30台爆走開始の狼煙が上る、今日は僕の誕生ビバ。FUJIYAで自分のバースデイケーキを購入(苺ショートとモンブランを2個ずつ)、それが僕のリアリティ。
ちくしょう、記念日ミラクルをもってしてもPS2は起動しねえ。誰か買えよ。買ってよ。譲ってくださいよもう…。

「生徒に制服を強制するのは彼らの自主性を軽んじている」
というような意見をたまに聞きます。それは確かにご尤もだと思うのだけれど、僕はどちらかというと、強制された物事、限定された世界においてこそ愛着や、思い出は美しく結晶するものだと思うんですよね。
社会に出れば結局、着る物は自分が選択しなければならないし、学校のように限定された世界はその扉を開放し、もはや自身が思ったとおりの世界へ赴くことが可能になります。自分が自由に選べるもの、それは逆説的に「それでなくてもいい」ということでもあり、その融通の利きやすさが返って、そのもの自体への愛着や、思い出の契機を弱めてしまう。
「なんでもできる」「どこにでもいける」ということは、つまり「なんでもいい」「どこでもいい」ということであり、それは無限の未来であると同時に、際限のなさということでもあります。僕らの認識能力や心は結局、なんでもかんでも捉えられないし、どこまでも伸びていくことはできません。
果てしなく広がる海原や、星空といえども、それについての僕らの認識は、ひとつの波間であり、ひとつの星座。僕らは限定することではじめて、そこに情緒を感じることができるようになるのです。
自主性は大事だし、個性や選択性も尊重されるべきではあります。とはいえ、いえだからこそ、制服は制服であるがゆえに将来にわたり愛着をもたらし、学校は学校であるがゆえに将来にわたり思い出を美しく輝かす。自主性や個性、選択というものがその本質(宿命)として、他者・候補との比較・併存において意味を成すように、人生は関係にあって限られているからこそ、美しく、そして貴重たりえるのではないかと思うのです。
見えるということ、視野。その限定から僕らが思うことが、限定されずにはおれない。人の一生が限られたものであって、そこに永遠があるとしたならそれは感ずべきもの。感じることだけが限定を解き放ってくれます。つまり、僕らは女子中高生の制服に感じ、学校生活に感じるとき、美しく貴い。
僕らはその象徴について、時を隔て、代替であったとしても、感じようと試みるとき、自らを美しく、貴きものとして自惚れることができるのではないかなと考えるわけです。そう、そんな気障な感性は、主観的な自惚れにおいてくらいしか、ひとときの実効性すら得られないものだから。