心を商品化する社会

心を商品化する社会―「心のケア」の危うさを問う (新書y)

心を商品化する社会―「心のケア」の危うさを問う (新書y)

子どもたちが学校生活の中で抱き、苛まれるさまざまな不安と苦しみ、労働者が会社生活の中で抱き、苛まれるさまざまな不安と苦しみ、突き詰めて全ての人が、この勝者と敗者、富者と貧者という加速度的にぶっちゃけて二極化していく過酷な社会を生きていかざるを得ない中、ますます深く濃く自らの内で膨れあがり慢性化していく不安と苦しみ。
それらを学校制度・労働制度・あるいは社会制度といったシステム側に原因を求め、体制に「問い」「追求」してこうという連帯運動を予防し、それら不安や苦しみの根本原因をすべて生徒・労働者・市民個人にあると錯覚させ、本来政策的・外的である欠陥を、個人の内面的・精神的な問題へとすり替えていく体制側の"えげつない思惑"。
それに臨床心理が学問として協力し、加担し、スムーズに浸透させていくのに重要な役割を果たしているのではないかという深刻な疑念を、元現場のカウンセラーでもあった著者たちが現状の批判的分析を元に提起した衝撃的な論文。

自分が(略)職場をやめることになったとき、それまで面接を続けていた若者に「別の面接者を紹介したい」と話し、彼から批判された。「自分はこれまで、あなたという人間と話をしてきたのだ。辞めて会えなくなるのであれば、ここで終わり。相談者をすげ替えるという話ではないでしょう」と。しごく当たり前のことだった。

医療現場でセカンドオピニオンの重要性が叫ばれているなか、同じ医療現場のひとつである臨床心理という現場では、診察としての相談自体が治療行為の一部であり、患者に選択される余地のまったくない絶対的な治療行為であるということ。
そして、医療過誤の問題が医療現場に吹き荒れているなか、治療を終えた患者が何か重大な事件を起こしても、治療に当たった専門家は「相談者は非常に困難な問題を抱えていました」と他人事のように証言するだけで、責任問題も訴訟沙汰とも無縁でいられるという"安全なポジション"にいるということ。(無縁でいられるということ自体、患者の相談内容は1専門家ではどうにもならない、患者の心の問題解決ではどうにもならない外形的・物理的な欠陥の所在を明白にし、体制側の"えげつない思惑"を明瞭にするものなのかもしれません)
そういう優遇された立場で、しかも癒し系という流行に後押しされて、さらなる地位の向上と勢力確保を企図して体制側に近づき、「心のケア」という衣を被った暴力性で国民を洗脳していくという、国家権力に"からめとられた"心理学の危険性に警鐘を鳴らしたものだといえます。
心理学万能思想への戒めと、問い続けるべき問題の捉え方。
ただ「心のノート」批判については、心理学者内の内紛問題で袂を分かち、政府に媚を売りスクールカウンセラー市場を独占している"敵"学会の棟梁「河合隼雄」を感情的に排斥しているような気のするのが残念です。
「さまざまな議論をしている」という著者たちの所属する学会が、思想として何を標榜し、活動として何を行っているのかまったく見えてこず、それゆえ、精力的に活動しテレビや新聞でもよく語っている河合隼雄を僻んでいるように映ってしまう、情念的"隙"を拭いきれていない詰めの甘さが、その警鐘が聞くべき価値あるものだけにもったいなくあります。
しかし、臨床心理という医療が、患者の身体の一部を患部として分離し要素化することのできない、患者の人生そのもの(全体性)を対象としているものであるにもかかわらず、「友達と上手く付き合いたい」「上司によく思われたい」といった大衆の矮小的な似非心理学的欲求に迎合し、自らが担うべき全体性をないがしろにした結果、国民の内面や精神は捨て置き、能力や責任のみを抽出して経済・国家運営に役立てていきたいと企む体制の"思うつぼ"になっていくという筋立てには、さすがに恐怖を覚えました。
患部だけ治療していれば良かった医療が、患者とのコミュニケーションを重視し精神面を含めサポートしていく方向へと舵を切ったのに反して、人間的社会的つながりを意図的に隔離させ、患部だけを精一杯物理的に捉えて治療するようになっていく臨床心理。この食い違いはどう考えたらいいんでしょう。
人は何も、自分の哲学的存在性について悩んでいるわけではなく、社会にいて、人間関係の中にいる自分のことについて悩んでいるのですから。そもそもカウンセリングルームから"連れ出される"治療を潜在的に望んでいるのかもしれません。
患者はカウンセリングで自分の人生全てをぶち当てていくのですから、専門家もそれに応えていかなければならないし、そういうものだと漠然と思っていたのも確かで。ここいらで臨床心理専門家性善説は取り下げたほうが良いかもれないなぁ。
臨床心理家はそもそも善意で相談に乗ってくれているわけじゃない(民生委員やいのちの電話とは違う)、給料貰ってやっているのだとわかっていても、「心の底から善意に支えられた素晴らしい人格者だ」と、どうしても思ってしまう所に付け込まれたりしたら、僕はもう国家の奴隷まっしぐらですよ。うわぁ。
まぁ、いい加減「癒し系」という言葉自体もうさんくさく思えていい時節柄ですね。