私は障害者向けのデリヘル嬢
- 作者: 大森みゆき
- 出版社/メーカー: ブックマン社
- 発売日: 2005/12/01
- メディア: 単行本
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ありがとう、これはすごい本です。いや、ほんとに……。
セックスは普通裸でするもので、それは健常者でも障害者でも同じこと。それは物理的な意味だけではなく、精神的な意味でも"裸"になる。"裸"になったお客様に、精神を病んでしまうほど"裸"で生きている著者が日々接してきた生活風景と、それに密着する途切れ途切れの思い。「ただの人間」という共通項にまつわるイカくさい真実に、僕はしとどに打ちのめされている。
「そういったこと(制度を作って障害者に性的なサービスを奨励している)がない国からすれば、それはよいこと、すごいこと、と思われてしまうかもしれませんが。本来そんなことはふつうのことであり、やはりその制度を作るということが差別というか、人々を分けているんです」
「だいたい、障害者専門の風俗店というものがあるのが不健全なんだ。本当は、障害者を受け入れてくれる普通の風俗店が増えたほうが健全な世の中でしょう」(「セックスボランティア」より)
エレベーターの中は思ったよりも狭くて、私と岡さんがエレベーターに乗り込み、結局大野さんは階段で上ることになった。ラブホテルのエレベーターだから、もともと広く設計しようなどと考えていないのかもしれないが、こういうところにもっと気を遣えば、車椅子の人の利用も増えるに違いない。バリアフリーのラブホテルって、国内にどれくらいあるのだろうか? 漠然とそんなことを考えた。
制度があるから、障害をもった人が障害者になる。もちろん制度ができて、きちんと分類されることで初めて、多くの人が適切な支援を受けていくことができるのだから、一概に否定することはできません。けれど、確かにそうも思うのです。
制度があって、支援が充実していく過程と脈絡して国民的な機運によっていつしか制度自体廃止されるようになり、制度によって特殊化させられていた人たちが普通の存在となっていく。子ども用の座椅子がお店に当たり前のように準備されているように、支援、というよりも手助けが自然ななりゆきで為されていくなか、「昔は良かったのになぁ」と愚痴言って周りの人にどつかれたりする世の中の変遷が、後世望ましいものとして振り返ってもらえるんじゃないかなぁ。
お客様は、大きくふたつのタイプに分かれている気がしていた。すごく恐縮していて謙虚なタイプと、とても傲慢で卑屈なタイプ。
ほとんどのお客様は、なにもそこまでへりくだらなくても……と思ってしまうくらい謙虚。そして、優しくて温和だ。しかし、たまにとても傲慢な人もいた。誰もが「障害者だからって差別されたくない」と思っているのは理解できるし、当然だ。私が傲慢だなと感じるのは、その当然の感情が妙に助長されてしまい、都合のいい部分だけ「障害者なのだから、人より手厚く扱ってもらって当然。健常者と同じように扱われるのは不愉快。差別されているのだから、厚遇しろ」といういい分を持っている人のことだ。その人たちは、「なめられたら終わりだ」というようなことを常にいっている。そして、健常者の人と同じ扱いをすると、それでは足りない、もっともっとと要求がエスカレートする。もっと特別扱いをしろという。それは、逆にまた差別をしていることになるんじゃないかと、ときどき不安に思う。
「でもねえ。やっぱり僕らは恋愛とか結婚は無理だなあ、ってどこかで思っちゃうのよ」(略)
確かに一部が不自由で、健常者とは違う。それは否定できない。たった一部が違うだけだが、それを世の中の女性が誰も気にしないかといったら、やっぱり気にする人もいるだろう。一部が違うだけなのに、、大きく人生が違ってしまうことも、あるかもしれない。
それに。万が一、皆が「なにも違わないよ」といっても、本人の気持ちがそう思わなければ、やっぱりなにも進まないし、変らない。それは、一般的な体型の女の子が「私は太っている」「もっと痩せたい」と思ってしまったら、周りがいくら気にしないといっても、「私は太っている」という思いに囚われているのと似ている気がする。
「でもねえ。やっぱり僕らは恋愛とか結婚は無理だなあ、ってどこかで思っちゃうのよ」
このセリフに共感してしまうのは、僕だけではないはず。
社会的に蔓延する対人コミュニケーション不全症。性的スキルや能力について経験不足からくる不安は、異性関係における恐れや怯えをもたらし、戦わずして撤退に追い込む。満たされえない性的欲求が、いきり立つように限度なく膨張し、克己できない腹いせに、生贄装置としての二次元性的文化を益々増長させる。食べたいように眠りたいように、もはや僕らは生贄の恍惚な表情を信奉するしかなくて。僕らはエロいからエロゲーをプレイしたがるのではなく、エロくないからエロゲーをプレイしてしまうのです。エロいやつはもっとすごいコトをやってる。
他の人とどこか一部が違う、自由にならないこともある、それはコインの裏面としての個性。その点を、「貴方らしさ」として好意的に受容してもらえる場合と、障害として否定的に忌避される場合。世の中の女性が誰も気にしないということに確信がもてない魅力ないその個性を、誰もが気が気でなくなるということに確信がもてる魅力あるものとして、華々しくアクロバティックにメタモルフォーゼさせる仮想的儀式を、エロゲーは概念的に執り行っているような気がするんですよね。
内面の弱く性的に未熟な共感的な主人公に、一点の染みすらない完璧な美的肢体を晒すヒロイン。
ヒロインの肢体や反応が(程度の差こそあれ)どれもこれも全く同じであるという定型は、一部が違うという意味での個性を本質的に否定しかねません。自らが一部の違う(欠けた)存在であることを認識し、それを卑下しているからこそ定型的な性的完璧さを渇望し、それが与えられ得られていくことで、かえって、自分の普通の人と違う部分がかけがえのなくダメなものであるという疑いを確信へと導いてしまう、自意識過剰なジレンマ。
性的なシーン、裸と"裸"があらわになりぶつかり合うものであるからこそ、そこには容赦ないほど個性の違いというものが現れていなければならないし、本来そういうものだということ。「一部が不自由」、その事実を「たったそれだけのこと」となんでもないことのように淡々と受け入れ、彼らについて真剣に考えることができる著者はとても"きれい"だ。風俗嬢について"きたない"ものというイメージを抱いていたからこそ、そのきれいさはひどく鮮やかに僕には映り、翻って、僕はなんて"きたない"生き物なんだろうと思わざるを得ません。
生身の女性に対してすら、二次元美少女のごとく完璧な肢体と従順な態度を本然的なものとして既定しているのだから。
温和で傲慢。それが僕(恋愛障害者1級)の本性。
そんな感じで、いろいろ考えてしまうことの膨大な本でございました。(30/100)