サブリミナル・マインド

サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ (中公新書)

サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ (中公新書)

うん、これは大学在学中かあるいはそれ以前に読んでおくべきだった。もっといえば、実際の講義を受けてみたかった(東大ですって!)。そう思わせて止まないくらい非常に優れた人間科学入門書、あるいは肌身感覚の心理学。きっと大学の教養科目「心理学概論」みたいなので配られる資料に「必読書」として推薦されているに違いない。
「自分はもうひとりの他人」。
無自覚的潜在意識(心的プロセス)が神経回路上の膨大な情報処理を先ず行い、今流行の選択と集中みたいなことをしていて、閾下の感覚入力と運動出力を自動で行い、自覚的顕在意識はその「結果」報告だけを受け、つじつま合わせの「解釈」をするだけの存在だとしたら。「ほんとうの自分」はここにふんぞり返ってる僕(顕在意識)ではなく、もしかしたらそこの潜在意識("僕")のほうにこそあるんじゃないのか。
僕というあやふやな自己は、潜在的な"僕"によって暗黙裡に統御され、その"僕"は、僕の意思の及ばないところ、社会や環境といった外的・善意悪意・有形無形の"ある意図"によって形作られていく。「時代の人間観」こそが"僕"であるというとき、個性的存在である僕の居場所はいったい"どのあたり"になるのだろう。そもそも僕に"僕"は"わかる"んだろうか。
もうね、見当もつかないや。
こういう、自分自身の(こころの)ことが本当は世の中でいっちゃん恐ろしく不可解な事象(現象)だという認識を持つのは、若い頃にしておくべきだと思いました。何にでも疑ってかかれるのは若者の特権。年をとってきちゃうとね、もう今のまんま(悪い意味でありのまま)そういう設定として受け入れてしまうから。
「そういうもんだ」と体よくわかった風を装える真実いい加減さで、自己知覚を閾下に"押し止めておく"結果として小泉自民党独裁政権を生み出してしまったのだとしたら、よくないね。うん、よくないね。
束縛された牢獄内ではささやかな自由が味わえ、リストアップされたいくつかの意志を選択できる世界と、開放された庭園内でしたたかな規制を受け、任意に示した意志がその都度修正・却下される世界と、どちらが人間にとって「自由」で「意志」の尊重された世界なんだろうかと、ふと思いました。そして現代に生きる人々は、2つの世界のどちら寄りの住人なんだろうかと。埒もないことです。(16/100)