planetarian 〜ちいさなほしのゆめ〜

planetarian ~ちいさなほしのゆめ~ 初回版

planetarian ~ちいさなほしのゆめ~ 初回版

僕がどうして「planetarian 〜ちいさなほしのゆめ〜」という作品に抜き差しがたく惹かれてしまうのかといえば、いささか逆説的かもしれないけれど、それが自分にはどうにもできない世界と、物語であるからです。
http://d.hatena.ne.jp/tsukimori/00000009
ひややかに残酷な世界の実相と、あどけなく幸福な自分の夢(願望)。その両者が隔たっていることはいわば当然の仕様(リアル)で、それらを近づける、あわよくば結び付けてしまう荒業こそ、ギャルゲー・恋愛ゲームの拠って立つ存在意義です。普通ならおよそ手の届かないあの子を自分に振り向かせる、それを叶えるのがギャルゲー。叶えられることの理由付け(根拠)は、ご存知の通り選択肢や繰り返しプレイなどのゲーム性(操作意思)が代替し、ありえない近未来のありようをプレイヤー内面で正当化していくきっかけともなるわけです。
しかしこの「planetarian 〜ちいさなほしのゆめ〜」という作品にとって、プレイヤーはただ頁を読み進めることしかできず、主人公は決してヒーローにはなりません。二重の意味で操作意思を受け付けず、沈黙し続けるゲーム。結末は全く夢(願望)のようにはならず、ちっぽけな思いすら現実の切っ先で虚しく散り果てる。叶えられないものと打ち砕かれるものしかないありさまに直面して、僕らの内面は持て余してしまうのです、深刻なまでの痛切さ、承服できないもどかしさを。
恋なり人生なり何がしかを確かに主張するヒロインや主人公について、共感するのではなく、救いようのない圧倒的な事実に思うことすら十分語られなかったヒロインや主人公について、プレイヤーが想像する。そうでもしなければまったくやりきれない。この「planetarian 〜ちいさなほしのゆめ〜」という作品について、ゲーム性があるとすればまさにこの点であって。選択肢や繰り返しプレイといった"ゲームを管理する"というタテマエ(ゲーム主体)をしつらえなければ共感の糸口を提供できない既成の作品から反転し、プレイヤー主体のやり場のない感情(悔しさ)を確信犯的に抽出し、そこから思想的なテーマを掘り起こし、揺り動かそうとする構図、そして意図。このしたたかでしなやかなゲームデザインに僕は惚れてしまったのです。
それはそうと、声が入ることでロボットとしての彼女の存在がより深められたような気がしました。お喋り好きなほしのゆめみとしての愛嬌ある個性と、義務的なメッセージを発するロボットとしての役割が、演技的に明確に区別されていたこと。これはテキストだけでは十分説明できない部分だったので、興味深くかつ当然の配慮でした。エンディングに「ほしめぐりの歌」というボーカル曲が新しく当てられたのも純粋に嬉しかったです。
そして初回限定版同梱の小説は、ほしのゆめみ導入当初の回想エピソード、教会を舞台に悲壮美溢れるロボットと狙撃手の対決を描いたアクション物語、ほのかに灯る地球の未来に星の夢を注ぐ主人公の後日談、そして世界の終焉と転生を思索的に描いた4篇で構成されています。特に、編2と3の巧妙な繋がりにはうならされました。残酷で幸福な因果と、挿されなかったメモリカード……。
主人公は、ほしのゆめみの記憶と人格を受け継いだロボット蘇えらせたかったわけじゃない。あまつさえエッチなことに及びたかったわけじゃないんです(き、決まってるじゃないですかそんなこと!……)。

 胸の前で手のひらを合わせ、なにか大事なものを包むようにそっと握る。誠実で誇りに満ちた台詞、やさしく繊細なしぐさ、そしてはにかんだ笑顔。

主人公も、そして僕もそんな「美しい無窮のきらめき」、"ちいさなほしのゆめ"を大事に思ってきたのです。だからこそ、老人は小さな少年のようにはにかみ、彼女は年頃の少女のようにはにかんだ笑顔を見せてくれている。今回描き下ろされたパッケージビジュアルは、あまりに安易であまりに愛おしいこのビジョンは、まさしく彼と僕にとって、本当にささやかで嬉しすぎるハッピーエンディング。

邪気のかけらもないそれらは、この世界ではどうに滅んでしまった貴重品だ。たとえそれが、プログラムで仕組まれたまがいものだったとしても。

僕は恋愛ゲームをプレイする。僕らは美少女ゲームから抜け出せない。主人公とほしのゆめみ、人間とロボットの質的な差異、終末的な現実世界と星空輝く夢想世界という「planetarian 〜ちいさなほしのゆめ〜」に込められたいくつもの対立する位相は、環境問題や戦争といった現世的で露骨な問題意識を眼差しているというより、ごく単純でありのままの僕らの身勝手な(例えば)性的願望を、皮相的に際立たせ、あえて悲劇に落とし込むことで"貴重品"を澄みきって湧出させるための"装置"、だったのではないでしょうか。
思えばプラネタリウムとは、真っ暗闇に光を映し出す装置。本来その星光は外から照射されるものではなく、暗闇の内に息づいているものではなかったか。その貴重品はとっくに自分たちの心のうちにあるものではなかったか。
無垢で美しい存在を汚すことを望む衝動を、プレイヤーの操作意思もろとも二層構造が遮断し、それはキラキラと音を立てて反照する、それが強烈で根深いものであったればこそ、彼女はあまりにも無垢で、途方もなく美しく、貴重なものとして映っていくのです。そんな得がたい彼女を"汚した"のは、他ならない世界そのものであって、いわば不条理(未来)にほしのゆめみという夢の貞操を"寝取られた"僕らは、透徹した憎悪をもって不条理(今日)に"復讐"することを決意するのではないでしょうか。そうするしかないのではないでしょうか。

 「天国をふたつに、わけないでください」

空想の中で現実を想像する、ロボットの中に心情を感じる、ゲームの中から壮大でちっぽけな幸せを模索する。
目を閉じた主人公のまぶたの裏に投影される素晴らしき記念投影は、作品世界で地球に見捨てられた人間ついての直喩であり、今日世界でディスプレイを凝視する僕らについての隠喩であるのでしょう。目に見えない、存在するかどうか定かにできない事柄の象徴である天国を、ふたつにわけないでくださいと訴えるほしのゆめみ。それは僕らに、目を閉じまぶたの裏に映り込む"記念投影"を、その像を、目を開けて見える外の世界と区別しないで欲しい、映し出して欲しい、同じように存在していることを信じて欲しいと、夢見ているのです。その儚いしぐさ、モーターの無機質な駆動音を伴った可憐でやさしい残像を、僕らは改めて胸に刻まなければならない。
ああ、それにしてもパッケージに描かれているゆめみちゃんはなんてかわいらしいんでしょう。

 彼女を造った技術者や職人たちは、いったい彼女に何種類の表情を設定したのだろう?
 今、彼女の瞳はしあわせで輝き、頬はうっすらと赤らんでいるようにさえ見えた。

彼女が表情を変更するのではなく、変更される以上に、僕らが彼女に表情を見ている。心情を注いでいく。夢を受け継いでいく。これはつまり、恋、しているんですよね? まず間違いなく。
ちいさなほしのゆめに恋をする物語。僕らが醜くよこしまであるほど、その恋は清らかで美しい。酔うように、恋するように、夢を追い求めてこれたのなら、きっと幸せだったろうと、今は安らかにそう思うのです。