他人を見下す若者たち

他人を見下す若者たち (講談社現代新書)

他人を見下す若者たち (講談社現代新書)

災害現場のニュースに触れて僕はふと思うことがあります。「もし僕がどんなにひどい災害にあっても、たぶん絶対ひとりだけでも生き残れる」
映画とかで銃に撃たれるシーンを見ると僕はふと思うことがあります。「もし僕が銃に撃たれるとしても、きっと絶対不思議な力が働いて銃弾を弾き返してくれる」
少女を監禁した罪で男が捕まったというニュースを見ると僕はふと思うことがあります。「もし僕が少女を監禁するとしたら(削除)幼女と交換(削除)」
仮想的有能感というのは、「仮想」を「妄想」に置き換えるときっとオタクの間では普通に感じていることなのではないかと思いました。二次元美少女界を観察していて、「僕ならこうする、僕ならできる、僕ならハッピーにできる」と思えるからこそ、同人誌が生まれて、エロゲーが生まれて、あらゆるメディアに伝播していく。そうして実に多角的なまなざしから、努力せずオンリーワンになれて言いたいこといえば美少女達にちやほやされる「暴走する自己肯定感」が提供され、金が続く限り満喫することができるのですから。
そこに他者軽視があるとすれば、主人公以外の男子クラスメイトのことであり、それは存在すること自体隠蔽されているから、あまり意味はありません(他者軽視というより、他者削除)。そもそもちっこいディスプレイに「他者」なんて邪魔っちいもの入れっこありませんものね。道理です。
事件の首謀者から事故の加害者、総理大臣から雅子さままで見下せるものは何でも見下すメディアの視点と視聴者の視線。芸能人は下手に頭がいいよりも上手く馬鹿であるほうが人気(ギャラ)は高いわけで。なんてあさましい世界。僕らはキレイゴトだけでは生きていけませんから、それがジャストフィット。素晴らしい方々を見上げてばかりいては首が疲れますが、愚かな方々をいくら見下ろしていても首は疲れません。結局、社会が2極化していった結果、上のほうは全然見えなくなりましたから、もはや下を見るしかしょうがなくなったということでしょうかねえ。
「自分が経験したことのない領域や、自分に対して評価の定まっていない領域」、あるいは自分と関わりのない他人や大衆をネタに、無意識的に他者軽視を実行し仮想的有能感を得ようとするのは、ある意味健全な精神のありようではないかと思います。人は自分が悪であるという認識に耐えられないように、自分が無能であるという認識に耐えられない、精神を病んでしまいますから。現実問題として、自分のいいとこを見つけ出し認定するスキルが不足している以上、他人を能なし認定していくしかありませんよねえ。
人は常に他人との優劣を測りながら関わりあっているという無意識下の習慣を、意識に取り上げることがここでも重要になってくるのでしょうか。自分の自信がどこから持ってきたものなのか、何に依拠しているものなのか。そこで、仮想的有能感という実のない自己肯定を根拠に社会を渡り歩こうとし、フリーターなどとしてある程度成功してしまえる社会システムが、他者軽視に伴う仮想的有能感をいつまでも、実質的な有能感(自家発電の自信)へ転移させるのを妨げているのかもしれません。
けれど、自分のいいとこを探すのではなく、相手の悪いとこを探して自分を浮かび上がられるという手法は、言葉通り不安定な自己肯定であって、相手との信頼を損なう態度であって、やっぱり胸くそ悪いです。自分のいいとこをちゃんと自分で見つけられてきちんと認定できる(他者に説明できる)そういうスキルを、教育によって身に付けさせていかなければいけないということなんでしょうねえ。
自分のいいとこを知っているから頑張れる、努力する、その苦労が分かるから、共感が生まれ、自他を等身大に評価でき、他人を尊敬することができるようになる。見上げることなく、見下ろすことなく、同じ目線に全ての人がおさまるような、そういうぬくもりの地平が恋しいですよねえ。