言いたいことが言えない人―「恥ずかしがり屋」の深層心理

恥かしがり屋を自負する自分にはまさに痛恨の一冊。慰みの論理をいっさい廃した断定的な短文の羅列がいっそう心に食い込みます。ぶっちゃけ、ダイブシステムで深層心理にダイブしたライナーからレポート報告を受けているような気分。ちょ、どじょうすくいさせられたとか言うなよなw

 恥かしがり屋の人はいままで人一倍頑張ってきたにちがいない。
 しかし認めてもらえなかった。そればかりか失敗したときには親からさえも叱責されてきた。
 だから失敗するのが怖い。人が怖い。
 そこで今までの失敗のつらさを再体験することを恐れて、何事にも消極的になっている。
 「うまくいかなかったらどうしよう?」と小さいころからいつも心配だった。
 何をするのも、自分が試されているような気がして心配だった。
 そうしたら自分が嫌になるだろう。
 自分が自分をもてあますだろう。
 相手も自分のことをもてあますのではないかと恐れる。
 相手が自分といて楽しくないだろうと思う。そして、自分が楽しくないことを相手は察知するのではないかと恐れる。そこで申し訳なくて萎縮する。
 また、そう恐れれば恐れるほど相手に卑屈にならざるをえない。
 そして相手に迎合したり、相手に迷惑をかけてはいけないと恐れてビクビクする。

人が恥かしがり屋になる原因をほぼ成長過程における家庭環境、つまり親の態度に求めている点は、そういう面があるのは否定できないだろうけれどいささか粗雑でうさんくさい。子どもを褒めずに叱る、安心感を与えていない、父親が権威主義的であったから恥かしがり屋に育ったというようなコメンテーター御用達の安直な因果論や、エディプス・コンプレックス、プロメテウス・コンプレックスといったローカル線沿いの畑に設えられた錆だらけの看板のような学問的根拠は、にわかに肯うことはできません。
確かに自分自身、この恥かしがり屋な性格は親のせい(失敗)だろうとは思っていたけれど、そうまで潔く断定できるほど無邪気に責任転嫁はできないですよ。僕がこうなのは半分くらい自分のせい。それはもうしょうがない。反抗期に(親のほうがよっぽど反抗的で)反抗できなかったとしても、それはあくまで自分のことですから。自分のことを親のせいにできるほど僕のプライドは安っぽくないですもん。(そのつもりですもん)
ただ、この本は僕にとってとても痛く、ほっと嬉しかったというのも事実。原因(悪の張本人)はともかく、論理(弁護士)として、どうして恥かしがるのかということを分かりやすくテキスト化してくれた。「こうこうこういう理由であんたは恥かしがっているんだろ。そうなんだろ? ああ、わかってるんだよそんなこと」、ぶっきらぼうだけれどどこか温かいこの本の、読者の共感リングがきっと広がってゆくのだろうと想像するだけで、とても嬉しい気分に浸れるんですよね。
恥かしがり屋の自分が、これまで漠然と恥かしいと感じていた部分を簡潔に明快に整理し、自分に提示してくれたこと。それは僕にとって何にも代えがたく有り難い。「失敗するのが怖い」「他人から評価されるのが怖い」「断られるのが怖い」「親しくなるのも怖い」。実際ここのブログにコメント欄が設定されていないのも、この中に理由が求められます。ここには僕の本性が書いてありますからね。拒絶されることの精神的ダメージの深刻さは想像に難くないもので。
相手が怖いから相手の言動に迎合し、一方的な依頼でも即座に受諾し、移ろう態度にオドオドする。「そうか、僕は恐れていたんだ」、そういう気づきを与えてくれたことに感謝すらしているのです。何に恐れていたんでしょう、不安を感じていたんでしょう。それは正直まだわかりません。エディプス・コンプレックスとかプロメテウス・コンプレックスとか、ちょっとしょっぱすぎです。でも、例えば誰かと話をしていとき、前で発表しているとき、いつものように恥かしく感じ始めたときに、「僕は恐れている? いったい何に恐れているのさ?」と自身に問いかけることができるということは、きっと意味があると思うんですよね。
他人は嫌い、居心地が悪いし、心の底では信用していない。けれど本当は自分自身が一番居心地が悪く、信用ならない。自分のことが嫌い。だから僕はまず、僕を好きになることから始めなくちゃ。ああ、まさに「それなんてエロゲ?」
とはいえ本書に言うとおり、「君の家庭環境は酷すぎた。ぶっちゃけ最悪だった。けれど君は反社会的にならずまともに育った。良い家庭環境に育った奴らと比べればその時点でめちゃくちゃ素晴らしい。理想的でない環境を乗り越えた人こそ偉人。君には価値がある、『神から愛されている』んだ!!」(意訳)といわれて、「あ、ありがとう、ありがとうっ!」涙に咽びながら抱きしめあうことは、できないけれどね。