福祉工学の挑戦

たとえばインターネットで大きなサイズの映像ファイルをダウンロードしている最中に、RealPlayerは並行してダウンロード済データを逐一再生してくれるじゃないですか。この本を読んで、福祉工学というものを僕はイメージ的にそう捉えました。
人間の身体機能、末端の感覚機能から中枢の脳機能などひっくるめて「手足を動かそうと思うまでもなく手足は動く」という僕らにとって当たり前の事実(システム)すら、未知の部分ばかりだというのに、それぞれ専門領域が未知の部分に仮説を打ち立て、それを実証していく緻密で慎重な科学を突き詰めている最中に、福祉工学はいくつもの専門領域の知見を横断的に掬い取り、それぞれの研究と並行的にある意味体当たり的に実証し、時代の流れを先読みして機器化していく。
仮説領域を出ない先端技術を旺盛に福祉機器開発へと応用しビジネスに結び付けていこう、「ひと山当てよう」という著者を始め研究者たちの野性味溢れる知的行動力、夢想家と紙一重の豊かな想像力、先見性、ただただ舌を巻くばかりです。
身体障害者視覚障害者、そして聴覚障害者。身体の様々な機能を喪失し、今目の前で困難な生活を余儀なくされている人々を前にして、「ちょっと待って。まだわからない部分があるから」「この理論が証明されないと危ないから」拒むように研究室にこもるのだとしたら、それはいったい誰のための何時のための科学なのかという疑問。「まだ未知の部分もあるけれど、出来得る限りの安全性でこれだけのものができました。さぁ使ってみてください」と、額に汗流して、白衣に油がねっとりと付着している工学者がいるとしたら、それはきっと本物の科学者なんだろうかなと思います。「等身大の科学」。町角の工学者。この本の著者はきっとそんなちかちかした工学者に違いありません。
興味深かったのは、障害者の音声認識、文字認識、触覚や発声、歩行機能など、福祉工学が彼らの失われた機能を代替する機械を開発していく過程で生み出されたそれらの技術が、バーチャルリアリティとしてエンターテイメントに寄与したり、ロボット技術に応用されていくというくだりです。金を生み出すために発展した錬金術が化学を誕生させたように、障害者を支援するために発展する福祉工学が、障害者だけではなく健常者含めて全ての人々を支え助けるロボット工学を誕生させるとしたら、それはなんて素敵な僥倖でしょうよ。
とはいえ、バリアフリーの街づくりがすべての人にとって安全で便利であるように、ユニバーサルデザインのモノがあらゆる人にとって使いやすいように、すべての人それぞれにとっての希望(数限りないそれら)は、存外予定調和してくれちゃうものなのかもしれません。頭・身体・心・あと何か。ヒトが、ヒト自身のために、ヒトの仕組みを研究することで、最終的に多くのヒトが幸せになれて、その偉大さと尊さに敬意を抱くようになれるとしたら、それはなんとも素晴らしい内循環系システム(永久幸福機関)ですねえ。

 それに加えて重要なことは、生体システムには「可塑性」があり、ヒトにはその可塑性を活用して失われた機能を「代償」しようとする機能が生まれてくることである。したがって、ヒトを(感覚-脳-運動が有機的に繋がっている)システムとして捉えるばかりではなく、そのシステム自体が内部変化や環境変化によって機能を変えていくというダイナミックなものであるという前提のもとで研究に取り組まなければならない。

目の見えない人が気配で障害物の位置や周囲の状況を感じ取ることができたり、耳の聞こえない人が「唇の微妙な動きや、手に伝わってくるわずかな振動などを頼りにして言葉を理解する」ことができたり、視覚障害者の音声聞き取り能力(速度)が晴眼者の2.5倍だったり。

 一般に、グローバリゼーションはITをもっと普及させ、「いつでも」「どこでも」情報を獲得できるという、いわゆる「ユビキタス」ネットワーク社会という明るいイメージで受け止められている。一方では、情報の共有化により文化、生活、さらに思考までもが平均化され、人間の多様性が失われるのではないかという人もいる。私見ではあるが、ある地域が世界的になろうとするならば、その地域でしかできない産業、生活、文化を見つめることが早道であり、ローカリゼーションを世界に発信することが本当の意味でのグローバリゼーションにつながるのではないかと思っている。このことは「地域」を「日本」に置き換えても同様なことである。

カビに覆われたピウスツキ蠟管の表面を舌で舐めて、「大根おろしに玉ねぎの汁とニンニクを少々混ぜて、それを蠟管の上にのせるとカビは取れます」と教えてくれた少女のエピソードが本当はこの本で一番印象に残っていたりして……。(12/100)