ゲームを学術的に考えるにあたって、自己完結型(独りよがりの域を出ない)の体験を語ることが差し控えられなければならないということはわかるけれども、そのスタイルでどうして、「プレイヤーという存在」というテーマについて学術的に考えることができるのだろう? というジレンマを、僕は無視できないでいるのです。
「プレイヤーという存在」というとき、そのプレイヤーとは、暗黙のうちに論者自身のことではないのですか。観察対象としての第三者群(データ)と、演出・ゲームデザイン論。前者であるのだというなら(そういうデータがあるというのなら)それはずいぶん滑稽であり、後者であるならそれは「プレイヤーという存在」というより、製作者側が任意に想定する「プレイヤーという規定(枠)」をめぐる議論でしょう。
それは決して存在のことじゃない。存在というのはそもそも自意識であって、データや技術論として取り出しうるものじゃないはずです。プレイヤーが存在するという現象は、クリエイターが制作するゲーム以前の性質で、上位(根本)の概念で、ゲーム自体は僕ら(プレイヤー)にとっての後付けでしかない。この場合、プレイヤーの存在ではなく、存在しているのがプレイヤーなのだと言い改めることをお勧めします。
僕らはまず何より主観的なプレイヤーとして存在しているのだから、もっと素直にならなければいけません。理屈でなく、自分が思ったこと・感じたことを恥かしげに意識しつつ、客観眼と知識・見識と発想力を総動員して理路整然と論理を突き詰めていって、最終的に、理屈じゃないと思っていたその"感想"を正当な思想であるとして堂々と肯定できることに、ひそやかな喜びを見出すのではなくて。
理屈でなく、自分が思ったこと・感じたことを真正面からきちんと捉え、その理由を自らの思考・思想(特殊)より着想し、そこから客観眼と知識・見識をもって地道に修正・補強していくことで普遍性を獲得していくことのほうが、より共感的な学術になるのではないかと思うのですね。共感を必要としないというのなら、それはそれでいいのでしょうけど。
ゲームを学術的に考えるとき、僕はやはり「論者はまずプレイヤーであれ」ということを忘れないで欲しいんですね。そうでないと、少なくとも僕がつまらない。プレイヤーとしての自分がゲームをセットして、ゲーム機の電源を入れて、操作しようとしなければゲームはいっさい成立しないということはつまり、体験を強要しているわけです。だからこそゲームという学問は、(それが成立するとして)机上の空論がありえません。体験しなければ成立せず、成立させなければ語りえない学問だからです。
まぁ僕にしてみれば、自らの体験を語ることが遠慮されるべきゲーム論というものとは、今後あまりお付き合いしたくはありませんね。それはやはり、つまらないです。