感じない男

感じない男 (ちくま新書)

感じない男 (ちくま新書)

射精した後に訪れるなんともいえない空虚感。これを不感症であると定義した筆者は、「女が感じるような快感をけっして味わうことができないという、どうにもならない敗北感」と、「どうして女にだけあれほど豊かな快感が許されているのだ、という怒り」、怨念とでも呼べる深い情動を元に男は、「女の快感をコントロール」し、「女の体を支配するときの優越感を持って、自分の不感症を帳消しにしようとする」のだという。それは「一種の癒しの感覚」であると同時に、「感じる女をもっと見たい。それを見ることによって感じない私をもっと痛めつけたい」というマゾヒスティックな、「ダメな自分を憐れむことのとろけるような快感」とも解釈している。
どうして男という生き物は、汗と汁のにじむような努力とエネルギーを注いで、他者に過ぎない女にああまでして快感をもたらそうとするのだろうという積年の疑問に対して、ある解答を与えられたような気分です。生理や出産の痛みの補償として女性には豊かな快感が用意されているのであって、そういった痛みから無縁である男性はその分、快感が少ないのだとなんとなく理解していたけれど。それだと男性が性力つけてテクニックを磨いて女性をいかせることの説明がつかないわけで(そういう本能だからというのでは人間として悔しい)。男性は性的に女性を支配(コントロール)すること(幻想)から得られる快楽と、支配を通じた共感によって女性の快楽を(幻想)拝借した気になっているということなんでしょうか。
ロリコンの原因は、ロリコンが自分の体を自己肯定できないところにある」、だからこそ豊かな快楽を通して自己肯定するためにも、男性は「自分の体から抜け出し、少女の体の中に入り込むことによって、自分自身の体を心の底から愛したい」のだという指摘、特に「美少女の体を着たい」という表現は突拍子がないようでずいぶん正鵠を得ているような気がします。
「男の身体は汚いじゃないですか!」。その汚い体を美少女に愛してもらうことで溢れてくる、とめどない愛おしさですら打ち消すことのできないある種の申し訳なさ(自分を愛することで美少女が汚れる、汚すのではなく、汚れるということの嫌悪感)は、自分が美少女になることでしか拭えないというわけです。
それは本田透さんの「萌える男」で取り上げられていた「処女はお姉さまに恋をする」から、純然たる百合モノ、「ONE〜輝く季節へ」のエピローグに至るまで、男性は、実は常から女になりたがっていたのではないでしょうか。寝取られゲーにしたところで、自分の彼女を他の男に寝取られるということの憤りが、自分の彼女=自分のモノ、つまり自分(女)が男に犯されるということの豊か(らしい)快楽を狂おしいほど高めている。自分が犯されている想像を想像して興奮する、そこには際限のない自分と歯止めの利かないじぶんしかいません。
銀盤カレイドスコープ」を読んでいて思ったのだけれど、男はきっと、女の身体に乗り移ってセックスを味わったその感動を、男の視点から説明して欲しいんじゃないでしょうか。どれくらい「すごい快感」なのか、それとも大したことないのか(演技だったのか)。科学によって神がいなくなったこの時代、性の神秘も白日の下に晒されたとき、いつの時代も深刻であった愛の束縛(しがらみ)を脱して、男と女は本当の意味で自由で対等な存在になれるのかもしれませんねえ。

キッド:負債額約5億3000万円、自己破産申請へ

今、ひとつの時代が終わりを告げた。
僕にとっては確かに「キッドギャルゲー時代」というものが存在した。
「She’sn〜シーズン〜」の特典でもらった下着姿のテレカは額縁入りで今も大切に保存していること、
「バーチャコールS」で始めて自分の名前を呼んでもらった感動はゲームのくだらなさで吹っ飛んでしまったこと、
「KISSより・・・」なんて未開封のまま売りに出してしまったこと、
Memories Off」のみなもシナリオをクリアして即座に骨髄バンクに登録しにいったこと、
輝く季節へ」で初めてゲームに泣いたこと、ゲーム音楽に惚れ込んでしまったこと、
「infinity」の初期ロットを交換してもらったけれど年上女に興味ないからってそのまま放置してあること、
夢のつばさ」で僕の永遠の嫁さんである深山勇希と出会えたこと、
「Screen」で初めて妹に萌えるということのスバラシサを教えてもらたこと、
「てんたま」では主人公よりも親友とその彼女の仲を応援していたこと、
「KID MIXセクション」をずっと「KID MIXセレクション」だと思っていたこと、
「クローストゥ〜祈りの丘〜」のホットオレンジは大して美味しくなかったこと、
「マイ・メリー・メイ」では大ラスで想像もしなかった痛みを覚え、
「マイ・メリー・メイビー」は感動的なボーカル曲も含め棺おけに入れてください、
「ミルキィ・シーズン」で今は亡き高次元先生の原画を堪能したこと、
「Ever 17-the out of infinity-」の大団円エンディングは近年稀にみる清々しさだったこと、
マビノ×スタイル」はそのあまりのエヴァっぷりに幻滅してしまったけれど、
それでも僕はキッドによってギャルゲーの世界を教えられ、感性を育てられ、たくさんの感動をいただいてきたのです。キッドという、僕にとってはかけがえのないブランドよ、どうもありがとう。つーか滅びる前にマイメリの続編作って欲しかった。それだけが心残りです。