詰め襟も着て燃焼 53歳元教師高校卒業 秦野の田中さん 神奈川総合産業高で「再度勉強」

読売新聞の地方版より(ちなみにこの記事は5日の朝には消失しているでしょう)。「おじさん」の後ろから肩に手をかけている古き良きヤンキー然とした若者がいい味出していて、気に入ってしまいました。元教師の田中勝雄さん(53)は、高校時代を不登校で満足に送れなかったことを後悔し、「もう一度高校に行く」と決意し相模原市内の技術高校に入学し、この春卒業を迎えました。

通学は住まいのある秦野市から、小田急線で片道約1時間。詰め襟の学生服だと目立ち過ぎるため、カバンに制服を詰め込み、校内で着替えた。渋谷のコギャルとは正反対の生活だ。

後悔というのはたいてい、取り返しのつかないことについて思うものです。田中さんにしてみても、不登校によって失われてしまった年齢相応の何か(青春的なもの)は、もう取り返しがつかないもの。それは事実です。
けれど、取り返しのつかない事実というものが確かにあるとしても、取り返しのつかない後悔というものはないんじゃないかなと、この記事を読んでいて思いました。歴然とした事実が、定められた公式によって導かれる質量の後悔を人にわきおこさせるのではなくて、後悔は、そうしようと本人が決意して始めて"する"ものであって、その主体は事実そのものではなくて、人自身なのだと。人が、後悔せずにはいられないような事実を、後悔することによって、後悔する。
それはあくまで本人の心理問題であって、だからこそ「君が望む永遠」の鳴海孝之はあそこまで嫌われている。つまり、同じ事実に対し人によって後悔の質量が異なるということは(後悔の質量なんて比較不能だけれども)、後悔するのをやめようと本人が決意すれば、ただそれだけで後悔はなくなるという仕組みになっているのだということです。
人生はやり直せる、取り返しの付かないことはないという思想。それは、時間とは過去へと永遠に失われていくものであるけれども、同時に未来へと延々に得られていくものであり、そもそも後悔に関する事実とは、人との関わりなしに歴然と"有る"本質的存在というより、人との関わりによって主観的に"見る"観測的存在であるだろうから、大半のパーセンテージが人の"思い込み"等主体的な精神のやりくりによってどうにかなるものなんじゃないかと、そういうことなのかなって思うのです。
それは確かに自己満足的な慰めに違いないかもしれない。現実逃避の謗りを受ける場合も多々あるでしょう。そもそも後悔というものが本人の精神的損害だけではなく、他人に実害を与えている場合もあるのだから。けれども、詰め襟の学生服をカバンに詰めて登校して、校内で着替えるという"作業"は、一種の"思い込みのための儀式"、傍から見ればただ滑稽なそれは、同年代の教師と子どものような若者たちに囲まれて、いかにも晴れ晴れしく善良そのもの。
年をとるほどに、思うことと為すことの距離が加速度的に開いてゆくのを最近妙に体感しています、そう、首の後ろが震えるみたいな……。今さらだけど世の中にはすごい人がいるものですねえ。