記憶が消えていく

記憶が消えていく―アルツハイマー病患者が自ら語る

記憶が消えていく―アルツハイマー病患者が自ら語る

町長在職中に若年性アルツハイマー病を患った著者の、来歴とその症状を家族や関係者の言葉を元に淡白に記し、それでも明るく楽しく生きていけるという前向きなメッセージのこもった心温まる短章。

妻は信じている。二人であの日微笑んだ記憶も、二人であの日泣いた記憶も(略)それらがサラサラと消えていったとしても、喜びや悲しみや楽しみを感じたその心までは決して消えることはないと。

帯に書いてあるみたいなセンチメンタルな面に救いを得たいのも山々だけれど。この本で僕が辛いなと思ったのは、知識や経験、思い出といった記憶が徐々に失われているということを本人はわかっていて、「自分が、自分でない誰かになってしまう」という「最大の恐怖」や「哀しみ」を感じることができて、しかもそれを「でもいまは、けっこう楽しく生活している」という風に「受容」してしまうことができるという、人間の精神というものの残酷な生存優先機能を、本を読むといういくらか文学的手段で「突きつけられている」ということです。
AIR」のどろり濃厚ジュース好きの少女の物語を持ち出そうとしている僕が愚かなんですけどね。
この本に描かれている物語はやさしくて、というか短くて、辛いこともあるけれど最後には希望にあふれてて、本当に「絶望はない」。けれども、奥さんや息子さんの名前が書けないとか、頭を洗うことができないとか、そういう「できないこと」を数え上げられるたび、僕はいちいち絶望的な気分に落ち込んでしまいます。
途方もなくやさしい希望に包まれて、家族と手を携え、地域の人々に肩を支えられ、ゆっくり、ゆっくりと歩いていく。その体からは色褪せた絶望がぼろぼろと零れ落ちていって、最後にみんなの手に残る感触こそが、心というものなのかもしれないなぁと、これはある意味童話のように僕には思われました。
とはいえ、「できないこと」を「仕方がないこと」と受け入れることの延長に、「自分が、自分でない誰かになってしまう」ことがあるとしたら……。
以前は穏やかだった人が、怒りっぽくなって癇癪起こして手を上げるようになったとしたら、それはある意味既に確定的に"そうなって"しまっているんじゃないか……。
自分が自分であるための"証"が、知識や経験、思い出が第一層(表層)で、性格とか性質のようなものが第二層、そして最下層に「心」があって、心は魂に固着しているから離れることはできないんだみたいに信じられたら、僕らもいくらか生きやすいだろうかなぁと、結局センチメンタルに思ってしまうわけでした。