プレイヤーが読み解き、創造する真実

 ここ数日は、ラグナロクのプレイにかまけていたのは事実だけれど、本当のところは、なんだか鬱屈とした、敗北感と戸惑いを混ぜ合わせたような心境で、過ごしていました。僕の書いた「シンフォニック=レイン」の感想に対して、メッセージを頂きまして。その方のwebに書いてあった「シンフォニック=レイン」物語の解釈論を読んで、なんというか、言葉のままの意味で見事に"打ちのめされて"しまいました。僕はいったい「シンフォニック=レイン」という物語の何を読んでいたのだろうか、と…。
 もちろん、hajicさんの解釈はあくまで私見であって、真実ではないのかもしれないけれど、僕も読んでみて、物語として筋が通った解釈であるし、作品を純粋に愛する姿勢が、緻密さや合理性といった理性的なテキストを熱く信じさせ、岡崎律子提供の楽曲と物語とのホットな関連付けなど、その解釈の翼は非常に豊かに羽ばたいていて、その圧倒的なまでの飛翔を、僕はただ口をポカンとあけて眺めていることしかできない、無知で無力な存在なんだという、忸怩たる思い…。
 ギャルゲーをプレイしてこのような気持ちにさせられたことは初めてだし、それだけに僕は「シンフォニック=レイン」という作品が好きなのか、それとも嫌いなのか、よくわかりません。もしかしたら、恐いのかもしれませんね。

 上手な落語は気をつけて聞いていないと、いつ本題に入ったのかわからない。小咄だと思って笑っているとしっかり本筋に移行していたりする。 (はじめてのC お試し版より引用)

 「シンフォニック=レイン」の物語を読み進めていく際の注意事項として、マニュアルの先頭に記載しておいた方がいいくらい、重要で価値のある言葉です。この作品の物語と、世界の真実は、まさにテキストのみから読み解いていくしかないという意味で、テキスト唯一絶対主義。テキストから読み解けられなければ、作品からはあまり多くの、意味のあるメッセージは受け取れないし、しかもそのメッセージは"プレイヤーが気づく"ことによってしか得られません。だから、プレイヤーの数だけ物語の、「シンフォニック=レイン」の真実があるというのは、理想論ではなく事実なのです。
 通常、どのようなジャンルの作品だって、制作者が鑑賞者に伝えたいメッセージは、確かにあり、けれどもそれは劇中で直接的表現によって語られたりすることはたぶんありません。庵野監督が画面に出てきて直接喋ってくれたりするというようなことはありえませんw。けれども、そうであるからこそ制作者は、劇中で自分が伝えたいメッセージを鑑賞者により良く伝えられるように技巧を凝らします。それは演出であったり、シナリオ構成であったり、音楽であったり。
 伝えたい事と、伝える方法があって、初めて作品は作品として成立するんだと、僕は考えています。しかし「シンフォニック=レイン」というゲーム作品において特異なのは、伝えたい事をより良く伝えるための方法論が、意図的に不十分で、欠落し、もしくは偽るために用いられていることです。
 「シンフォニック=レイン」の物語は、特に深い洞察力をプレイ中常時発揮させていなくても、クリックさえしていれば一応の終幕を迎えます。それは、物足りなさや不満を抱くことはあっても、プレイヤー個人の内面的な問題であって、作品自体は形式としてはキチンと完結しています。good end6つとbad end3つというルートがあり、それぞれがたとえプレイヤーの個人的経験からとてもじゃないけどgood endとは呼べないようなシロモノであっても、物語的に事実であり明確に否定することはできません。曖昧に成立しているそれらのファクターを総合した、一個のゲーム作品として、「シンフォニック=レイン」は確かに存立していて、そのこと自体は誰にも否定できないのです。
 僕にはこの有り様が、二段底のトリックをイメージさせました。これは、戸棚の引き出しを上げ底にしてその下部に秘密の日記等を隠す別のスペースを設置するんですが、そのスペース自体も上下に分かれた二重構造をしているトリックです。上部の隠しスペースを少々見つけやすくし、それらしく秘密っぽい日記等を入れておくことで、探索者に上げ底上部を発見させ秘匿物を発見させることでその戸棚のトリックを完全に解いたと安心させ、欺き、本当に隠したい上げ底下部とアイテムを秘匿するというトリックです。
 この物語は、テキスト上(深い意味を考えないで、そのままの意味で、という意味)ですら、多分に衝撃的な内容です。それはこの作品をプレイしたことがある人なら誰もが納得するところだと思います。しかしそれらの衝撃性は、物語の結末によって十分に消化されておらず、拍子抜けしてしまったといってしまってもいいでしょう。二段底のトリックの例でいえば、なにげない戸棚が実は上げ底構造で、その下に秘密の日記を発見した!その日記を読んでみたら、クラスの好きな女の子のことを想って綴ったこっ恥ずかしい中学生日記だった!といった感じです。
 その、拍子抜けしたような、物足りなさや不満を原動力に、僕らプレイヤーは、クリックさえ押していれば先が読めるというような受動的姿勢ではなく、自分が考えなければ一切先に進まない、先が見えてこないという強制的な積極姿勢で、二重底の下部に隠された"日記"を見つけ出す「創造の旅」を始めなければならないのです。本当の物語を想像することで「シンフォニック=レイン」の真実を創造するのです。しかしその旅をするかしないかは、僕らの完全な自由なのです。
 岡崎律子さんの音楽は、それ自体が「シンフォニック=レイン」的世界観のもと非常に完成されていて、彼女の死を惜しみ音楽を美化する心理的作用も働いているのかもしれません、作品を終えて抱いたそれらの否定的な感覚を拭い去ってあまりある感傷をプレイヤーに提供してくれます。演奏パートは非常に技術を要し、スコアランキング等プレイヤーを競わせるシステムもあり、指を動かし、熱中することで物語の拍子抜け感・物足りなさや不満を発散させるというような方向性もありうるでしょう。
 何よりそれらの否定的感覚が、決して明確な疑問・形ある疑いとしてプレイヤーのうちで成立しないように、テキスト上の二重底トリックがあるわけです。それ以外にも、読解上非常に重要なシーンにおいて演出的に嗜好を凝らしたり、イベントCGを配したり、特別な音楽やアニメシーンの挿入等、ゲーム方法論を駆使することでプレイヤーに、「シンフォニック=レイン」という物語の謎を疑わせ、真実の世界に気づかせる装置を意図的に排除しているのではないかという馬鹿らしい考えさえ、むげに否定できないのです。
 きっかけはあまりに少なく、手引きもなく、そして解答もない「シンフォニック=レイン」という曖昧は、僕らプレイヤー各人のクリエイティブを挑発しているとすらいえるのです。だから僕は、"ゲーム"批評が趣味である僕は、「シンフォニック=レイン」という作品を批判したい、純然たる畏敬の念と、全てのヒロインの幸せをただ一心に願う気持ちで酷く歪ませた表情で、僕は「シンフォニック=レイン」という作品を罵倒したい。それが現時点での、僕の心境です。
 ギャルゲーとはゲームであり、物語はゲームであるべきで、ゲームとはプレイヤーと協力してひとつの目標を目指すべきものであり、ゲームとその表現は全てのプレイヤーに対して平等であるべきです。洞察力や読解力に優れたプレイヤーにのみ物語の真実と作品の価値がみえ、そうではないプレイヤーには、何か拍子抜けした、物足りなくて不満だけれどその正体が判別つかない、想像もつかないというのでは、作品としてはあまりに不公平ではないですか。思いやりに欠けているといえませんか。
 何が真実かは人によって違う、人の数ほど真実はあるという不変の花束を添えて、ヒロインたちの将来と作品の意味付けを全くプレイヤーに贈る「シンフォニック=レイン」。しかし、この作品この物語からは真実が見えない、そして、偽りからは真実は生まれないと僕は思います。
 僕が大好きなQ'tronシナリオの「My Merry May」シリーズは、謎があり、真実が描かれ、そのうえでプレイヤーが考えるべき余地がありました。興奮も、理解も、ゲームとプレイヤーとで共有することができました。解釈すべき領域と妄想すべき領域がごく自然に隣合わせである安心感。そういった心地がしました。
 僕が信奉する「Prismaticallization」は、物語が表面上も内容的にも難解極まり今でも全然理解できませんが、ゲームシステムが物語を把握し、密接に関連し、独自のゲーム性を押し進めることで自然と物語の真実に近づいていくような感覚的理解が、僕のとても大好きな点です。
 ギャルゲーである以上、ヒロインをプレイヤーが好きになるというシステム上、物語とゲームとプレイヤーは好感のもてる関係でいてほしいというのが、僕の望みです。物語が先走りし、ゲームが物語を偽り、エンディングがプレイヤーを突き放す「シンフォニック=レイン」という作品は、ゲームとして画期的ではありますが、どうしてかあまり好意的に思えないのは、作品に真実が欠けていたからなのかもしれません。ゲームとして、物語が偽っていることをプレイヤーに対して"偽っている"ことが、僕は気に食わないのかもしれませんね。他愛の無くてどうでもいい僕の感情的な話です。気にしないでください。

 謎解きの物語として謎を提示する以上、作品は作品内でしっかり「つじつま」を合わせる必要があるはずなのに、その手のゲームのシナリオの多くは見事にいい加減だ。だからほとんどの場合、私たちに提示される道は、かなり好意的な解釈で無理やり納得してあげるか、あるいは制作側が乱発した後付け設定で煙に巻かれるか、のどちらかしかない。(略)
 いや、何が何でも隅から隅まで理詰めで解釈できるようにすべきだ、と言いたいわけではない。ただ、謎だらけで終わってしまう推理物語はやっぱり出来損ないだし、そしてサウンドノベルには、そんな作品があんまりにも多いんじゃないだろうか。(略)
 ほとんどの作品のシナリオは、この二つの極の間、ごく中心に近い辺りを、適当にうろついている。理屈で考えるべきなのか、そんなものだと受け入れるべきなのか、どっちつかずの曖昧な部分を抱えたままに。
 実際、そのことは「当たり前」として読者にとらえられているし、(よっぽど酷くない限り)それで良いことになっている。かわりに求められるのは、その不完全な部分を補うものとしての、都合の良い想像力と、それに都合の良いキャラクター設定で、その結果、そういった作品の持つ曖昧な部分は、想像の…悪く言えば妄想のための余地として正当化されてしまう。繰り返すが、すべていけないと言いたいのではない。ただ、こればかりと言うのはどうにも問題に思えてしかたないのだ。それが行き着くところは、結局のところ、断片的なキャラ萌えであって、物語性の否定でしかないと思うから。
 『シンフォニック=レイン』は、そういった風潮に、強烈な一撃を加えられる作品だったと思う。話の筋道はびっくりするくらいに通っている。明白な結論もある。なのにそれは説得じみていたりしないし、押しつけがましくもない。当然、答えも言ってくれない。だから読者には自分で考える(妄想ではなく)楽しみがあるし、考えないといけない。そう、これはもう完全に読書の世界で、だからこそ、ただ文章を眺めながらクリックしているだけでは、「わかんない」のだ。それこそがこの作品の最大の魅力であり、同時に致命的な弱点でもあった。 (はじめてのC お試し版より引用)

 肝に銘じておきたい指摘です。なので代わりに日記に銘じておきました。