていた大人たちが、疲れきって傷だらけの体を引きずりながら丘を越え、木のところまでやってきました。
 するとどうでしょう、もう枯れたと思っていたあの木が元気に生き返っているではありませんか。
 大人たちはかつてのように、たまった黒い毒の息を吸い取ってもらおうと、木の元へと急ぎました。
 しかし、大人たちは、かつてのように木に黒い毒の息を吐き出しはしませんでした。
 そこは楽しそうな音楽に包まれ、何より、死んでしまったと思っていた子どもたちが幸せそうに音楽を奏でていたのですから。
 大人たちは涙を浮かべながら子どもたちとの再会を喜び、手にしていた武器をしゃべるやくわに持ち替えて、子どもたちの作業を手伝い始めました。
 心地よい風が彼らの汗をなでるように、通り過ぎていきました。


 幼い若木が立派に成長し、あの木が1本立っているだけだった丘のはずれが林になり、やがて実り豊かな森となっていきました。
 大人たちは近くの川と森の間に新しく町を作ることに決め、その仕事は、死んだ木を生き返らせたあの子どもたち、いまやたくましくそして美しく成長した青年たちへとゆだねられていきました。


 長い年月が過ぎ、青年たちは大人になって、新しい子どもたちが生まれ、がっしりと張り出した根を背もたれに、可愛らしい歌を口ずさんでいます。
 かつて黒い毒の息を吐いていた大人は、いつからか吐き方を忘れてしまいました。
 森にはぐくまれた子どもたちは、夢とわがままくらいしか吐くことができませんでした。
 昔のことを知っている長老は、けれど子どもたちに説教くさく聞かせるようなことはしません。
 椅子に揺られながら、凛々しく成長したこの森の、真ん中を抜きんでてそびえる老木を、微笑みをたたえながら眺めています。
 そうして、しわだらけのまぶたをゆっくりと閉じるのでした。