個性という電源系のゲーム性を求めて

しかしまぁアレですね。今更言うようなことでもないんでしょうけど、こんなふうにして、淡々と、黙々と、何の芸も何も考えずにひたすらクリックしているだけというのは、すごく癒されます。僕は、ラグナロクオンラインというゲームのこういうところが好きなのかもしれません。そう、mobにカーソルを合わせてクリックする、この単純な指の動作さえ止めずただひたすら時間を費やしてさえいれば、キャラが育っていく、たまにはレアアイテムを拾う、さらに強い敵と戦うことができるようになる、そうやっていみじくもゲームと呼べるモノが展開していく、それってとっても素敵なことじゃないですか。幸せなことじゃないですか。
複雑で難解で煩わしい現実があります。そこでは、単純な作業をいくら積み重ねようが、いくら時間を掛けようが、どうしてもできないことはあって、到達できないレベルはあって、競争社会ゆえの不条理な合理性が、ストレスを生みだします。勝ち組とか負け組とかもも組とかのことはよくわからないけれど。そういう単純ならざる現実ゆえのストレスを、癒すものがあるとすれば、猫だったり熱帯魚だったり、青空だったり川のせせらぎだったり、結果的に単純だというのではなく、起源的に単純である世界に求められ、それはラグナロクオンラインというゲームそのものなんじゃないかなと、思うのです。
mobをクリックするとアコたんが鈍器でそいつを叩いて、その上着の裾が翻るさまにうっとりする僕と、「一緒に帰らない?」と誘うと頬を赤らめるギャルゲーのヒロインにドキドキする僕は、やっぱり通底していて、それはぶっちゃけ、単純だということ。
言葉に表すという作業は、結局、単純化するということなんじゃないかなと思ったりします。表現するということ。自分というもうひとつの複雑で難解で煩わしい現実を、言葉に表すことによって単純化し、同じような違う現実を抱える他の人と通じ合えることができるようになる、それがコミュニケーションというものなのではないでしょうか。
相手に完成したガンプラを渡して、「どうよ?」と尋ねてみても、相手はチンプンカンプンだろうけれど、パーツをひとつずつ渡していけば、「ああ、これとこれを組み立てていけばいいのね」ってことになって、実際組み上がったら、「これはザクだね、なるほど」と、相手は分かることができます。そういうことなんじゃないかと。
表現するということ、コミュニケーションって、そういうことなんじゃないかなと思うのです。単純なことは実にわかりやすく、複雑なことは実にわかりづらい。どこかの誰かが自分の目の前に出ていて、「私のことを分かってくれ!」といきなり言われても、それはどだい無理な話です。わかりづらいことをうじうじと考えるというようなことは、哲学者か宗教者にでも任せて、僕は単純でいきたい。お互いのごく単純な部分を突き出し合って、同じパーツを見つけ合い、違うパーツも見つけ合い、それらが組み上がった《現在の自分=複雑系》は、接着剤でくっつけちゃったんだもの、どうしようもなく変わることの困難な存在です。
けれども、お互いの単純な部分の比較分析《コミュニケーション》をしつこく積み重ねていけば、単純な部分からの同異に対する肯定的認識を基盤にした、本質的に異質である互いの複雑系を認め合い尊重する心構えが生まれてくるのではないかと、なんちゃって希望的観測。同じパーツがあれば、違うパーツがあるのはもうどうしようもない。ザクとグフは全然違うのだから。けれども、アコたんに萌え萌えギャルゲーのヒロインにはぁはぁ、というのは僕の個人的性癖だけれども、より普遍的にいえば、エロい想像をすると興奮しちゃうのは僕も貴方も哲学者も宗教者も日本人も中国人もきっと同じ。ザクとグフが同じかどうかは、よくわかりませんけどね。
例えば、中国に批判的な読売新聞を読んでいると、チュウゴクジンと宇宙人とは絶対わかりあえないよ!と諦めてしまいたくなるけれど、彼らだって海賊版の日本製アニメ見て萌え萌えしてるかもしれない、はぁはぁしているかもしれない。そう思うと、知的財産権侵害云々とか問題山積だけれども、少なくとも《コミュニケーション》はしてみたくなりますわね。

                  • -

格闘ゲームとかシミュレーションゲームは、ちゃんと競争しますよね。というよりゲームはそもそも、コンピュータという、本質的にプレイヤーに媚びていて、依存し過ぎるあまり敵になっちゃったような存在(子にとって超えるべき存在としての父親=父親という役割の保障)であって、プログラムであれプレイヤーであれ、競争すること、ちゃんと頑張らなければ負けてしまうスレスレの境界線設定がゲームデザインで、その伯仲した難易度のなかで勝つことの成果(報酬)として、プレイヤーに文化的な何かを提供していくのがゲームの本質なのでしょう。
単純な作業を積み重ねていくことで、時間をかけるだけでゲームが進んでいく。何の難しいゲームテクニックを駆使する必要はなく、他のライバルプレイヤーを蹴散らす必要もない。ゲームの本質性を無条件に放棄することで成り立つゲームというもの、何をせずともヒロインは僕に天使のような微笑みを見せてくれるそのロジックは、猫や熱帯魚や青空や川のせせらぎに癒しを見出す現代人の心象と似ているのではないかと思います。そこにある非情な生態系や有為転変を一切無視して作り上げる、甘やかな幻想。
小学校の運動会にかけっこの一等賞がないような、価値基準別の単一競争を否定し個性を伸ばすことに主眼を置いた教育は、子どもたちの個性そのものをぎすぎすとした競争にさらしてしまうことになりました。競争するのが悪いことだいう風潮が、不戦敗的な防衛心理で子どもたち自身に自らの個性を抑制させてしまい、その抑制しようとする意識自体が個性の自由な発育を遅らせ、損ねてしまっているという、致命的で自殺的な個性の喪失を引き起こしてしまっているけれど。
単純な作業を積み重ね、時間をかけるだけで展開するゲーム、何の難しいゲームテクニックを駆使する必要はなく、他のライバルプレイヤーを蹴散らす必要もないゲームというものが、僕を癒してくれるはずの世界が、そんなように、何か途方もないものに関わる壮絶な競争をプレイヤーに強いてしまっているような気がしたのは、「シンフォニック=レイン」というゲーム作品に出会ってからでした。
もちろん、「シンフォニック=レイン」には難しいゲームテクニックを必要とする演奏パートがあります。ですけれども、僕はあいにくキーボードの配列を覚えていません。しかも「ひらがな入力」。コントローラというものは、ボタン部分を見なくても任意のボタンを限りなく無意識に押すことができて初めて、ゲームの入力デバイスたることができると思うのです。だから、僕にとって「シンフォニック=レイン」というゲーム作品の入力デバイスは、機能不全に陥っていたということができます。
キー配列くらい覚えろよという話もありますが。仕様書に「キー配列を覚えていない方はプレイすることができません」と書いてあるわけではないのですから。僕にとっては自動演奏モードしか選択の余地がありません。逆説的に、そこには何の難しいゲームテクニックを駆使する必要はなかったのです。
(そういった意味で、「シンフォニック=レイン」がPS2あたりで発売してくれたなら、こんな無茶苦茶な理屈をこねずに、作品本来の楽しみ方が出来ただろうなあと思ったりします。)
また、選択肢選択を通して任意のヒロインシナリオへ進み、当然のようにベストエンドを達成することができるというのも立派なゲームテクニックだろう、という気もします。しかし、ごく常識的に特定のヒロインにのみ好意を表すような選択肢を徹底して選び、かつ彼女と会えそうな場所に通い続けるというギャルゲー一般に求められるテクニックは、いわば"慣習"のようなもの。日本人が箸を自在に扱っているのを見た外国人が、「それはすごいスキルだ」といったところで、日本人はこれをスキルというほどのものだとは思わないでしょう。それと似たようなものです。
ゲームテクニックとは、そのゲーム作品にのみ有効で、かつその作品を通してしか鍛え上げることができない、そういう特殊性をもったものです。ジャンルごとに共通する基礎的テクニック(例えば格闘ゲームにおけるコマンド入力のタイミングとか、シミュレーションゲームにおける戦術セオリーなど)という慣習はあって、それは幼い頃母親に仕込まれる"しつけ"のように、いつしかプレイヤーは身に付けてしまっています。そのうえでその作品特有のゲームテクニックを修練していくことが本来的なゲームの楽しみ方だとしたとき、慣習のみでゲームを楽しむことができるのが、ギャルゲーであるわけです。
ある特殊のゲームテクニックを強制するのではなく、全てのプレイヤーに備わった部分をいかに伸ばすかという点に、ゲームデザイン的なクリエイティブが注ぎ込まれるというのは、価値基準別の単一競争を否定し個性を伸ばすことに主眼を置いた今日の教育と同じだといいたいわけです。ギャルゲーとはゆとり教育。んなアホな。
ゲーム性本来のプログラム的な競争を放棄することで、プレイヤーの個性が試されるゲームというものが生まれるのだとしたら、僕は「シンフォニック=レイン」という作品の《嘘》の断面図にそれを見つけます。徹底している物語表層の《嘘》から注意深く綻びを嗅ぎ取り、プレイヤー自ら「シンフォニック=レイン」という《真実》を創造していく。つまりプレイヤーの個性が自由にゲームを進めていくのです。そこにあるのは、個性というゲーム性。個性とは、人間の複雑系の中枢であって、単純ならざるもの。
僕にとっての癒しを欲したギャルゲーの単純さが、実は裏で複雑で難解で煩わしい僕という現実を引っ張りだそうと画策していたことに気づいたとき、僕はその野心的なクリエイティブに惜しみない賞賛を送りますが、同時にとても落ち着かなくなります。完成したガンプラを渡され、「どうよ?」と尋ねられているかのような、「私のことを分かってくれ!」といきなり言われたかのような、そんなめまいを覚えてしまうのです。
つまり宗教なんですよ、「シンフォニック=レイン」って。プレイヤーは物語解釈という罪を彼女に告解するのです。信仰の言葉として表現するために彼女を単純化してしまったことに対する悔悟の念を。深遠なる彼女という創造主を。

                  • -

電源を入れてから切るまでがゲームだという既成概念を打ち破ることで確立する、個性という非電源系のゲーム性(電源を切った後に進められるゲーム)は、ゲームというものがあまりにもプレイヤーの個性を必要としていない、むしろ邪魔となるだけの要素でしかないことの皮肉でしかありません。「Memories Off 2nd」の飛世巴シナリオで、3回目に彼女に会ったときに示される主人公への好意に対し、プレイヤーは、

彼女の気持ちを受け止める
彼女の気持ちには答えられない

という究極の選択を迫られます。主人公には白河ほたるという彼女がいます。無邪気に全面的に主人公のことを慕ってくれている彼女に対し、目標を見失い漠然とした不安定さのなか、「好き」という気持ちにも自信のもてない主人公の微妙な心象が丁寧に描かれてはいますが、それはいわば彼自身の内面の問題であって、言葉にしてはいけない、許されない類の揺らぎです。例えるなら、無能な上司に理不尽な論旨で説教を食らったときに抱くほのかな殺意のようなものです。
「後ろから蹴飛ばしてやりたい」というような揺らぎは、自分にとって正当なものであるけれども、それはどこまでも彼自身の内面の問題であって、言葉にして外に排出してはいけない、行動に移すことは決して許されない類のものであり、それがわかっているからこそ、揺らいでいられるのです。
しかし、この選択肢によってプレイヤーは、主人公の心の揺らぎを振り払うことを要請されます。行動することの承認を求めています。なにしろこの選択肢で

彼女の気持ちを受け止める

を選ばなければ、飛世巴シナリオルートには入れないのですから。主人公だけではなく、プレイヤーにも白河ほたるの想いを裏切る責任を負ってもらうために仕向けられた選択肢なのでしょうが。それは同時に、プレイヤーの個性をも裏切る選択肢でもあります。というより、僕の個性。「彼女の気持ちを受け止める」という選択肢は、僕の中では決して許されない思想です。つまり僕はここで、飛世巴シナリオをプレイするために自らの個性を覆さなくてはならなくなります。
無視された僕の個性。それではいったい飛世巴シナリオをプレイしたいと思い、実際にプレイしているのは誰だったのでしょう。そこまで考えたのかどうかはわかりませんが、僕は飛世巴シナリオの中盤でコントローラを置きました。「Memories Off 2nd」のプレイを切り上げました。なんだかとてもうんざりしてしまったのですね。(また機会があれば「Memories Off 2nd」については考えてみたいと思います)
プレイヤー自らの個性を無視しなければゲームが進んでいかないゲームの、プレイヤーとはいったい誰のことなんでしょう。誰がコントローラを操作しているのでしょう。読者としてプレイヤーを捉え、たとえば意地悪な選択肢を選らぶことで主人公やヒロインがどのような(珍奇な)運命へと分岐して(陥って)いくのだろうか、といったような面白みは正当なものなのかもしれませんが。
ヒロインの主人公に対する恋愛感情にとって、好ましいか好ましくないかという明確な価値基準による選択肢は、プレイヤーの個性をある程度取り込みつつも、そこには「ヒロインに想われる」というギャルゲーとしての絶対正義が最優先されます。レバニラもエビチリもどっちも好きだけど、ヒロインがレバニラ好きなら僕もレバニラ好きでいいじゃん?といった軟派な正義です。しかし「Memories Off 2nd」の飛世巴シナリオ分岐点の選択肢、あるいは「ONE〜輝く季節へ〜」の長森瑞佳シナリオにおける選択肢など、ゲームシステムが読者としてのプレイヤーを仕様的に要求し、相対的にプレイヤーの個性を貶めている事態に、僕はどうしようもなく感じてしまうのです。ああ、僕の個性はここでは必要とされていないんだなと。
こじつけられた筋道(正規ルート)は、プレイヤーに仕組まれた悪質ないやがらせ。恋愛における趣味・嗜好といったプレイヤーのあらゆる個性を肝に据えたゲームデザインであるべきギャルゲーが、全てのプレイヤーに備わっている慣習(選択肢選択)によってそれを大元から否定するよう強制するというのは、いわば箸で喉を突き刺すような自殺行為なのではないでしょうか。

                  • -

個性を否定されるのって、やっぱり辛いことです。ゲームシステムが僕の個性を無視するという"深刻ないじめ"をやっているのだとしたら、僕は、ゲームの電源を切るかアンインストールするしかありません(それはゲームシステムの最期の良心)。それを主人公側からやってのけたのが、「EVE the lost one」のSNAKEです。彼はゲーム終盤でプレイヤーの存在そのものを放逐するんですよ。主人公として自殺する。コマンドをいっさい受け付けなくなり、ついにはプレイヤーの視点から"いなくなっちゃう"。しょうがないからプレイヤーは、ひとりとぼとぼと砂漠町をうろつきながらSNAKEを探すわけです。笑えますよこのシーンは。何しろ"プレイヤーがひとりで歩いている"んですから。
プレイヤーがコマンド選択を通してSNAKEの意思に、善意をもって介入し、爆弾魔である彼の個性を改ざんしていくプレイヤー側からのゲームシステム(意思)を、彼は拒絶するのです。しかしSNAKEは、とんだ茶番であっても電源を切らずに彼("自殺"した主人公)を見つけ出してくれた真摯なプレイヤーと再び、ゲームシステムを糊代にしてひとつとなり、そうして最終的にある種の救いを得ます。
しかしプレイヤーがゲームシステムを拒絶した場合、プレイヤーを自殺した僕は、何らかの救いを得られるのでしょうか。癒しを見出せるのでしょうか。僕がゲームの電源を切ってしまえば、プレイヤーを辞めてしまえば、主人公もヒロインも僕を見つけ出してはくれません。
ゲームがプレイヤーの個性を拒絶するということは、つまり"電源を切ってしまえば最初からそこには何もなかった"ということになるという事実を、粛然と受け入れていかなければならないということを意味します。
ゲームがゲームとして、電源を切っても見つめられていく、思われていく存在となるためには、プレイヤーが個性的であらなければならず、プレイヤーの個性的なまなざしをゆるやかにたっぷりと取り込んでいくことで、ゲームはゲームとして本当にあることができるようになるのではないかとと、僕は思うのです。

                  • -

個性という電源系のゲーム性を求めて。
プレイヤーがゲームシステムを通して主人公の個性を改ざんしていく。その反射として主人公やヒロインの個性が、研ぎ澄まされた読者としてのプレイヤー視点を通して、プレイヤーの個性を改ざんしていく。この相互作用をゲームの電源が入っているときになされるのが、個性という電源系のゲーム性。
プレイヤー自身の個性を裏切ったり、自ら覆すことにはならない、そうする必要がないばかりか、プレイヤー本人がその危機にあると認識することすらないごくごく自然な演技(なりきり)を、自らを癒してしようがない単純さを、巧妙でまことしやかなまやかしとしてプレイヤーに教唆することが物語に、ゲームシステムにできるようになったなら、それは本物のニセモノだと。最高のペテンだと。
僕はゲームを通して自らの個性を再発見する。
とはいえ、ゲームプログラム的な競争を放棄することで、プレイヤーの個性がぎすぎすとした競争にさらされるということの実相とは、「シンフォニック=レイン」で試されるクリエイティブであり、自らの内面において相克する価値観同士の争いのことです。例えばエロゲーでいうなら、目の前のひとりのヒロインを暴力的に陵辱したいのか、やさしく慈しみたいのかという、極端に両存する欲求と道徳の価値観をいかに伯仲させるか、プレイヤーの内面をどれほどせめぎあわせるスレスレの境界線を設定するかが、ゲームデザインに求められるのです。そういうペテンのことです。
結局のところ、ゲームとはどこまでも本質的に競争するものであって、それはエロゲーでも格闘ゲームでもシミュレーションゲームでも変わらないことであって、僕がヒロインの天使の微笑みにドキドキするのも、彼らの単純さに癒されるのも、それはどこまでも甘やかな幻想に過ぎないということに、なるんでしょうか。

                  • -

単純なのは、どうやら僕の脳みその中だけみたいですよ。ぶっちゃけ、自分で自分を癒してろと。