他人の心を知るということ

他人の心を知るということ (角川oneテーマ21)

他人の心を知るということ (角川oneテーマ21)

つまり、他人とコミュニケーションするということ。
誰もが日々難なくこなしているこの"ほぼ日常動作"を、多少小難しい観点ながら、当たり前のなかに潜む奇跡の現象として、宙返り3回転半くらいしてから晴れ晴れと着地したかのような、どこか"すかっ"とさせるコミュニケーション論でした。
(究極的な意味において)自分では知ることのできない他者の主観的知覚世界。その有り様を推測する「こうだろう」という「仮説」に基づいて、他者の知覚世界に改変を求め、自らのそれへと近づけ、同じものにする(「世界を一にする」)ための「実験」(あるいは「賭け」)を相手に投げかける。それは相手から「反証」されない限りにおいてどこまでも続いていく。
互いが互いの心の世界を推し量り、「自分が考えるところの相手の心を試」み、相容れない存在である互いが「通じ合っている」と、刹那の安心感を"否定されない"がために、「公然の事実」という心許ない約束を求める無意識的なあがき、そんなコミュニケーション像と僕は読みました。
「モノによって成り立っている世界は、不安定で人によって違ってしまう」もので、「自分に見えているモノが、他者には存在していないかもしれない」という恐怖から逃れたいという欲求が、人をコミュニケーションという「実験」へ駆り立てていく原動力となっているという指摘は、抽象的で漠然としいまいちしっくり来ないものがあるけれど。
自分の世界が相手の世界と同じであるかどうかということを確かめたい、その欲求が最も先鋭化する場面は、いうまでもなく恋愛において(私が貴方を愛しているのと同じく貴方が私を愛しているという唯一の事実その共有)。
この現実感覚からすれば、「恋愛は、コミュニケーションがもつ不可能性と現実性を、あらわにする典型的な場面」などともって回った言い方をするより、むしろコミュニケーションというものがそもそも恋愛的な要素を含んでいると言ってしまったほうが、いっそ"楽"のような気もします。
とはいえそれじゃああまりにも"うさんくさい"し、硬派な論理を台無しにしてしまいかねませんよね。

 なんら違和感なく、二人の人間が一つの場所に共存しているのなら、私はその共存こそ、コミュニケーションと呼びたい。コミュニケーションとは、一つの共存のテクニックなのだ。(略)(関係磁場に発生するさまざまな)圧力の中、二人以上の人間が一つの時空間の中で存在し続けること。一つのパターンが形成され動いているということ。それがコミュニケーションとよばれるものの実態ではないだろうか。

「共存のテクニック」という考え方は、以前読んだ「他者といる技法」に通じるものがありますね。
http://d.hatena.ne.jp/tsukimori/20051216/p1
他者と共存するために僕はつましい賭けをする。僕は世界に存在しているんだという僕の中での事実を、他者と、それ以外の他者(公然)とで共有しさせていくために。その健気な証は、たとえ僕が死んで世界に存在しなくなった後でも、他者と、それ以外の他者(歴史)とで包有されていく。それは決して感傷ではなく、「必然的な心の働き」なのだと言う著者とこの本は、別の意味でひどく感傷的で、心に残るものですらありました。(27/100)

 何かを「間違い」と断定する発言は、もしそれがすでに存在しているものに対して投げかけられた言葉であるなら、本当はその発言こそが間違いなのだ。なぜなら、すでに存在しているのだから。この世界に矛盾という物質は存在しない。もし、本当に誤っていて矛盾している物体、生命体、言葉、であれば、それは存在という形式をとりえないだろう。「おまえの生き方は間違っている」という発話は、間違っている。なぜなら、すでに生きているのだから。誤ったもの、間違ったもの、は観念や概念のレベルではありうる。しかし、ある発言や行為について、すでに存在しているものに間違ったものなどありえないのである。なぜなら、ある必然をもってすでに存在しているのだから。

 言語にできない、セリフにできないからといって、あいまいなものではない。言葉にできないものはすべてあいまいだと考える、言語中心主義的な人も中にはいるようだが、見えている風景、潮の香り、こうした感覚そのものは、言葉にすることはできない。百聞は一見に如かず、の言葉にもあるように、百の言葉を費やしても伝えることができない景色、風景、におい、といったものはあるだろう。それらはすべて、「知覚」というひとことでくくれるものである。それは決してあいまいなものではない。言葉で表現できなくても、見ればわかる、輪郭をもったものなのである。

 我々は、他者が何かを見ている場面を観察することはできるが、他者が何かを知ろうとしている場面を観察することはできない。「見ること」は目が開いている、顔が向いている、など、知覚器官が活動する観察可能な一種の「行動」であるが、「知ること」とは、目に見えない心の働きなのである。