階段を使って訓練しているおばあちゃんの脇を「ちょっとごめんなさーい」と小走りに駆け上がっていくときに罪悪感を抱かない程度に、僕は自分の人生を世界のなかで堂々と存在させたいんですよ。「そんなものか」という「そんな」んでまったく構わないので。むしろそれこそ望ましい。
たとえば、見るからに半人分しか空いていない電車の座席に、成り行き上無理矢理座り込まざるをえず、「ごめんなさい、すいません…」と謝罪の言葉を連発しているような生き方は、身体的にはともかく精神的に辛いので。
呼吸するように謝ってばかりいることや、不必要に罪悪感(居たたまれなさ)を感じるのは、他人(相手)というよりむしろ、自分自身に対して失礼なんですよね。「お前は他人様のつもりか」と。他人に責任を取らせるつもりなのかと。
ああ、頭で考えるだけで済ませられるならば、どんなにか楽だろう。それはきっとアホみたいに幸せ。頭で妄想するような美少女が2次元上に現出され、悪びれることなく一般商業を謳歌しているように、僕らは、考えるだけで物事が解決するという妄想万能願望を、こびりついた思考の癖を、にわかに拭い去ることができなくなっているのではないでしょうか。
「そのうちどうにかなるだろう」と思えるからこそ、ニートニートであることを自認することができる。そのうち(希望的未来)と、ただいま(断定的現実)の区別(けじめ)ができないのは、僕とて同じことなんですよ。口で言うほどに僕は、自分の真剣さと現実感覚を信じたことなんて、一度だってありはしないのだから。