精神科医になる

精神科医になる―患者を“わかる”ということ (中公新書)

精神科医になる―患者を“わかる”ということ (中公新書)

骨が折れれば、自分は「骨が折れたように痛い」と感じる。病院に行って医者に診せれば「これは骨が折れているよ」と言う。そこには患者本人の認識と医者の診断はあまり食い違いようがないけれども。患者が蝕まれている疾患と、患者自身が認識している症状、治療者に伝えられる症状と、診断される疾患、その4者が微妙にずれ、しばしば食い違い、あまりに気づかれない。決してイコールで結びつくことのない限界と、秘せられるもの、それが精神医療が「正式に」拠って立つ場所。
その俎上空間で、患者の剥き出しの主観が踊りだす臨床という前線、足取りのあやふやな医療体系という馬に乗りつつ、常にその本質を問われ脅かされていく治療者の主観、この本を読んでいくと、そんな"一兵卒"の思索的呻き声が漏れ聞こえてくるようでした。
精神の病を治療するためには、まず患者の精神を<わかる>ことが必要不可欠で、しかもそれは医療機器にくぐらせればわかるような骨折や身体疾患のそれとは根本的に違う、治療者が「わかった」と言えばそれは全くわかったことになるのだし、「わからない」といえば全然わからない性質のもの。拠るべき客観性がないゆえに自らの主観に頼らざるを得ないその主観すら徹底的にストイックに自らの内で恒常的に(ちくちくと)相対化していかなければならない、絶え間なく続く苛烈な精神格闘を、治療者は眼前の患者を前にして日々行っているのです。
カウンセラーなんていうと、始終ニコニコしていて、「どうしましたか」「それは困りましたねえ」なんて気安い慰め言葉を発しているだけだと思っていたけれど、それは大間違いなんだということに間接的に気づかされました。
ひとりの人間には、その存在的なありようを形成する<構造>というものがあり、それを投影した<像>として人間は間接的に自らのイメージを認識する。患者が示す<像>の多面的な分析、あるいは薬物の服用とその効果判定を通して治療者は患者の<構造>を生体的に把握していく。<構造>は刻々と変遷していくので、不断に隙間なく行っていく<生体と会話>を通し、治療者の知識経験も参照しながら自らのうちで意味を持って生まれてくる<像>が、動き出し、1本の筋道を作り、それは<物語>となって、治療を実現する根拠になっていくという。
統合失調症うつ病といった精神疾患はあくまで分類上の呼び名に過ぎなくて、治療者は実際の治療を介し患者をその個性において(例えば月森さんぽ病として)捉える<パロール的分類>。そうすることで自由に<構造>把握を企図した<生体との会話>を行うことができ、束縛されない<物語>を構築していく翼を得る。つまり、客観性の欠落したあやふやな足場であること、その認識論的おぼつかなさを逆手にとって患者本位の、間主観的関わりの機会を治療者と患者の相互関係軸に付与することになって、そのための内(治療者自身)・外(精神医療現場)両面における相対化システムの心構え・構築が必要だと著者が述べている。その結論自体絶対的なものだとして、いずれ相対化されることを求めているあたり、なんだかお茶目な感じがします。
いや、よくわからないんですけどねw
精神科医になる」ということの真の意味は、建前上患者と呼ばれているに過ぎない、ひとりの独立したかけがえのない人間の前で、建前上精神科医と呼ばれているに過ぎない、ひとりの独立したかけがえのない人間は、この書でさんざ規定されているような"精神科医"に、常に"なっていく"ことが求められるということ。患者を<わかる>ということの真の意味は、<わからない>ということを<わかる>、認めることから始めなければならないということ。
そのこと(無属性・無分類・そして自由)を承知した上で、著者なりの、あるいは精神医療的な人間のわかりかたに関する、いくらか専門的、あるいは哲学的な本著の見解に耳を傾けるのは、精神科医になんて今さらなれっこない僕のような素人であっても、いくらかの意味はあったかもしれません(対人関係的に、しいては人生的に)。(13/100)

 あまたの精神科医が連日メディアに登場し、犯罪をはじめとするさまざまな社会事象を評論する場面に出くわすことが多くなった。「物語」が閉じられた治療空間から逸脱し、社会全体に発せられるようになってしまった。あたかも「物語」という名の社会正義でもあるかのようである。(略)
 そもそも、精神化臨床の方法論にのっとり、個々の症例について厳密に「物語」を紡いでゆくなら、その延長戦上に社会へ向けての「物語」など成り立たず、安直な社会評論はできないはずである。このようなことを続けていると、いつか社会の側から精神化のあり方に疑問が発せられ、精神化臨床の方法論の基盤が掘り崩される時がくるだろう。これは精神科だけでなく、ひいては社会の損失のはずである。

 典型的な精神分裂病では、まず妄想気分というような言い知れぬ不気味感・不安感がそこはかとなく漂いだす。この状況は患者にとって大変苦しいものである。どうしてこんなに苦しいのだろうと患者は長らく悶え苦しむ。ところがある時、この苦しさは「実は組織が悪さをしていたんだ」、「そういえば……だった」と患者は気づく。こうして妄想気分は急激に妄想着想といわれる段階に移行する。その結果、患者は一応の安定を得るようになるのだ。昔から、安定を得られた妄想は治りにくいと言われている。やはりこれも、<認識のつじつまあわせ>のための<非ありのまま性>の発動の一種であるといえよう。

 嘘が実在することからもわかるように、<非ありのまま>も実在する。それに対して<ありのまま>のほうは、実は<非ありのまま>があって初めて成立する事柄である。すなわち<ありのまま>とは、実在する<非ありのまま>からネガティブに規定されるものだといえる。だから、純粋な<ありのまま>というのは、ないのではないだろうか。正真正銘の<ありのまま>、疑問の余地のない<ありのまま>などというものは、もしかすると絵空事にすぎないのかもしれない。

 人間の「ドライブ(欲望)」を軽減するための特定の行動を繰り返すことへの期待が緊張と不安を生み、行動に踏み切って欲動が充足されたときの快感をさらに高め、こうして嗜癖の「条件づけ」が進行していく(略)。これらは皆、行為とその結果がもたらす陶酔に身を浸すという共通の機構が見られる。そしてこの陶酔の本質は「自体愛」的なものである。最もわかりやすい自体愛行動であるオナニーが異性を対象とした性愛のすり替えとして生じ、すり替えであるがゆえに真の充足の枯渇をいっそう際立たせるように、嗜癖もすり替えゆえ、繰り返されて、さらに亢進される(嗜癖サイクル)(略)。キレて暴力を繰り返すなどといったようなエスカレートする自傷他害行為も嗜癖といえよう。

 まとめるなら、絶対的な現実というものに根拠づけられない患者の「心的現実」を、主観的かつ動的な治療者のパロール的認知で受け止めるわけだから、簡潔に言えば、「心的現実」はどうとでも取り扱える危うさが秘められているのだといえる。
 精神分析に代表される力動精神医学では、患者の表現する「心的現実」を素朴に治療の前提とし、そこに詳細な吟味・解釈を加える。しかしそういった営為の適否を、検証する基準も方法も実は存在しない。ここに大きな問題がある。(略)
 治療者が臨む筋立てで、患者の「心的現実」を変更させていく危険性さえあるのだから。