移植病棟24時

移植病棟24時

移植病棟24時

僕が臓器移植や、脳死と人の死について考えるとき、それは当然のように抽象的な思考になってしまうし、概念的な議論に陥ってしまう。でもそれはやむをえないことなのかもしれません。自分の死について現実的に考えるにはあまりに無意味に僕は健康すぎるし、人の臓物を取り込んでまで生きていたい、もしくは生きるべきだと思えるほど僕は自身に価値を見出してはいないから。
けれどそんな僕個人の価値観や人生観とは関わりのないところで、ある人は臓器移植でしか助かる見込みのない重病となり、ある人は脳死状態となり、ドナー・レシピエントとして臓器移植は行われているわけです。移植手術に成功し術後管理も上手くいけば、以前は重篤者であったことが信じられないほど見違えて確かな健康を取り戻し、皆に祝福されながら社会復帰していく。移植手術や術後管理に失敗すれば……。

 まったく予期しなかった結末だった。僕は全身の筋肉から力が抜けていくような無力感におそわれていた。
 すぐに控え室で待っている母親に連絡した。(略)むせび泣く母親の背中を眺めながら、僕も流れ出る涙を止めることはできなかった。
 僕はロッカールームに戻って、何度も何度もこぶしで壁を叩いた。僕の指先にはまだディアナの心臓の感触が残っていた。僕は心の中でつぶやいた。この小腸の移植をいつか必ず安全な移植にしてみせる。そして、そのためにはどんな努力も惜しむまいと。

臓器移植というある人にとって人生の重大な分岐点に日々立会っているこの本の著者(小児移植外科医)は、価値観や人生観などという"おべんちゃら"に構っていられる余裕もないほど、まさにある人たちの"心臓"の拍動を自らのものとして刻々と感じ、たくましく再生させていく、あるいは衰え停止させてしまう、その手のひらにするりと決定的に委ねられた現実を、まざまざと体験しているというのです。

 そもそも、僕がなぜ移植医療がいいと思っているかといえば、移植医療で元気になった子どもや大人をたくさん見てきたからである。(略)
 僕はみきちゃんやほかのたくさんの子どもたちの笑顔を思い出す。そして、やっぱり僕たちは正しいことをしてきていると思うのである。臓器移植なんかいらないといっている人たちの声は、僕にはそんな子どもたちは亡くなればいいといっているように聞こえるからだ。

ものすごい極論です。それは脅迫とすらいえます。
「全財産を寄付しろ」「嫌だ」「お前はアフリカで飢餓に苦しんでいる子どもたちは亡くなればいいとでもいうのか」
けれど著者は、自身の絶対的な経験を踏まえながらも、脳死者からの移植医療、脳死という概念について日本国民が根強く抱く生理的な嫌悪感を、冷静につまびらかにし、いちいち「(同じ日本人として)その気持ちもわかる」と誠実に頷いてゆきます。アメリカの新聞にも名が載るほどの立場からなら、いくらでも日本人に対し威厳を持って「アメリカではこうだ、なのに日本でそうならないのはおかしい」と非難してもいいくらいなのに。
けれど決してそうはせず、自らの主張を読者に押し付けるのではなく、目の前に脳死ドナーからの臓器移植で助かった子どもたちがいて、そのまぶしいばかりの笑顔のうちから、著者は自らが生涯をかけて取り組んでいる移植医療の意義と、正しさを見出している。読者ら一般市民にも、その正しさや意義をすぐに理解するのは難しいことだろうけれども、せめて、臓器移植で命を救われる人たちがいて、彼らの笑顔はフィクションでも概念でもなく現実のものなのだというまぎれもない幸せを、共感して欲しいと訴えている、ただささやかにそれだけ。自己正当化にもお呼びがからないたったそれだけなのです。
高度な専門分野の最先端を担う医師とは思えない率直でシンプルなそのメッセージは、空想領域で自身の価値観・人生観とも絡んでがんじがらめになっている脳死・臓器移植についての思考ベクトルを、するりと解きほぐすかのようで。いったいどこでボタンを掛け間違えてしまっていたのか?という気持ちにさせられます。
海外移植を願う子の名を冠した募金に、短期間で多額の寄付が寄せられる世界でも稀有な善意の国・日本。きっかけさえあれば、叶うことがある。そのきっかけは、もう述べた通りなのです。(24/100)