Wind -a breath of heart-

Wind ~a breath of heart~ Re:gratitude

Wind ~a breath of heart~ Re:gratitude

個人的には、ヒロインのおっぱいが大なり小なり適切に膨らんでいて、おもらしもなく、しかも新海誠さんのムービーが2編も堪能できただけでもはや御の字の作品でした。
メーカー自ら「未熟な自分達が投影された拙い作品」としているだけあって、確かにずいぶんひどいものです。まず何より、肝心の主人公・丘野真が妙にポンコツ風。周りに流されやすく、浅慮であり且つ何を考えているのかいまいち掴み辛くて、言動が行き当たりばったりなのです。物語に右往左往するあやふやで不可解な彼を視点にした、キレの悪く面白みのない描写は、書き言葉的な長台詞も相まって、学校生活やお約束的なイベント群を見事に冗長化、なんかもうヘトヘトです。ましてや、奇天烈な関西弁野郎を渦中に酸いも甘いも上滑りする味気ない日常が、物語への没入度をいやがうえにも減退させ、ここぞと挿入されるシリアスなエピソードを見え透いた茶番へと貶めてしまいます。ただでさえ動きの全く感じられない戦闘シーンなど、真面目にテキストを読んでいること自体馬鹿らしく思えてきます。
妹のひなたや幼なじみの鳴風みなもは設定的に主人公に好意を寄せているのでまだマシですが、藤宮望・わかば姉妹や月代彩が主人公に思いを寄せるようになるくだりは、古き悪しきギャルゲーよろしく、"好きになる理由"があまりに瑣末で薄っぺらく、ご都合的・結果論的で、その想いが深刻で真剣であるように描かれているほどいっそう気味が悪いものです。濡れ場へ至るシーンはいかにも不自然ですし、そもそも普段から恋愛的(性的)眼差しが皆無な主人公であるにも関わらず、ヒロインに告白されると、「そういえば俺も」とでも言う具合にすんなり受け入れそのままベッドインという、トンデモ調子良さ。懐かしいですね、こういう助平至上主義。
スカートはまだ脱いでいないはずなのにイベントCGではとっくに下着姿で描かれ、室内シーンのはずなのに突拍子もなく空が表れたりといった、テキストとグラフィックの食い違い(違和感)。死に瀕している人を抱きかかえながらベラベラとひとり喋りまくり、海で溺れ人工呼吸を施されて九死に一生を得たヒロインがそのまま夜のバーベキューを楽しんだりするといった、現実感覚と乖離したフィクション。はてはヒロインとの恋愛その醸成過程をプレイヤーの妄想に"委託"、前提にし去ってさっさと物語のテーマを突きつけようとする子どもっぽい不躾さ。
それらに見え隠れするのは、モノの限度や他者との連携に構わず、全体としてのバランスやプレイヤーの気持ちに思い致すことのないまま、自分たちだけで共有しているメッセージただそれだけを掲げて突っ走る、そんな誇らしげな無謀さ。作品として他者や当事者を思いやることなしに、物語として「想いの力」とやらを素っ頓狂に叫んだとして、それはいったい"誰"の心に届くというのでしょうか。
そんな若くほろ苦い価値観に、今でも輝きをもって通用しているものがあるとすれば、それは残念ながら新海誠さんによるムービーであり、そのディレクションの余光に預かるかのような背景グラフィックのクオリティくらいのものでしょうか。懐かしさすら感じさせるありふれた人工物と、やさしい影と、心地よい風、人々をとりまくゆるやかな営みを鮮やかに観照する、過去・現在・未来を不変に貫く雲、空、そして光。つまり照らし出されているのは僕らなんだという親近感のある感慨が、感動が、まぶしくてくすぐったい。何度繰り返し見ても心が洗われて止まないのは、再生する都度(今)"照射"されているからなのでしょうね。

「人が一生につかめる事実なんて、少ないものさ。何が真実で、何が偽りなのか。それを選び出すのは、とても大変なことかもしれない。でもね。僕たちが今、目の前で見ていることは、肌で感じていることは真実だ。それと過去の歴史を照らし合わせて……そして、考えていくしかないんじゃないだろうか?」

Wind -a breath of heart-」という作品を偽りだとして非難するつもりはありません。新海誠さんのムービーを真実だとして信奉するつもりもありません。ただ、当事者でありプレイヤーである「僕たち」が、「目の前で見ていること」、「肌で感じていること」、つまり僕らがどこにいて、何を体験しているのかというあられもない事実を、前者は取りこぼし、後者はつかんでいるということ。その違い、その真実を、僕は僕で過去というほどでもないこの作品から今さら選び出し、今さら考えているのでしょうね。
そして僕がこの物語で真実だと思ったのは、かの有名な鳴風みなもの壮絶な告白シーンと、鳴風みなもお手製弁当(初期型)の壮絶な酷さです。満足ですか? 秋人おじさん。