雨は 雲のなみだ そのなみだは 森や木や植物のごはんになる*1

symphonic=rain webring
 はじめてのC お試し版さんが主催されている「シンフォニック=レイン」webリングです。僕と僕のwebは参加できないけれども、「シンフォニック=レイン」という作品を誰かに「どんなゲーム?」と尋ねられてもきっと意味のある返答はできず、ただ「すごいゲームだよ…」と呟き沈黙するしかないけれども、そんな負け犬の月森さんはこのwebリングを応援している振りをして、「シンフォニック=レイン」という作品とその物語にまつわる事象をお茶で濁したいんですよ。
 以前にも書いたけれど、「シンフォニック=レイン」という作品が、そのゲーム性たるものがパッケージ的なゲームを終えてから(いわゆるコンプリートしてから)プレイヤーの脳みその中で始まるのだとすれば、hajicさんの「シンフォニック=レイン」に関する一連の著述は、まさに"ゲームプレイ日記"に他なりません。そして注意しなければならないのは、hajicさんの「シンフォニック=レイン」プレイ日記を読むことは、即ち僕らにとっての「シンフォニック=レイン」というゲームをプレイする機会を永遠に失うことになりうるということです。
 「シンフォニック=レイン」という作品のゲーム性が、プレイヤーの想念上において開帳するものであるがゆえ、アクシデント的に読んでしまった"ネタバレ"というのとは全く次元の違う、非常な喪失感を味わうことになります。自分が操作すべき自機を自分以外の誰かに操られてゲームクリアし、もうこのゲームは二度とプレイすることは出来ないのですから、その喪失感は、ゲームを知っている人であれば誰でも想像できるでしょう。一度思ってしまったことを、違う風に思うことの難しさと、空しさ。
シンフォニック=レイン」という作品の真実は、「いつか(自分で)わかる」ものであって、「誰かにわからせてもらう」類のものではなかったのです。そんな当たり前であるべき事柄にさえ気づかずに安易にhajicさんの聡明で詩意的な論にのめりこんでしまった僕が、失ってしまった"感動する機会"は、何者によっても補いがたいものなのでしょうねえ。想像すらできないのが哀しいことです。
 ほんとう、hajicさんの首根っこを掴み上げて「なんであんなメッセージをよこしたんだよ!そっとしておいてくれよ!『いつか自分でわかった』はずなんだから!!」と怒鳴りたいけれども、それは筋違いであるばかりか、むしろ『いつか自分でわか』る根拠なんて全くないことも、hajicさんのプレイ日記を読まなければ絶対気づき得なかったという明白な根拠も。僕はほんとうわかっているんですよ。とほほ。

広い空のむこうには なにがあるのかな あったかい風がふいているのかな きれいな歌がひびいているのかな きっと 空のむこうは やさしい世界*2

 雨雲を突き抜けた先の空に、なにがあるのか、どんな風がふいているのか、僕はわかったようでいるだけで実はあんまりわかってなくて、でもきれいな歌だけはひびいてくるんだよね。それで、なんとなくだけれど、わかる気がするんだ、「きっと 雨雲のむこうは やさしい世界」。

*1:3/18付読売新聞朝刊「こどもの詩」より

*2:3/16付読売新聞朝刊「こどもの詩」より