月に1度の朝刊休刊日は、なぜか不安になります。
僕が一日に得る社会・公共情報の大部分を占めている新聞というものを、まったく読まずに過ごさなければならない一日は、社会から孤立してしまったような、大学に着いてみたら休講だったときのような、拍子抜けする空疎感がけっこう居心地悪いものです。胃に内容物がないと酔いやすいように、月曜ということもあり胃(気)が重いことといったら…。
情報的にも、知識的にも、そして精神的にもずいぶん新聞に依存していたんですねぇ。
でも、読むものがないからといって鞄にいつも入れている小説を、朝から読もうという気にはなりません。どうしてか、新しい一日が始まった直後からフィクションの世界に意識を潜らせるのは、さすがに現実というものに対し失礼だし、新鮮な世界をおろそかにするのはもったいないし、理屈じゃなく気がそぞろになってしまうんですね。サークルの新刊や下ろしたての女性用下着にはそれ相応の敬意を払わなければいられないのと同じことです。
だから、小説を読むのは帰りの車中と決めています。それなりに疲れて、もう帰ってお風呂入ってご飯食べて寝るだけという、夢も希望も(タテマエすら)入り込む余地の費えた時間帯は、空想に浸るのに非常に適しています。いまさら現実について考えてみたって、お風呂で体のどこからを洗うか検討するのも馬鹿馬鹿しいし、何時までに寝なければならないかを考えても気が滅入るだけ。
それならまだ、小説のなかのヒロインがお風呂で体のどこから洗うのか検討したり、どんな格好で就寝するのか考えたほうがより夢や希望があります。それがたとえ実体のないものであっても、冴えない予定調和しか残されていない現実の残量を気にするより、はるかに前向きなことだと思うのです。心にとって。
朝は、新聞紙面の先に覗く車窓の風景。
夜は、小説頁の先に覗く女生徒の面差し。
心は、混雑した現実と混濁した空想を巧みに回遊してゆくのです。