自己コントロールの檻

自己コントロールの檻 (講談社選書メチエ)

自己コントロールの檻 (講談社選書メチエ)

「心を商品化する社会―「心のケア」の危うさを問う」の感想で簡単に触れた、心理学的知識が人々に浸透していくことで人々が自らの内面問題に"封じ込められる"という事象を、社会学らしい多面的・学究的そして中立的に詳述した論文です。前著がわかりやすい入門書だとすれば、本著はつきつめた理論書といったところでしょうかね。読む順番としては間違っていなかったと思います。
社会構造の変化によって道徳と化した「自己人格崇拝」が、充足すべき欲求として際限なく膨らんでいく過程で、「キレる」少年犯罪問題と児童虐待問題へと結びついていく考察のダイナミズムにちょっと感動しました。感覚的に理解できるいくつかの命題を明確に仮説立て、丁寧に執拗に論証していくテキストは難しくも共感でき、回りくどいようで理解しやすく、斬新な視点や示唆に富んだ指摘も旺盛に盛りこんであってかなり良い社会学本ですね。
社会の「個性重視・自己実現」という潮流が、人々をあいまいで過酷な競争に駆り立てていくという意味での、社会→市民としての息苦しさは前著で批判的に語られていたけれど。個人の「人格崇拝・合理化」という潮流が、「聖なる自己」を信奉する道徳観念を高度化・厳密化させ、それを維持するために誰もが多大な労力を注いでいるという分析、いわば市民→社会としての息苦しさの提起もあわせて、言われてみればつくづく現代社会とは息苦しいものだと思います。
言われてみればそうかもしれないなと思わせるというところが、社会学の"それっぽさ"であるということを久しぶりに実感した気がするなぁ。「高度な自己コントロールと感情マネジメントを要請する社会」において、「聖なる自己」の保持に汲々としている現代人というのはイメージ的にわかるけれども、崇拝する自己人格を侵犯されると直ちに「処罰」が与えられていくというのは、悪い意味で社会学らしい単純すぎるルールではないかなとも思います。
「聖なる自己」とは、唯一のものでもなければ、絶対的なものでもなく、そして他人によって容易に侵犯されうる安っぽいもの、あるいは軽薄なものばかりではないと考えます。例えば本著では崇拝すべきとされている「聖なる自己」は、僕にとって見れば現世的対応に供される"おとり"に過ぎなくて。それを他人に見下げられようが侵犯されようが結構「どうでもいいこと」としてかなり無配慮でいることができます。
正真正銘の「聖なる自己」とは、二次元美少女とか萌えとか恋愛に埋め尽くされた精神(仮想)世界に依拠している主人公としての僕、つまり現世とは隔絶した無関係の世界設定。他人の侵犯どころか配慮すら及ばない地平に腰をドッカとおろして、現実をヒョロロと仮借に生きているのです、この僕は。
おたくという種族一般が総じて、その外観にそぐわないくらい礼儀正しく、年長者を重んじ、ユーモアがあったりする"ウケの良い"人柄であることができるのは、おそらく本著で指摘しているところの自己人格への崇拝や保持といった配慮を最小限に済ますことができる余力で、相手人格に対する配慮や尊重を充実できるからではないでしょうか。
僕らが本当に崇拝し信奉している「聖なる自己」は、他人(三次元的存在)の侵犯も配慮も一切及ばない"場所"にあるのだということは、むしろ現世の自己に心理的余裕をもたらせているとして羨ましがれるべきなのではないかと。それが職業意識を希薄にさせてフリーターやニートを生み出す土壌になっているかもしれないということは、あるのかもしれないけれど、それはそれとして。
現代人はおたくであるべきだという指摘は、変化と流動性の激しい現実の人間関係や社会とのかかわりによって容易く影響され、侵略の危機に陥ってしまう無防備な「聖なる自己」を、本来あるべき「聖なる空間」に"上がってこい"あるいは"引き上げさせろ"という「やさしい」提案なのもしれないなあと、思うわけなのです。(3/100)