タクティカルロア 10-11話

タクティカルロア
 放蕩オペラハウスさん(http://www.h-opera.com/200603b.html)の記事で「パスカルメイジ程度の大きさな艦が対艦魚雷を喰らったらどうなっちゃうか。」http://diodon349.com/Torpedoman/TM_Stuff/power_of_the_mark_48_torpedo.htm
 アニメ(特に萌えアニメ)で「戦争」を扱うことの限界がここにあると思うのでした。
 「タクロア」のあの路線、萌えがなけりゃそりゃミリヲタしか見ませんからああいう感じになるのはしょうがないと思うし、僕もそれは許容していたのですが〜やはり今回の話は「戦争」を萌えアニメで扱うことの限界を感じた感じです。
 もっとも「人」らしさを前面に押し出さなければいけない「恋愛」と、最も人間的感情を押し殺すことを求められる「軍事」という側面、作中キャラクターのみならず製作陣がこの融合しようのない齟齬に直面するさまが、まさに違和感という形で表されてしまったというか〜…
 わかりやすくいうとシュークリームを食べていたつもりがいきなりクリームの中に栃木名物しもつかれ(何のことかわからなければ「しもつかれ」でググって見てください)が入っていたかのようななんとも言えない「醒めた感じ」を味合わされてしまったというか〜…
 それでも、これから先どう展開していくかは楽しみなのであいかわらすタクロアは見ると思うのですがね。
 今更ながら
 やはり
 アニメって
 面白!

haru-nico警備保障の一室でパスカルメイジの被害状況(死傷者数)を、担当の人が読み上げているシーンで初めて、死そのものについて最も適切に感じられたような気がしました。死亡フラグという筋違いの因果がその死に対する受容体制をしつらえ、残された人たちが悲しんだり悼んだり、その死を心理的に重大な損失として認識し精神生活に支障を来たしているシーンを、"与えられる"ことは、それがかわいい女の子たちまつわるものであるという限りにおいて、僕にとっては本当に救われることです。
なにしろ、あの戦闘で死んだのはパスカルメイジに乗っていた5名だけじゃなく、旗艦は真っ先に轟沈し、多くの艦も甚大な被害を受け、それらに搭乗していた可愛くもなんでもない男性死亡者を中心として、多大の人的損害を出したことでしょうから。
人の死というものを、人的損害という数値に置き換えられたステータスのひとつとして認識することこそが、軍事であり戦争だとしたら、他人が死の感傷を差し挟まれる「タクティカルロア」という作品、その彼女たちの心の変化を主軸にしたストーリー、いっさいをつかさどるパスカルメイジは、そもそも戦争も軍事もしていないのではないでしょうか。その上で、人らしさが前面に押し出される「恋愛」を謳歌しながら、感情を押し殺すことを求められる「軍事」を遂行する彼女たちパスカルメイジは、その設定自体が"ツンデレ"であり、ありよう自体が"萌え"なんじゃないかと思うのですよ。
戦争しているんだから恋愛なんてしていられないという思いと、戦争しているんだから恋愛くらいしたいという思いを自由に行き来できる機能性優れた"ツンデレ"と、艦員は全員幼い〜若い女の子、艦長は優秀だけど恋愛は苦手な姉という"非現実性""非親近性"の混濁と遠近感喪失がもたらす、まさに"萌え"そのもの。パスカルメイジがそれとしてお海にぷかぷか浮かんでいるだけで、それ以上の、どこかで見たことあるような展開に大した意味はないんじゃないかと思えてくるくらいです。
護衛艦、あるいは戦争・軍事といったミリタリー的要素は、結局のところ美少女が使いこなす拳銃や、操舵かんに過ぎなくて、大した反動もなく拳銃を軽々ぶっ放つ美少女を誰も不審に思わないように、思っても仕方がないように、それは不審に思ってはいけないことなんじゃないかと思うんですよ。それが視聴者の最上の思いやりというものです。善意です。「思ってはいけない」といったところで、それはどうにもならないことなんですけどね。
僕はミリタリーに関しては全く知識がないので、てすたさんのような違和感も醒めた感じも抱きませんでした。原作既読の視聴者と、未読の視聴者の違いのようなものでしょうかね。そういう意味で、僕は原作を徹底的に読まない派であることは(放映中に「放映後に読もう」と決意しても、放映が終わってしまう頃にはその決意自体忘れている)、案外幸せなことなんじゃないかと思っているわけです。