勝っても負けても結局滅びる?エロと暴力の聖戦

 僕はどうやら、エロゲーというものを間違って認識していたようです。というより、括り方を間違っていたというか。先日ふとそんなことに気がつきました。
 僕は常々、普通のゲーム、例えば任天堂セガソニーが制作するゲーム作品、多種多様に及ぶジャンルのなかのひどく特殊な1ジャンルとして、エロゲーというものがあるのだと思っていました。そう括っていました。
 けれど、世間一般の認識、括り方としては、例えばアダルトDVDやアダルトグッズのような「消費される性商品」、多種多様に及ぶジャンルのなかのひどく特殊な1ジャンルとして、エロゲーというものがあるのですね。
 ソフマップ町田店のエロゲー売り場にアダルトDVDが隣り合わせで並んでいたり、近所の中古ゲームショップののれんをくぐった小部屋には新着アダルトDVDが音声なしで垂れ流されていたり、そういった混然状態に違和感を感じていました。それらは「なんか間違ってるよなー」という僕にとって失笑の対象でした。でも、僕の違和感こそ世間一般的には間違っていたのです。それはまさにひとまとめに扱われるべき性商品群だったのです。
 ただし、KIDが制作するギャルゲーは、任天堂セガソニーが制作する一般的なゲーム作品のひとつとして、括られているでしょう。括っても許されるでしょう。NECインターチャネルプリンセスソフトが供給するエロゲー移植版ギャルゲー作品もまた、一般的なゲーム作品のひとつとして市場では括られているはずです。当然のように物語上の修正は必要とされるだろうけれども、ゲーム性という意味ではほぼ全く影響がない形で移植されています。
 ゲーム性という基準によらず一方はゲーム作品として、もう一方は性商品として、取り扱いがまったく分かたれてしまう。その運命の分岐をつかさどっているのが、「エロ性」であり、さらには「暴力性」であったりします。考えてみれば僕ら人類はいまだに、アホみたいな痴漢から国際人身売買シンジケート、ささいな言い争いから核戦争まで、太古の昔から今日に至るまで性と暴力についてはまったく手に負えてはいません。というか手に負えた時代があったとも思えません。
 もしかして、遠い将来において人類が性や暴力といったものを手なづけることが叶うようになったときに、初めてギャルゲー作品は、それがエロかろうがエロくなかろうが、任天堂セガソニーが制作するような一般的なゲーム作品のひとつとして、同じ売り場に並ぶようになるんじゃないかなぁと思ったりします。
 ペットショップのようなものなんじゃないですか。犬や猫は人間の手に負えるから取り扱えるけれど、象やライオンはまさか扱えないでしょう。そういった動物は特殊な組織が裏ルートで(もしかしたら)取り扱うことができるわけで。
 ただ、エロ性が人間の手に負えないのは、最悪でもヒトという遺伝子を途絶えさせないためだろうし、暴力性が人間の手に負えないのは、互いに争わせることで優れたヒトの遺伝子を後世に継がせるためだろうし。そう考えると、エロゲードラクエが普通に一緒の売り場に並んでいる世界は、少なくとも人類の終焉が近いことになるのかもしれません。


 物語テキスト上に直接的な性描写があるかないかという画一的な区分基準は、そもそも性的な意味で"脱ぐべき"存在として描きあげられている、各種の属性という"味わい"を帯びた2次元美少女が登場している時点で、プレイヤー的にはあまり意味がありません。
 "彼女たち"が纏う衣服は実は属性の一部としての装飾品に過ぎず、衣服として根本的な、性的領域を隠蔽するという使命とは全くうらはらに、隠すことによってむしろその性的領域を強調し、肢体のエロ性を努めて曝け出しているからです。
 SEX描写がないということも、描かれないということでむしろそのSEX性の価値を高め、プレイヤーにとって多種多様な性的嗜好の前に、その深層なる性的自由を捧げ出しているといえます。むしろ、(スリーサイズが設定され公表されているにもかかわらず)ヒロインが脱ぐことはなく、特定の男性(主人公)とのSEXシーンが描かれることもないギャルゲー(コンシューマー系美少女ゲーム)は、ヒロインの処女性を全く損なうことなくプレイヤーの脳内に提供することになるという意味で、非常にエロい。それはある意味確信犯的です。
 設定上のスリーサイズに基づこうがあるいはそれを無視しようが全くプレイヤーの自由にヒロインの肢体を創り上げ、ヒロイン本人の性的嗜好や"性能"ですらプレイヤーの、想像が事実として決定される権限に委ねられています。まさしくヒロインの性とSEXは、主人公ではなく、プレイヤーのものなのです。
 ヒロイン本人の人格や意思をまったくないがしろにしたエロ性という意味では、むしろ18禁エロゲーよりも程度がはなはだしく、えげつなく、ヒロインにまつわる健全な物語は、プレイヤー脳内を律する性的嗜好にとって"贅沢な装飾品"。それが病的なまでの健全さであるがゆえに、その質を途方もなく高めているのです。
 健全であるからこそ非常にエロい。それは、二次元美少女ゲーム(萌えゲー)市場というものが膨張して定着し、ジャンルごとに細分化し系統化し、緻密に整理されて販売され、特定ジャンルのファンを、その特定性がゆえに等しくマニア化し、もう誰もが萌えゲーの正体を知っているからこそ起こってしまった、痛烈な皮肉。
 ギャルゲーが発売される前から、プレイヤーは登場するヒロインの肢体を"とっくに知っている"のですから、艶かしい悶えやあえぎ声を"とっくに聞いている"のですから。そこには既に、直接的な性描写があるかないかという区分基準を無意味とするばかりか、むしろ"美味しい"とすら感じさせるシニカルな文化的成熟があるのです。
 ついでにいえば、映像表現上直接的な暴力描写があるかないかという画一的な区分基準は、忌避された映像が表現するところの暴力性を、数値や物体、非人間的対象が取って代わり、あるいは象徴するところのものとなるだけです。
 敵は「倒すべきもの」として、主人公に降りかかる危機は暴力的手段で排斥しなければならないということになんら疑いを挟まないような(アクションアドベンチャーゲーム一般に顕著な)ゲーム文化にとって、その単純な区分方法は、想像力ある青少年にとってあまりに無意味であり、馬鹿らしい生真面目さであるといえるでしょう。
 むしろこの場合においても、ギャルゲーのそれと同じように、隠すことでむしろ強烈なインパクトを青少年の精神に与えているとしたら。倒されるべき敵、殺されるべきモンスターが、主人公(自分)によっていったいどんな風に倒され、殺されているのかよくわからない、人間に限らず命ある存在にとって普遍的である、死という事実を曖昧にすることで、かえって何か危険なファクターをプレイヤーである青少年の前に曝け出してしまっているのではないか、という危惧を抱くのは先走りしすぎでしょうか。
 グロテスクな死を潔癖なまでに排除し、数値や物体、非人間的対象に死という事象を預けることで、現実逃避の一手段として死を軽く捉えたり、あるいは無機質的肌触りに慣れて、厭きてしまう風潮に繋がったりはしないでしょうか。「死は生そのものである」という精神論なんかは、この際触れませんけれど。
 ゲーム作品を、「エロ性」や「暴力性」という基準で軽々しく審査し、市場での流通販売経路を厳格に峻別することは、このように青少年プレイヤーの内面に対する教育的効果性としてはチクハグである可能性を捨てきれません。にも関わらず今日そのふるいをますます強めようとしていることは、人類というものが、「エロ性」や「暴力性」というあさましい欲望について一人ひとりが戦う内なるジハード(聖戦)において、ますます劣勢に立たされているという精神的現状を証明するだけのような気がします。
 人類の敗北証明書。エロゲードラクエが普通に一緒の売り場に並ぶことで滅びるか、それともこの証明書に署名捺印して滅びるか、僕らはいずれ究極の選択をしなければならなくなるのかもしれませんねぇ。