半現実と、半空想の狭間の武勇譚

 結局「Ever 17-the out of infinity-」における真のBlickWinkelは、笠原弘子の歌うエンディング曲が流れるスタッフロールの後のエピローグにおいて全ての登場人物の視点を"偏在"する存在のことであり、本編で倉成武と少年の視点で4人のヒロインシナリオを経験し、八神ココシナリオでついに"正体を暴かれた"ブリックヴィンケルさんは、当初より既定された1登場人物に過ぎず、実は彼ですら真のBlickWinkelに観測される存在だったんだろう。そうでなければあのギャグっぽさの説明が付かない…。

 もちろんここでいう真のBlickWinkelとは、劇中では八神ココの視点を借りていた四次元的存在であり、幕切れにあたり僕らプレイヤーを"きみ"呼ばわりし、ココから意識的に分離し直接語りかけてきた視点の主であるわけで。それと同時に、もう1人のBlickWinkel(本当の意味でのプレイヤーの存在)もブリックヴィンケルのお兄ちゃんによって把握されていたことが明らかになり、つまり僕が指摘したようなプレイヤー視点の取り扱いに対する"誠実さ"を欠いた原因は、ブリックヴィンケルのお兄ちゃんの存在自体やそのキャラクター性からも薄々わかるとおり設定的・確信犯的意図に含まれているものだったということが判明する。まさにこの"くそ食らえ"部分が「infinity」の続編である由縁なのだろう。そして究極的に「八神ココ」という存在は、「Ever 17-the out of infinity-」というゲーム作品のパッケージそのものを象徴するもの、彼女の視点を借りていた真のBlickWinkelは「Ever 17-the out of infinity-」というゲーム作品に携わった制作者全員の存在ということになるのか。なんとも微笑ましい話である。

 しかしそういった作品の本質的・真相的な"まどろっこしい体裁"はともかくとして、タイムスリップにしろウィルスにしろ不老不死にしろ、フィクションであるけれどもその中では実在であり現実的事実的な存在であるテーマと恋愛を組み合わせて扱うのならまだしも、第三視点だの偏在だの観測だのリアルかフィクションか区別のつかない哲学的形而的なテーマを恋愛と組み合わせて扱うのは、正直どうかなと思ったのも確か。しかも今作ではその形而的命題を現実化しているものだから胡散臭さが爆発、半現実と半空想の狭間で恋愛が咳き込んでるようだ。

 フィクションであるなら徹底的にフィクションであるべきだ。何も僕らは恋愛ゲームにリアリティーを求めているわけじゃない。そもそも萌えや泣き、感動といった感覚は現実的な要素を一切排除し"お約束"法に律された無色・真空世界の、非現実性ないしは反現実性を求めていくことによって研ぎ澄まされ、高められ、そして充足されていくものである。しかしプレイヤーの存在はフィクションではなく現実だ。そしてプレイヤーがコントローラーを操作してゲームを進めていくのも現実なのだ。にも関わらずこの作品は、ゲームシステムとしてではなくたった物語上でそれらをフィクション化し取り込もうとした。そして物語上では見事に取り込まれたことになっている。そのようなある種"くだらなさ"、いい意味でのKID的な恋愛ゲームを味わえたことに対する満足感・充足感とは別に、どうしても一抹の不信感、そう、不信感を拭いきれないのだ。

 恋愛がチョコで第三視点が指輪になってしまった「infinity」の続編。チョコ自体はけっこう美味しいのになんか影が薄い。「infinity」は、謎は謎として衝撃的であったし、どのヒロインについても印象的な恋愛ドラマが描かれていたと記憶しているんだが…。

 なにはともあれ最後に一言。

 「死んだ人間は決して生き返りません」

 レベルに応じた寄付を納めれば神官に生き返られてもらえる世界は、フィクションではなくファンタジー、つまりこの作品は勇者倉成武の現代ファンタジー武勇譚だったのである。